「秋山が立たされた理由」欄のある学級日誌 22冊目👫

如月 仁成

アマのせい


 車で三十分強。

 一言もしゃべらず祈り続ける穂咲の様子を見て。

 良くないことが起きているとは気付いていたのですが。


 よりによって車が滑り込んだのは。

 病院だったのです。


 そして夜間の受付を通り。

 スーツ姿の人だかりを掻き分けると。



 ベッドの上に。

 真っ白なお顔をして。

 穂咲のおじいちゃんが横たわっていたのです。



 あれほど元気だったおじいちゃんが。

 まるでおしろいでもはたいたような顔色で。


 いつもなら、穂咲を見つけると脳ごと揺さぶられるほどの声を上げるくせに。


「……おお。よう来た……」


 そばに耳を寄せねば聞き取れぬ程。

 弱々しいお声でつぶやくと。


 涙を流してすがる穂咲の頬を。

 筋張った手で撫でるのです。


「……穂咲ちゃんには、何もしてやれなんだな……」


 そう言いながら。

 すうと、細い糸を目尻から流すおじいちゃんは。


 すぐそばに立って。

 神妙な表情をしていたまーくんへ声をかけます。


「正次郎。お前が後見人になってやれ。……わしは、穂咲ちゃんに家を譲りたいと思うのじゃよ……」


 これには、居並ぶご親族の面々が揃ってざわついたのですが。

 俺は、血管が浮いたおじいちゃんの手を優しくとって。

 教えてあげました。


「そんなのを貰っても、穂咲は嬉しくないですよ。……それより、明日にでも一緒にお散歩してあげてください。初夏のお花が綺麗に咲き始めましたよ」

「おお……。散歩か……」


 力なく、ただ流れるに任せた涙を穂咲に拭いてもらいながら。

 虚ろな目で俺を見つめるおじいちゃん。


「君は……、穂咲ちゃんのボーイフレンド君か。藍川に名を連ねるのかもしれんのだな……」


 ドキッとするお言葉。

 でも、それに否定も肯定も出来ず。

 ただ、手を握る力を少しだけ無意識のうちに弱めます。


 そんな逃げ腰でどうするものか。

 おじいちゃんは、逃がさぬものと俺の手を握り返して。


「……学生のうちに教養をつけて、きたる日を準備しておくがいい。……君は、あいつに似た目をしておる。きっと成功する」

「ああ。道久君は、兄貴が育てたようなもんだからな」


 まーくんの言葉を聞いて。

 頷くように身動ぎしたおじいちゃん。


「そうか。……名前を、ようやく覚えることが出来そうじゃ。道久君か……。その名、もう忘れはしまいて……」

「おじいちゃん……」


 多分俺は、ありがとうと言いたかったのだと思う。

 でも、その言葉が正しいのかどうなのか。


 計りかねているうちに。

 握っていた手が。


 大きな、大きなおじいちゃんの手が。

 俺の手の平から。


 するりと落ちました。



 令和元年。

 五月三十一日のことでした…………。




 ~🌹~🌹~🌹~




 ~ 六月三日(月) けがされた~


 アマの花言葉

  あなたの親切が身にしみる



「がっはっはっは! 一晩寝たらすっきり!」

「人騒がせにもほどがあるのです」


 もう、何が何やら。

 あの後、お医者様が慌てて脈を取ると首をひねりだし。


 そのうち、おじいちゃん。

 ごがーごがーと高いびき。


 ……まさかとは思いますが。

 俺から寿命を吸い取ったりしてませんよね?

 

「百までぴんぴんしてそうです」

「おじいちゃん、長生きするの。はい、長生きの秘訣は梅干しなの」

「おお、穂咲ちゃんが漬けたのか! ならば苦手だが、食わないわけにはいかないのう!」


 そして、穂咲特製大粒梅干しを。

 すっぱいのうと、大声で笑いながら。

 種までボリボリと噛んで飲み込んでしまいましたが。


「百と、もう五、六十までぴんぴんしてそうです」

「ほんとなの。パパとはどえらい違いなの」


 そうですね。

 おじさんにも、これほどのバイタリティーがあれば。

 長生きできたのでしょうけど。


 俺も梅干しを一粒貰って。

 少しだけ寂しそうな顔をする穂咲に聞いてみました。


「でも、これがなんで長生きの秘訣なの?」

「……パパが、梅干し嫌いだったから」


 なるほど。

 言われてみればそうでした。


 しんみりする俺に反して。

 がっはがはがはと高笑いするおじいちゃん。


 とんだ大騒ぎなのですが。


「………………秋山」

「今日ばかりは、俺が怒られるのは筋違いなのです」


 そう。

 今は授業中。


 だというのに、この人。

 おばあちゃんとお付きの人を何人も連れて。

 教室に入ってきてしまったのです。


 そんなおじいちゃんに抱き付かれて。

 かいぐりかいぐりされるがままのこいつは藍川あいかわ穂咲ほさき


 軽い色に染めたゆるふわロング髪をお団子にして。

 そこにアマを何本か活けているのです。


 しかし、こんな滅茶苦茶。

 さすがに止めなきゃ。


 俺は頼みの綱にちらりと視線を向けると。

 キツネのような目が、すっと瞬きを一つしてくれました。


「さて旦那様。穂咲さんが学ぶ貴重な時間を奪うでは、将来に差し障るでしょう」

「おお、なるほど! そうじゃったな! 跡目になるには、しっかりと教養を付けんといかん!」

「道久さんも、しっかりと藍川に相応しい人物になるため勉学にいそしむように」


 二人して勝手なことを言っていますが。


 それより、おばあちゃんの言葉を聞いて。

 おじいちゃんが急に不機嫌顔。


「む? こんな馬の骨、我が家に何の関係がある?」

「旦那様がおっしゃったのです」

「おじいちゃんが言ってたの」

「そんなことは言っておらん。それになぜおまえはいつも穂咲ちゃんの隣におるのじゃ、マチルダ君」

「道久です」

「道久君なの」

「そんなことは聞いておらん」


 うーん。

 あのベッドにいた人。

 別人なのですね。


「よく分からんが、言ったと言うなら仕方ない。厳しく指導してくれよう」

「……お手柔らかに願います」

「専門家に教鞭をとらせるのが良かろう。貴様はどんな職に就きたいのじゃ?」

「それが、まだ……」


 そんな俺の返事に目くじらを立てたのは。

 おばあちゃんなのでした。


「何を馬鹿な! ちょっとそこへお座りなさい!」

「まあ、そう言うでない。男子などそんなものじゃ。大学に行ってから道を決めるでも遅くないじゃろう」


 ……大学?


「行けるはずないの、この学年最下位男が」

「最下位……っ!? 道久さん! すぐに正座なさい!」

「まあ、そう言うでない。男子などそんなものじゃ。マルゲリータ君にだって得意なものくらいあるじゃろう。それの良し悪しで判断するのじゃ」


 おじいちゃんに言われるでは。

 この裁判官も引かざるを得ないようで。


 とは言いましても。

 得意なものねえ?


「……道久君、お花には詳しいの」


 穂咲はそう言いますが。

 詳しいと言ってもたかが知れているのですけど。


「よろしい。では道久さん、亜麻の花について説明なさい」

「はあ。……最近では亜麻仁油が健康にいいとみなおされていますが、その原料だったりしますよね」

「ふむ。……他には?」

「あとは繊維も有名で、かなり昔から被服に重宝されていたようです。フランス語ではアマのことをランと言いまして、ランの繊維を使用した女性の高級下着がランジェリーと呼ばれてぐへえっ!」


 一瞬で天地がひっくり返って。

 背中を強打。


「破廉恥な! 穂咲ちゃんになんてことを聞かせるのじゃ!」


 いつもの背負い投げを食らった俺ですが

 でも、投げ飛ばされた風圧というか。

 顔の位置というか。



 ……ちらりと見えたレモン色。



「しかも、今見たな!?  穂咲ちゃんを汚されたではただじゃ済まんぞ!」

「怪我されたのは俺の方です」

「面白いの。同音異義語ってやつなの」


 君はのんきなものですね。

 俺がひどい目に遭っているというのに。


「面白かったご褒美に助けたげるの。おじいちゃん、道久君は見てないの」

「ホントじゃな!?」

「は、はい」

「ホントにホントじゃな!?」


 うわあ、この剣幕。

 つい白状しそうになってしまいましたが。


「女子はね? そういう事に敏感だから分かるの。ねえ。おばあちゃん」

「はい。そういうものですよ、旦那様」


 ここで思わぬ助け舟。

 でも、そう言いながら俺に向けられたおばあちゃんの視線がブリザード。


 そうですよね。

 敏感だから分かるのですよね。


「……道久さんには、しっかりと教養を付けていただかねばなりませんね」


 その御親切。

 高くつきそうなのです。



 背筋に冷たいものを走らせながら。

 台風が扉から去っていく姿を眺めていた俺でしたが。


「おい。お見送りくらいせんでどうする」

「……うまいことおっしゃる」


 この人、怒りを俺にぶつけて。

 上手い口実と共に、廊下へ追いやるのでした。


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