(2)
左手で眼鏡を押し上げ、右目の辺りを触る。さっき外に出たとき、ゴミが目に入ってからずっと違和感がある。
「ゴミ取れないの?」
「いや、取れたとは思うんですけど」
隣のデスクの先輩と話しながら、少し下がりすぎた眼鏡の位置を右手の中指で正しくセットし直す。存在感が消えていたモニタの上の方に、鮮明さを取り戻させる。
「目薬さしたら? 持ってたよね」
「あっ、でも、ちょっと」
「切らしてるとか? じゃあ、はい」
目薬を受け取ってしまった。眼鏡を再びずらして、ぼやけた視界の上方から正確に水滴をぽつっ、ぽつっと落とす。目をぱちぱちさせながら仕事に戻ると、いつの間にか、あらぬ方向に、ビームを模した赤線が飛んでいた。本当に見ていなかった、いつの間に。
「あはは、大暴投」
「もう、笑わないでください」
左向きの矢印をクリックすると、光の線は正しい向きを取り戻す。たくさんのパラメータを順に振って、所望のスペックを満たせるか、計算機上で逐一確認していく。
大学の工学部を出た後、私は光学シミュレーションに関するソフトウェアの会社に勤め始めた。光に関する製品を扱うお客様から来た依頼を、コンピュータ上で解析して、結果を実物に活かしていただくというお仕事だ。
大学での私は光学の勉強をしていて、就職活動の最初は有名なレンズやプリンタの会社ばかり見ていたのに、いつの間にか流し流されここに行き着いていた。
なんでこうなったんだろうと思わなくもないけど、シミュレーションというのは自分に合っているな、と就職した今、思う。
私はプレッシャーに弱いから、営業なんかは厳しそうだし、手先が不器用だから、大学でやっていたような精密で大掛かりな実験は不得手だ。
シミュレーションなら、自分のペースで、物を壊すリスクも無く進められる。ただ、今の仕事は、実際の物を扱っていないからこそ、気をつけないといけないことも多いけれど(極端な話、何億度の熱さでも耐えるLEDだって作れてしまう!)。
作業に一区切りをつけて窓の方を見ると、いつの間にか外には夜が訪れている。今は十月。すっかり日が落ちるのも早くなりましたね、と会話しながら、私は上着を羽織って部屋を後にする。
東京のオフィス街には、たくさんの光が溢れている。街灯、電車、駅ビル、まだ仕事を頑張っているオフィスの部屋の明かり。山手線の構内から漏れる眩しい明かりに、多くの人が吸い込まれていく。
顔を上げても、ほとんど星が見えない。そのことに、私はとても安心する。
就職先が東京だったのは偶然だけれど、私が日本で一番星から遠いこの街に来ることは、必然だったのかもしれない。星を手放したあの日から既に、約束されていたような気さえする。
次々に通り過ぎていく車の光を眼鏡の端に映しながら、私もまた、白く煌々と灯る駅の明かりの中に混じっていく。
ベッドに腰掛けながら、携帯の画面に浮かぶメッセージを読む。
「
その下に、両手を合わせてぺこぺこ謝る熊のキャラクターが単調に動いていた。謝る必要なんてないのに。大丈夫だよ、今日もお仕事お疲れさま、と書いて、うさぎのキャラクターが湯呑みを差し出して労るスタンプも送信する。
私の彼氏、
悠輔くんは私の二つ上で、大学の研究室が同じだった。当時の私は学部生、彼は大学院生。その頃は実験の質問で会話するくらいだったけれど、上京してから再会して、何度か会ううちに自然とお付き合いを始めていた。
彼は多忙な日々を送っているけれど、楽しそうではあって、純粋にすごいなあと尊敬している。失敗して何百万もの部品を壊してしまった話とかも、笑いながら平気でしてきて、変な話だけれど、向いているんだなあと思う。
私はタンスの引き出しを開けて、動きやすい適当な服を見繕う。
さあ。彼が来ないのなら、夜を散歩しに行こう。
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