創作エッセイ「かへりみはせじ」
ぼくが靖国神社を訪れたのは、今年の三月になる。
以前から一度、怖いもの見たさで訪れたいとは思っていたものの、機会がなく――それは「面倒がって」の言い換えなのだけど――先延ばしにしていた。それがある事情が手伝い、行ってみようということになったのだった。
その事情とは端的に言って、希死念慮の話である。
ぼくは一月から二月にかけて、死ぬべきか生きるべきかという命題について思いをはせていた。はっきり言えば自殺するべきかどうかという一点について悩んでいた。結論として、「たとえ宇宙船地球号総員七十億が死ねといっても生きてやる」というところに落ち着いたが、自殺だけはするまいと思っていた自分が自殺をするかどうかで悩むことになるという事態それそのものが、大きな衝撃を与えた。
そこで自殺の心配がなくなった頃、「ぼくほど自殺と縁遠いと思っていた人間ですら自殺を思い至るのだから、人間は死からは逃れられないのだろう。ならばいっそ、自分から死をよく覗いてやろう」と考えた。
死がこちらを覗いてきたのだから、こちらも死を覗き返してやれというわけだ。
そこでまず調べたのは東尋坊である。東尋坊に限らず、有名な自殺スポットを調べてみた。しかし自殺スポットというのはなかなか遠い。覗き返してやれと勇ましく思ったところ悪いが、基本的に出不精である。もっと近いところで手軽な自殺スポットでもないかと考えた。
本当にどうして、こんな発想をする人間が自殺を思い至るのか甚だ不思議であるが、一時は本気で「生きるか死ぬか」だったのだからどうしようもない。
またもうひとつ言い訳をすれば、自殺スポットは案外に「死を覗き返す」というぼくの目的にはあまり適いそうではなかった。というのは、無論自殺を助長しないためだろうが、自殺スポットは多くの場合観光名所として発展しており、ネットで検索すればまずヒットするのは明るい観光情報というところである。期せずして自殺スポットの苦心を知った形だが、もしこれで行ってみて本当にただの観光スポットでは遠征の意味が薄い。そういう点からも、別の所を希望したのだった。
かくしてあれやこれや考えた末にひねり出したのが靖国神社なのである。
いったい、靖国神社というところほど人の死が弄ばれたところはない。結局のところ、行く前と行った後でその考えは変わらなかった。むしろ甚だしく、その考えを強く持ち直したくらいである。まあ、ぼくの感想の多くは前に掲げた連作短歌「英霊に捧げる短歌数多あり」に詳しいからここでは多くを述べない。
人の死を弄ぶ空間。なるほど、これほど自死の念がある人間にとって恐怖の対象となる場所はない。死者に口がなく、すべては生者の思うがままだ。
僕の希死念慮は多く家族に対する恨みをはらんでいたが、たとえば、僕が死んで家族が嘆き悲しめば、僕は草葉の陰で「この偽善者ども!」と罵っていただろう。その人の死の一因となった人物たちが、まるで被害者のごとくその人の死を悲しむという光景のグロテスクさ。状況に様々違いはあれど、死を願った僕は実際に死んでしまった英霊様とやらを前に、いよいよ死ぬわけにはいかないと決意を新たにした。
勝手に殺して、勝手に悲しみ、勝手に祀って、勝手に英霊として扱われる。そこに死者の思いは入る余地がない。「葬式は死者ではなく生者のため」などと分かったようなことをと反感すら持っていたが、その究極系が靖国である。
死にたくない。死にたくない。自死の念を持ったぼくですら一方でそう思ったのに、戦地に連れていかれた人々はどう思ったか。まあ、案外「天皇万歳!」的に半狂乱で死んだ者も少なくないかもしれないが。だが、もし死にたくないと思いながらも死んで、その後に死因たる者たちにこうも好き勝手に弄ばれたら、ぼくならどうあがいても化けて出るだろう。
「かへりみはせじ」と題された像が、ぼくの記憶に今も強烈に残っている。勇ましく敵へ突撃する兵士の姿をかたどった像は、像なのでかえりみることなどできはしない。
だが、もし当時の生きた兵士が、帝国臣民と呼ばれた彼らがほんのわずかでもかえりみたら、違った結末があっただろうか。
その疑問は、今を生きるぼくたちに今度は向けられた。
「かへりみはせじ」の像が僕らを睨む
なぜ像ならぬ人たるお前たちはかえりみぬのか
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