アニメ映画
すごろく
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「――でさあ、でさあ、ほんとすごかったんだって!」
樫本が唾を飛ばして熱弁している。樫本とは僕の友人である。
「はいはい、そうだったのね」
僕は生返事をしながら、目を向けている本のページをめくった。正直なところ、本の文章も樫本の話もどちらもまともに頭に入ってこない。
「なあ、お前ちゃんと聞いてないだろ」
樫本が不満げに頬を膨らませる。不細工なフグみたいだ。
「え? あ、聞いてるよ。聞いてる聞いてる」
「じゃあ俺が今何の話をしてたか言ってみろよ」
「あ? うん、えっと・・・・・・ごめん、やっぱ聞いてなかった」
「何で一瞬嘘つこうとしたんだよ」
「だからごめんって」
「はあ、映画だよ。映画の話」
「ああ、映画の話・・・・・・何の?」
「アニメ映画。キョートアニメーション制作の」
「キョートアニメーション?」
「まさかお前それも知らないの?」
樫本は文化が真逆の外国人を見るかのような目で僕を見た。
「いや、アニメ会社ってことくらいはわかるよ」
「・・・・・・お前、ほんとアニメに興味ないんだな・・・・・・」
「興味ないっていうか・・・・・・観る機会が少ないだけだよ、単純に」
最後に観たアニメ作品はジブリのどれかだった気がするが、タイトルは思い出せない。あと憶えているのは幼い頃に観た『トムとジェリー』くらいか。
「それを興味ないって言うんだろ。興味あったら観る機会なんて勝手にできるもんだ」
「そう・・・・・・なのかね」
「そうだ、お前、俺が話してた作品観てこいよ」
「は?」
「チケット余ってんだよ。本当は別の友達と行く予定だったんだけど、そいつ別のやつとすでに観ていやがってさ。しかもそいつもう一度観たからいいって抜かしやがるんだぜ。オタクの風上にも置けないよな。少なくとも二回は観るのが基本だろ」
「そういうの僕にはわかんないけど」
「とにかく行ってこいよ。これでお前がアニメに興味持ってくれれば、俺としてもお前と接しやすくなるし、オタク友達も増えて一石二鳥だ」
「いや、でもこういうのは本当に行きたい人に――」
「ごちゃごちゃ言うな。どうせお前暇だろ?」
「確かに暇だけども・・・・・・」
「じゃあいいだろ。渡しとくからな。行かなかったら行かなかったでそう連絡くれりゃいいから」
樫本はポケットから無造作に取り出したくしゃくしゃのチケットを、半ば強引に僕の手の中に押し込んだ。
「あとこれテレビでやってたアニメの続編的な映画だから、うちにあるDVD貸すよ。いやな、もちろんテレビ放映版を観てなくとも楽しめる作品にはなってるんだけどな、観といた方が作品としての深みがわかるとかいうか、尊さが限界突破するというか――」
また樫本にスイッチが入って長くなりそうになった頃に、タイミングを見計らったようにチャイムが鳴る。それと同時に教室に担任の教師が入ってくる。
「とにかくだ、DVDも貸すから今日俺んち来てくれってことだ。じゃ、また後で」
結局樫本は一方的にまくし立てた後、自分の席へと戻っていった。
僕は手の中にある、ゴミ箱の底に押し付けられていたようにへなへなでぺしゃんこの映画チケットを、漫然と見つめた。
放課後、これまた強引に連れていかれる形で樫本の家へ行き、テレビアニメのDVDとやらが入った箱を丸ごと渡された。一応持ち運びしやすいように紙袋には入れてくれたが、なかなか重かったので自宅に到着するまでに一苦労した。運んでいる最中は頻繁に持つ腕を左右入れ替えたが、どちらの腕も伸びきったゴムみたいな痛みを感じていた。
樫本が語っていたアニメ映画を観に行くかどうかはまだ決心がついていなかったが、とりあえず貸してもらった手前、このDVDは観ておこうと思い、埃を被っていた小型DVDプレイヤーを引っ張り出してきて起動させた。
視聴を始めてみると、どうやら高校の吹奏楽部がテーマの作品のようだった。共学が舞台のはずなのに、なぜか女性の主要人物ばかりが出てくる。しかもどれもこれも美少女と形容されるような容姿だ。醜貌の人はともかく、現実では圧倒的に多いはずの可もなく不可もない顔つきの人も出てこない。はっきりいって全員同じ顔に見える。
いや、アニメにおいてそういうツッコミは野暮なのだろう。肝心なのは内容だ。結局のところ、物語が付属されている創作物の面白さというのは脚本がどれだけ練り上げられているのかという部分が大きい。アニメや映画などの映像作品なら、それに演出という要素がプラスされるといったところだろう。僕は全然詳しくないが。
とにかく内容に注視しようと気を張ってみたが、なんというか、すぐに飽きが来た。話があまり頭に入ってこないのである。登場人物が美麗な顔の女性ばかりである違和感とか、そういうのを排しても、どう言っていいのか、「ほら、感動しろ」と言わんばかりのオーラがどうにも鼻につくのだ。確かに作画、というのだろうか、絵の感じは綺麗だ。丁寧に作られていることが窺える。音楽も綺麗な感じだ。でもその二つが合わさると、「きらきらの青春」という非現実的な要素があまりにも強調されて、こんな言い方をしていいのかわからないが、すごく芝居じみた薄ら寒さがあった。思春期の少女にありそうではあるけど結局大人が勝手に考えてそうな悩みの描写とか、同性愛じみたスキンシップの表現だとか、観れば観ていくほど芝居じみていて、しまいにはだんだんとイラついてきた。
こんなものを樫本は面白いと思ったのかと見下すような感情が湧きそうになったが、さすがにそれは酷いと思い直す。人には好みというものがある。単純にこれは自分の好みに合っていないというだけだろうし、もしかしたらアニメに慣れていないからあまり理解できていないのかもしれない。観るタイミングというものもある。あるタイミングで観て今一つだと思った作品も、別のタイミングで観てみれば傑作だと思い直すことなど往々にしてあるのだ。ただ一度きりの感想で評価を決めてしまうのは良くないし、自分と違う好みを持つ友人を見下すなどということはもっての外だ。
僕は自分をそう戒めてほっとした。それはそれとして、視聴は途中で断念した。
さて、せっかくもらった映画チケットではあるが、テレビアニメの方でこれでは映画の方も到底楽しめる気がしない。ここは申し訳ないが断るかと、樫本に電話をするためにスマホを手に取ったのだが、少し逡巡した後に机の上に置いた。
――いや、観に行ってみようか。
なぜそう思ったのか自分でもよくわからないのだけれど、半ば押し付けられたとはいえ受け取ってしまった手前、端から観ることを拒否した連絡をするのか如何なものかと思ったこともあるし、テレビアニメがダメでも映画なら大丈夫かもしれないという可能性を考えたということもあった。何せ映画館というのは独特かつ特殊な空間だ。あそこで映画を観ると、駄作でもそれなりの作品に思えるし、凡作でも秀作に思えるし、名作なんて観れば神の創造物のように思える。まさに映画という媒体を最大限に活かすために築き上げられた施設だと言えた。
樫本にも見抜かれていたが、僕は学校に行っているとき以外は年がら年中暇なのだ。大して趣味もないので、休日なんかは大体布団に包まって無意味に頭にも残らないネットニュースを徘徊したりすること以外にやることがない。それならば、気に入るか気に入らないかは別として、友人の勧めた映画を観に行く方がよっぽど有意義な時間の過ごし方だろう。
それはそれとして、やはりテレビアニメの方の続きを観る気にはなれなかったので、DVD一式はそっと紙袋の中に戻した。樫本には、とりあえず「全部観た」と嘘をついておけばいいかなと適当に思った。
週末、僕は近場の映画館に来ていた。客は家族連れやカップルっぽいのが何組かいて、そこまで混雑していないように思えた。
今朝、ふとそういえばアニメ映画なんて一人で観に行くものなのだろうかと謎の不安を覚え、それについて樫本に電話をしたのだが、樫本の返答は一言で、「元は深夜アニメだしオオトモ向けだから大丈夫」というものだった。オオトモが誰かはわからなかったが、とりあえず男が一人で観に行っても問題ないという意味であることはわかった。
受付で映画チケットを差し出し、席番号が書かれた紙をもらう。そういえば映画館を最後に訪れたのはもう二年か三年ほど前だな、と今更になって思い出す。最後に観た映画は何だったか。こてこてのハリウッド映画だった気もするし、のりのりのコメディだった気もするし、しんみりするような感動系だった気もするし、淡々としたドキュメンタリーだった気もする。でもまあ何を観ていたとしても、記憶に残っていないということは確かだった。
シアターに入り、指定された席に座る。真ん中あたりのブロックの三列目くらいの左端。良い位置のように思える。いや、正直なところ僕は映画館においての席の位置の重要性など寸分も理解していないのだけれど、いつでも指定された席はどこの席よりも良い席のように思える。
上映時間が近づいてくるにつれて、空いていた席もだんだんと埋まっていく。深夜アニメの原作だからあまり人は入ってこないのではないかと予想していたが、自分が思っていたよりも多く、シアター内の席の八割がたは埋まっていた。樫本が言っていた通り、独り者らしき男性客が多いような気がした。かくいう僕の隣の席にも、それらしき男性客が座っていた。まるでテレビのドキュメンタリーで観た東南アジアの修行僧みたいに痩せた人だった。この人たちがオオトモと呼ばれる存在なのかどうかは、僕の知識ではわからなかった。
上映時間になる。シアターのライトが一気に消灯される。この瞬間、シアターの空気がピンと張り詰める、ような感じがする。少なくとも僕はどうにもこの瞬間は緊張してしまって、自然と背筋を伸ばして微妙に前屈みの姿勢になってしまう。
映写機の回る音がする。ぼんやりスクリーンが照らされて、映像を映し出し始める。最初は注意や予告から。またお馴染みのカメラ頭の男がサイレンランプ頭の男に捕まっている。予告は様々。アメリカのアクション大作、現実の事件を基にした凄惨なサスペンス、日本らしい湿っぽい雰囲気の邦画、如何にもおどろおどろしいホラー、人気のアイドルを起用して普段映画を観ない若い女性層を取り込む気満々なのが透けている恋愛映画――。
予告は時には退屈で、時には刺激的だ。これはつまらなさそうだと勝手に思ってしまうのもあれば、これはまあまあ面白そうだと上から目線の期待をしてしまうものもある。しかしどの予告にも共通しているのは、その予告が終わってしまえば、その予告されていた映画がどういう内容のどういう雰囲気のどういうタイトルだったものなのか、あやふやになってしまうことだった。それともこれらをすべてしっかり憶えていられる人がいるのだろうか。そっとスクリーン一点を見つめる観客たちを見回してみたけれど、どの人もあまり興味なさげで、とてもそんな風には見えなかった。
映画の予告は大抵いい加減に冗長だと思う頃になって、ようやく終わる。そして観客たちが待ちに待っていたはずの映画本編が開始される。このときも一瞬だがピンと空気が張り詰めるような気がする。長々と語っているが、こう思っているのは僕だけかもしれない。僕はこの感じがどうにも慣れなくて、映画館はあまり好きになれないのだった。
まあ僕の映画館に対する感情などはどうでもいい。大事なのは映画そのものである。
が、その肝心の映画そのものも、やはり自分には苦痛なもののようだった。いや、こうなるのはテレビアニメが合わなかった時点でわかっていたことなので文句を言える立場ではないのだが、正直テレビアニメ以上に「きらきらの青春」という要素がクローズアップされているような気がして、ネオンに輝く街を見たときみたいな辟易した気持ちになった。
隣席の男性はかなり見入っているようで、スクリーンに釘付けだ。真剣な眼差しで見つめながら、時に笑ったり涙を浮かべたりしている。どうしてあの非現実的な世界に入り込んでいけるのかが、僕にはわからなかった。
物語が終盤に差し掛かってきたところで、どこからともなく静かに覆い被さってきて、僕はゆっくりゆっくり自分が舟を漕ぎ始めるのを感じた。それに抗おうとは思わなかった。もう映画よりも夢を見ていた方が有意義な時間の過ごし方である気がしていた。
次の瞬間、僕は映画館にはいなかった。コンサートホールのようなところ、そこに並ぶ観客席の群れの後ろに立っていた。前方のすべての観客席には人らしき存在が座っているようで、椅子の背もたれからぽこぽこと頭が飛び出していた。その向こうには、ステージがあった。清潔なライトに照らされた、清く煌びやかなステージだった。その上にはそれぞれ管楽器を抱えた一団が立っている。指揮者以外は全員女、しかも高校生らしき制服を着ている。そこで気づいた。ああ、あのアニメ映画の連中だ。顔もよくよく見てみれば、見覚えがあった。全員同じ顔だったけれど、髪型やら髪の色やら目の色やらで、ある程度区別ができた。
ふと自分の手に何かが握られていることに気づく。それを見る。ナイフだった。特に鋭そうでもない、薄くて安っぽいナイフ。
自分が何をするべきか、いや何をしたいのかは、もうその時点でわかっていた。
僕は観客席の間の階段を降り始めた。誰も自分を見ない。観客席の人間の目はすべてステージ上の一団の上に注がれている。指揮者らしき男が手を振り上げ、ステージ上の一団は、今か今かと抱える管楽器を吹こうとしている。その前に、その前に――。
壇上に上がる。それでも誰も僕を気に留めない。指揮者の男も知らん顔、他の管楽器の女どもは緊張と歓喜と悲哀が混じったような複雑な表情、それでも僕は見えていない様子。そんな連中を無視して、僕はまっすぐ一人の人物の前に進む。このアニメ映画の主人公のところへ。確かこの主人公の担当楽器は――ユーフォニアム、ユーフォニアムだったよな、たぶん。管楽器など、自分にはどれも同じようなものにしか見えないのだけれど。
主人公は僕が間近まで接近しても動かない。自分が抱えるユーフォニアムに目を向けて、まるで今の自分の世界がそこに集約されているような顔をしている。それがなんだか腹立たしくて、よくわからないけれど無性に腹立たしくて。軽くぶつかるような調子で、ナイフを主人公の腹部に刺した。
主人公はその場でばたっと座っていた椅子から崩れ落ちるように倒れる。腹から血が流れている。僕の手からも血が滴っている。ナイフは刃先を赤く塗った状態で落ちている。こんなお粗末な代物でも人は刺せるのだな、と思う。
しかし、まだ死んでいないようだった。手足がもぞもぞ動いているし、まだ息を好いたり吐いたりする音が聞こえる。僕は主人公が手放したユーフォニアムを拾うと、それを叩き落すかのように、主人公の頭めがけて振り下ろした。やけに生々しい鈍い音がした。もう二、三度それを繰り返した。ユーフォニアムはまるで漬物石のように重かった。
主人公は死んでいた。頭が割れて脳味噌が垣間見えており、肉片を浮かべた血の水たまりができていた。観客席の人間は誰も反応しない。ただ無表情でステージに目を向けているだけ。しかしステージ上の一団は違った。何人もの脇役の女学生どもが管楽器を投げ出して立ち上がった。その表情には恐怖と驚愕がありありとあった。しかし立ち上がっただけだった。足をぶるぶる震わせながら、誰も逃げようとしなかった。金縛りにあって動けないように、顔を引き攣らせ、ある者は涙を流しながらただ立ち尽くしていた。
僕はそんな連中の一人ずつを、ユーフォニアムで殴り殺した。順番に、ゆっくりと、何度も振りかぶって。ユーフォニアムは人を殴り殺せば殴り殺すほど、どんどん軽くなっていった。最後の一人を殴り殺したとき、それはもう紙のような軽さだった。
ステージ上が血みどろで死体だらけだというのに、指揮者の男は動かない。ただ観客席の連中と違うのは、表情があることだ。そこにあったのは、誇りと期待と希望の表情だった。
僕はここまでしたのにこの白けた気持ちが拭えないことに呆れ、ふと赤黒く塗装されたユーフォニアムを思いっきり吹いてみた。音は鳴らなかった。
――目が醒めた。薄ぼんやりとシアターの照明が霞んだ視界を照らした。
映画はもう終わっていた。スクリーンには何も映されていなかった。隣の男性はすでにいなくなっていた。もうそのシアターに残っていったのは、僕と同じように居眠りしている老人との二人だけだった。
軽く頭痛を感じながら、シアターを出た。もう夕方ごろになっていたせいか、客は疎らになっていた。帰る前にトイレに立ち寄って、個室でこっそり自分の陰茎を確認した。勃起はしていなかったし、射精もしていなかった。
帰り道は陸亀のようにのろのろと歩いた。あの夢について考える気はなかった。そんなことは些細なことで、どうもいいことだった。それよりも、樫本に対してどのような感想を述べるのがベストなのか、そのことばかりを考えていた。
カラスが何羽か電線に留まって、合唱するかのように鳴いていた。
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