第2話 古街オーリーク

 雲一つない暖かい昼の日差しがこの北欧の古い街並みを照らしていた。

 スウェーデン中南部の古街オーリーク。

 レンガや石で作られた彩豊かな住宅群が大通りに添い並べられ、街の象徴ともいえる中世から残る塔より正午を知らせる鐘の音が響き渡る。

 ここらが街の中心ゆえだろうか、レストランや喫茶店、露店などの飲食店が数多く見られ、昼食時もあって沢山の人々が行き交っている。


 ここ一帯を食欲を刺激する香りが漂う中、その大通りにぽつんとある木製のベンチには街の雰囲気からは際立った奇妙な二人が腰掛けていた。

 片やその街に住まう色素の薄く彫りの深い顔立ちをした人種とは異なり、凹凸のハッキリした顔立ちだが黄褐色じみた肌に黒く染まった髪と瞳を持った東洋人の男性。

 隣には男のふた回り程小柄な輪郭があったが、それは全身を覆うように白い外套で隠され、その頭巾フードで表情さえも隠れ窺えない怪しい人物だった。


「……やっぱり、これじゃ言葉が通じないじゃないか。あの男の知ったかぶりもここまで害を与えるとなると、今まで不敬罪で牢屋にぶち込まれていないのが不思議なくらいだ……」


 東洋人の若い男がウンザリと疲れたように呟いた。

 ボサボサと伸ばされた黒髪の下には若く端正な造りがあったが、そこに刻まれた疲れを溜めた深い眉間と鋭い目付きが歳よりも大人びてみせている。

 その姿は武術家のように隙がなく洗礼され、まるで支柱が埋め込まれているのかと背筋を真っ直ぐと伸ばした様には鼠色の背広が上手に栄えている、筈だった。

 がしかし、今現在それは不貞腐れたように頭を項垂れ、肩を力無く落としただらしのない姿を街中に晒している。


 男の垂らされたその手の中には使い古された手帳が開かれていた。

 その彼の呟きに白外套の人物がチラリとその手帳を覗き見て、呆れたように首を微かに横へ振る。


「この翻訳帳も役に立たないし調査の進めようがないぞ……せめてロシア語かドイツ語さえ通じてくればいいんだが、流石にこんな田舎街には何ヶ国語も話せる人はいないのか? チクショウ、こんな事になるなら通訳くらいは雇うべきだったか……」


 男は後悔を滲ませた深い溜息を吐き出す。

 そのままブツブツと文句を垂れ流すも、ふと耳に入る活気に何気無く頭を上げ周囲を見渡した。


 冬が明けて久しい暖かい陽の光に地元民は皆、幸せに満ち溢れた笑顔を浮かべている。

 まだ肌寒さが残る中、その陽を浴びる為に数多のテラスは多くの人々で埋め尽くされ、食事や読書など思い思いの時間を過ごしていた。

 男はじっとその様子を眺めているとその街中の雰囲気に感化されたのか、気持ちを入れ替えるように勢いよく掛け声と共に立ち上がる。

 それから手帳を雑に胸ポケットに仕舞い込むと、ベンチに座っていたもう一人へ吹っ切れた、または開き直ったかのような表情で向き直った。


「しょうがない、腹が減っては何とやらだ。辺りの旨そうな匂いを嗅いでいたら腹が減ってきた。とりあえず、昼食を摂ってから後々の事を考え直すとしよう」


 男はエスコートするかのようにもう一人へ手を差し伸べる。

 白外套の人物は何も言わず、外套の陰から余りある長袖に包まれた細い腕を日に晒すとその手を握って立ち上がる。

 そして、心なしかスキップをするように弾んだ足取りで、明るく賑やかな街の中を男と並んで歩いて行った。




 §




 何処の店もこの昼食時だと席の空きがなく、二人はその足を街の外れまで進める事となった。

 右を向けばのどかな平原、反対を向けば木製の庭付き一軒家がポツポツと散らばり、その奥には今さっきまで近くあったはずの数々の塔が覗いている。

 流石に遠くまで来過ぎたか、と歩みを止め、振り返りながら東洋人がぼやく。

 その視線の先には隣を歩いていた白外套の人物が疲れたようにふらふらと足取りを漂わせ、遅れながら男の後を追って来ていた。


 やっとの事で男の所まで辿り着くと、それは膝に手をつくように前屈みになりその場で息を整え始めた。

 その様子に困り果てながら男は頭の裏を手で擦る。

 何処かに休憩場所はないかとキョロキョロと周囲を見渡すとそこに、ある一軒家に立て掛けられた看板が目に入った。

 この国の言葉を理解していない男だが、その看板に書かれていた文字の意味は先程の大通りで見かけ知っている。


「どうやら喫茶店のようだな。ここまで来た甲斐がとりあえずはあったじゃないか。昼食ついでにあそこで一休みをしよう」


 男の提案を聞くと、体を小さくしていた白外套の人物が頭巾に覆われた頭をハッとするように上げ、その看板を自身も確認する。

 すると、今さっきまでの疲れが吹き飛んだかのように早歩きでそこに向かい出す。

 男は呆れたように小さく頭を振り、足取りをどこか重くしながらその後を追った。




 店の扉を開けると呼び鈴の音と共に、コーヒーと焼き菓子の甘い匂いが来客の身に触れる。

 店内は思ったよりも広くその内装などは古さを感じさせたが、数ある窓からは陽の光が暖かく注ぎ込まれ、年季の入った木製の家具類も相まってどこか自然を思わせ心を落ち着かせる場所となっていた。

 恐らく此処が街の郊外なためか、少し昼時を過ぎた時間にしては客席には人が見当たらない。

 二人は中へと足を踏み入れるとオーナーと思われる壮年の男主人が店の奥から姿を表した。

 恰幅の良い男性だ。大男と言わないまでも背は高く、その姿にはある種の威圧感を覚えそうだが、その優しげな青い双眸と笑顔に寄ったシワがその人柄の良さを表しているようで妙な安心感を与えている。


 主人は見慣れない二人組に一瞬怪訝そうな表情を浮かべたものの、それを直ぐに接客顔の裏に隠すと二人に向かっていくつか語り掛けてきた。

 しかし、この国の言語を理解出来ない東洋人は愛想笑いを浮かべて適当に受け答え、それから身振り手振りでなんとか意思疎通を図る。

 その意思が伝わったのか、主人はそれに納得したかのように頷くと二人を奥の客席へと案内をしてくれた。

 そして案内を終えると一言告げ、カウンターの奥へと彼らを一瞥してから去って行く。


「…………」


 その後ろ姿を東洋人はじっと見送ると、やっとの事で椅子へ腰を下ろした。

 体を落ち着けられた事へ、思わずホッと吐息を溢こぼす東洋人。

 しかし気分を和らげれたのはほんの数秒程度だった。


『——っ!』


 向かいに座ったマントの人物が催促をするように、テーブルをバンバンと布越しの手で煩く叩き出す。


「ハァ……。ハイハイ、ご注文でゴザイますね……」


 東洋人は再びの吐息と共に、店内を見回しメニューらしき物を探す。カウンター横にそれらしき黒板があったものの書かれた文字列を見て瞬時に諦めると、胸元から手帳を取り出しカウンターの方へと声を掛ける。


 まもなくして先程の男主人がメモ帳とペンを片手に再び姿を現す。

 東洋人は開いた手帳を険しい表情で覗き込んでいたが、そこに書かれた内容では会話が成立しない事は今までの経験で百も承知なのだろう。早々にがっくりと肩を落としながらそのただの紙束をしまい込み、身動きを加えながら何とか意思疎通を図った。


「えーっと、昼食は何て言うんだ……る、ルンシュ? を二人分、で」

『……? lunch? två?』

「そ、そうそう! トゥボトゥボ! ルンシュトゥボ。で、えー……ニシンの塩漬けシュールストレミングだけは抜いて下さい。ヌキ、いらない、わかります? あー……ヌキ? ヌキッ、ヌーキですよ?」

「ぷっ……!」


 堪え切れなかったかのように向かいの人物からプスプスと堪えるように吹き出す。可笑しな手話に続き、一つの単語に強弱を加え繰り返している様が阿保の様に見えてしまったのだろう。

 その声に東洋人は愛想笑いを凍りつかせ、鋭い目付きを更に薄めながらその頭巾の中を睨みつける。


「……もしかしてドイツ語なら理解できるかな?」


その近くで男主人がどうしたものかと困った表情でポツリと此処ではない他国の言葉を呟いた。

 その言葉にすぐさま反応を示す東洋人。驚きに惚けた顔でバッと反射的に主人の方へと向き直った。

 そして今のが聞き間違いでは無いことを呑み込むと、テーブルを力強く叩き腰を上げ主人へと詰め寄る。


「えぇ! ドイツ語は分かります! もしかして、貴方もドイツ語を話せるのですか?」

「あ、あぁ……実家の事情でね。日常会話ぐらいなら問題なく話せるが……」


 興奮した様子に若干後退りながら主人が返す。

 主人のその不審げな様子から自身が焦っている事を東洋人は自覚した様だ。


「あ、すみません。この街に来てからずっと言葉が通じず困っていたもので、会話が成立した事に興奮してしまって……あぁ、遅くなりましたが、シンと申します」


 東洋人の男——シンは身を引き真摯に謝罪をすると右手を差し出す。

 戸惑った様子で店主の視線はその右手と彼の表情を何度も行き来する。しかしそれも束の間で、彼の素直な態度や紳士的な佇まいに信用を得たのか人柄の良さそうな笑みを浮かべ、伸ばされた右手を掴み握手を交わす。


「オーリークへようこそシン。私の名はファルセンだ。しかし東洋人がこんな北方の田舎に来るとは珍しい。出身は中国かい? 見たところ北東諸国のモンゴル系ではない様だが……」


 交えた手にほっと一息吐くと、シンは親しみを込めた笑みを返した。


「いいえ、日本から来ました」

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