この道を歩いて

つきの

第1話 夫のこと

 それまでにも死ということを意識しなかったわけではないけれど、それは薄い膜の向こうにあるようで実感を伴ったものでは無かった気がします。


 夫は30歳で発病し33歳で亡くなりました。

 原因は癌で、抗がん剤、放射線治療と何度もの手術と入退院を繰り返しました。


 癌であることは治療に必要だから本人に伝えていましたが、余命宣告された時は、さすがに本人には言えませんでした。


 それが良かったのか悪かったのかは今でもわかりませんが、末期には痛みとの戦いだったので、これ以上の苦しみを与えるに忍びなかったのも事実です。



 夫は優しい人でしたが、飲酒癖があり、ハードであった仕事のストレスをお酒で紛らす一面がありました。

 お酒が覚めれば、悪かったと心底謝ってくる。

 わたしたちは幼馴染で結婚した夫婦でしたので、夫のどこかに気心の知れた同士の甘えもあったんだと思います。


 わたしの方は一方的にお酒を飲んではぶつけられるストレスに疲れきっていて、この頃、夫婦関係はあまり良い状態とはいえませんでした。



 最期は緩和ケア病棟で過ごしました。

 余命宣告を受けた時も足元が崩れるような気持ちでしたが、この最期の一ヶ月余りも辛いものでした。


 目の前に確実に逃れられぬ死に向かっている人がいて、出来ることは少しでも痛みを和らげるようにと医師に懇願することと、あとは死にゆく姿を見ていることだけ。


 あれほど死というものを見せつけられたのは初めてでした。


 それでも何とか気を張り詰めていられたのは、一人では無かったからだと思います。


 わたしたちには三人の子供がおりました。

 末っ子は、その時まだ3歳でした。



 危篤と持ち直すことを何度か繰り返して、最期の日はやってきました。


 いよいよ危ないとなってからは、わたしは子供達を実家に預けて、病室に泊まり込んでいました。


 ベットの横のソファでいつの間にか、うとうととしていた夜明け前、巡回の看護師さんから

 ”ご主人が亡くなられています” と

 声をかけられました。


 よろよろと立ち上がったわたしがベットの側にいくと、そこには苦しみから解放された穏やかな夫の姿がありました。


「なんで、なんで、黙って……最期まで勝手だよ……」

 わたしが言葉にできたのはそれだけでした。


 ”奥さんが疲れているのを知っていたから、起こさないように、そっと旅立ったのよ”

 看護師さんが優しく言ってくれました。

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