第5話 そして…

 まず、ここまで読んでくださったことに心から感謝申し上げます。


 看取りや死というデリケートな事について書いていますし、無意識に滲みだした負の感情に、もしかしたら読まれて不快に思われた方もおられたかもしれません。

 そんな思いをさせてしまったとしたら、ごめんなさい。



 わたしは今まで家族として三人の生き様、死に様を身近に、この目で見てきました。


 喪主を務める事もしましたし、遺族としてお通夜、告別式も執り行ってきましたが、こればかりは慣れるものではありませんね。


 愛する者のそれは悲しく辛いことでありましたし、向き合うことの難しさ・・・

 正直、今でも向き合えていたのか、向き合えているのか、と自問しても自信はありません。


 時間が経つほど、本当にわたしが出来たことは、あれで精一杯だったのだろうか、と考えると、わからなくなってきます。


 ただ、故人たちは、その身をもって考えさせてくれました。


 命の呆気あっけなさと重さ、生きることの厳しさと、ちゃんと死んでいくということ。

 綺麗事きれいごとでない命というものの意味。

 生身なまみの生死という事を。


 ”わたしはちゃんと生きて、ちゃんと死んでいけるのだろうか”

 これは詩にも書いてきましたが、

 ”ちゃんと生き抜いて、ちゃんと死んでいくことの難しさ” を思わずにはいられないのです。



 今、わたし自身、歳を重ね、病を患う身となりました。

 母の後にも伯母二人、伯父を見送りました。

 年齢的にそういう時期に差し掛かっているとはいえ、櫛の歯が抜けるように去って逝く人を見送るのは、やはり寂しいものです。



 果たして、わたしは先人達の様にちゃんと生き抜いて、ちゃんと死ぬことができるのだろうか。


 それを考えるには、まだ少しばかり早すぎる気もしますし、考えすぎて迷路に入ってしまっては本末転倒だとも思うのですが。



 こんな重いテーマで書いていながら今更ですが、わたしは結構、脳天気でもあります。


 小心者なので変に真面目だったりはしますが、ポッカリと抜けているし(「ごった煮ノート」を読んでくださった方はご存知ですよね)器が小さい分、目を細めてボンヤリと現実を見ないと潰れてしまうのです。


 本当は打たれ弱いし、気にしたがり屋でもあります。


 けれど、こんなヘタレなわたしでもナントカカントカ今、生きているということ。

 歳相応の落ち着きも持てないまま、ここまできてしまいましたが、歳を重ねて良かったことは、そんな駄目な自分を少しだけ許せるようになってきたことでしょうか。



 長くなってしまいました。

 もっとこんな風に……とか、言葉足りずだったり、反対に書いて良かったのだろうか……とか、考えないといえば嘘になる、相変わらずの思い切りの悪さです。


 けれど、やっぱり書くことができて良かった。今、書かねば書けなかった。



 だから最後にもう一度、いや何度でも言わせてください。


 ” ありがとうございました”



 *つきの*

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