こちら他殺請負業社

阿部 梅吉

樋元陽介①

 まだ五月だってのに、うだるような暑さの残る土曜日の夜8時に彼女は来た。なんのことはない、ただ普通に鍵を使ってご丁寧に入ってきた。窓を割るとかピッキングとか派手なことはしない。その頃ちょうど、コロッケの色が変わってきたところだった。彼女は音もなく僕の背後に忍び寄った。

「今良いところなんだ。悪いけど。あと1分くらい待ってくれないかな」本当にそれは微妙なとこだった。知ってのとおり、揚げ物は時間との勝負だ。少しでも多く揚げ過ぎると油を吸って美味しくなくなる。

「僕の鍵の番号を知っているんなら、僕の好物だって知っているはずだよね」

「……」女は何も言わなかった。僕はさらにクッキングペーパーを置いた。

「本当はあまりクッキングペーパーに置かない方がいい。逆に油を吸うんだ」

「……」女は何も言わなかった。僕はまだ彼女の顔を見ることはできていない。

「君は小枝君の友達かな?」

「彼女よ」低くも高くもない小さい声だった。しかし透き通るような何かがある。おそらく彼女は美人だ。美人ってのは周りが寄ってくるから日常的に大きい声を出す必要が無いのだ。

「そうだったのか。知らなかった」僕はコロッケの色をくまなく確認して、皿に上げた。

「あの子に彼女がいたとは知らなかった。じゃあ僕は三人目だったのかな?」

「さあね? でもあんたと付き合ってから、あの子が変わったのよ」

「そうなのかな。僕の前ではいい子だったよ」

「あなた、奥さんがいたでしょう」

「今はいない。だからこうやってコロッケを一人で食べている。キャベツもあるし」

「子供だっている」

「前妻のとこに行ってしまったよ」

「奈美と付き合っていた時、あんたはまだ離婚していなかった」

「いや、もう別居していた。事実上の離婚時期だった」

「法的にはまだ婚約していたはずだ」

「紙の上だけでね。でももう3年も別居していれば事実上の離婚だよ」

「あんたは子供も奥さんもいるのに奈美にそんなこと一言も言わなかったじゃないか」

「僕は結婚指輪をしていた。彼女だってそれに気づいていたはずだ。ベッドに入る前にはちゃんとテーブルに毎回置いていたしね」

「離婚する嫁との指輪を毎回していたとは考えにくいね」

「癖なんだ。もう10年も一緒だったし」

「今はしていないじゃないか」

「離婚するときに返したんだ」

「まあいい。お前は今夜ここで死ぬ」

「うん。それもいいけど、コロッケが冷めるよ」僕は振り向きざまに、彼女の肘を抑えた。シンクに反射する、歪んだ彼女の姿を横目でずっとチラチラ見ていたから、案外それはたやすくできた。

「スタンガンか」と僕は言った。彼女の両肘を掴み、両足で彼女の足を固定させた。

「あとはポケットにアイスピックか。手口としては悪く無い。でも夕飯を食べてからにしようよ。時間はあるし。……ああ、舌なんか噛んでも死なないからやらないでおくれよ」

「……」彼女は紺のジャージにバイク用のヘルメットを被っていた。そんなもの邪魔な気がするのだが、僕の家のエレベーターには防犯カメラもあるし、その対策だろう。

「とりあえず食べよう。漬物もあるよ。僕が漬けているんだ」

「……っ」荒い息だけが聞こえた。

「あ、今準備するから。ソースと醤油どっちがいい?」

「……」

「とりあえずどっちも出すか。混ぜてもおいしいんだよね」僕は食卓にご飯を運ぶ。ご飯とナスの味噌汁と大根の漬物とコロッケを出した。

「ちょっと多めに作ったからちょうどよかった。とりあえず食べて海まで行こうよ」

「いや、あんたはここで死ぬ」

「海で死んだ方がいいよ。バイクがあるならバイクで、二人乗りしよう。その方が事故死に見えるよから君も都合がいいだろう。ここで死ぬといろいろ厄介じゃないか?」

「うまくやる」

「バイクは昔もう返還しちゃったんだ。いい奴だったよ。ニンジャに乗っていたんだけどね。よく海まで行った。ここの海じゃないよ。地元の」

「……」

「食べていいよ。箸はそれ使いなよ。何か曲をかけよう。何がいいかな。ジャズとか好き?」

「……」

「ムーンライトセレナーデか。うーん気分じゃないじゃないな。どうしようかな。最近アップルミュージックって入れてみたんだ。結構いいよ。バッハの『目覚めよと呼ぶ声あり』かあ。今、夜なんだけどなあ。これって朝に聴くよね。まあいいや。これにしよう」僕はボタンを押す。穏やかなホルンの音色が流れる。

「夜って何を聴くべきなんだろうね。朝とか夕方はまだわかるんだけど。あんまりに煩いのも湿っぽいのも嫌だから毎回迷うんだ」

「……」

「あれ。これオーケストラバージョンもいいね。聴いてみようか」

「……」

「フルートいいね。吹奏楽バージョンのホルンが好きだったけど。これもいいな」

「……」

「あ、あつい」

「……」

「食べないの? 熱いけどさくさくしているよ」

「……」

「食べていいよ。どうせ今夜死ぬんだ。っていうかヘルメット暑くない?」

「あんたが死んだら食べる」

「僕が死んだあとに僕の部屋に不用意に出入りしない方がいい。今のうちに食べてさっさと僕を殺しなよ。あ、このオーケストラバージョンてオルガンも入っているのかな? すごいいいね」

「……御託は良いからささっと食べろよ」

「うん。おいしいよ。醤油つけると美味しいんだけど、なかなかこういう食べ方する人はいないよね」

「今度試してみるよ」

「うん。ところで本当に食べないの? 結構自信作なんだけどね。家でコロッケなんか作らないでしょ?」

「作らない」

「うん。だから今熱いうちに食べるんだ。何事もそうだよ」

「そうね」

彼女はテーブルに座りながら、真正面から僕の腹にナイフを刺した。よけようと思えばよけれたが、なんとなくためらった。ただし腹だ。急所ではない。

「何事も熱いうちが一番ね」

「食事中くらい黙って食べさせてくれればいいのに。そんなに急ぐことかな。あと血が出てきて結構痛いし、フローリングの上に一応結構高い絨毯敷いているんだけど。これじゃあ君の指紋とかこの家から検出されるんじゃないかな」

「指紋はあとで消せるから」

「君、技術調査員か鑑定士なのかな。証拠隠滅がいくらでもできるんだ」

「……」

「まあいいや。図星でもなんでも。最後に海が見たかったんだけどさ。それにこの程度だと、結構痛いけど、不幸なことに死ねないよ多分。だからさ、あのスパイスの入っている扉、ああの奥に薬があるから、数年前に医者に処方されたやつをとっておいているんだ。効くかわからないけど、それを入れよう、いや、やっぱり」

 僕は腹に刺さった包丁を抜いて、自分の首を切った。

「ああ、結局誰に頼んでも自分で死ぬしかないんだ」



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