快抖 烏天狗丸

煙草のわかば

第1話 プロローグ 濫觴




 秋である。



 山深き小川のせせらぎは、大小の木々の葉が、

鮮烈で燃えるが如く、紅や黄蘗キハダ色を発し、

艶やかで美しい。

 幽かな微風が、寂れた林道を舞うよにたなびき

秋を色付かせる。



 そこを、ただただ、ひた走る男がいた。

 年の頃は、二十歳過ぎ。

 線の細い男である。

 病的なまでに細く、青白い。



 長く走り続けているのか、息も切れ切れ、その

走りも姿勢も、ふらついていた。

そもそも、あまり、運動は得意とも思えない。



 手荷物は、漆塗りの手箱を、右の小脇に抱えて

いるのみで、他には何も携行してない。

さらに、100㍍も走り続けたろうか?



 雑木が生い茂り、朽葉と雑草で寂れ果てた林道

の山側に、あちこちが朽ち、蔓草が屋根までも、

びっしりと、はびこる廃屋がある。

男は、そこを目指しているようだ。



 男が、林道の山沿いに建つ山小屋の敷地へ草木

をかき分け踏入り、山小屋へと入る。

 なにか?後ろめたいのか、山小屋で、ただ一つ

のガタつく引き戸を開ける時、周囲を窺いつつも

入った。



 中は、外観からは想定外に片付き、床板とかも

腐りや朽ちもなく、意外にしっかりとしている。



 ごく最近に、掃き掃除をしたのか、箒の掃き目

が壁の隅に深く残っている。



 男が、小屋の奥へと入ると、中は、入口からの

日の光だけなので、少し暗い。

 昔作りの、磨りガラスが入る窓があるにはある

が、蔓草つるくさがはびこり、窓全体をほぼ覆っている。



 窓から日の光は、ほとんど入らない。

 ゆえに、外からも中を窺い知ることは難しい。

 だから照度を得るために入り口を開けている。



 本来ならば、入り口を閉めて、懐中電灯なり、

ろうそくなり、携帯なりで、手元の明かりを得る

のが得策なのだろうが……



 男は、戸を開けたままで、意に介さずと、床に

あぐらをかき、小脇に抱えていた手箱を置いた。



 手箱を凝視したまま、下卑た嗤みを浮かべる男

の思考は、欲情にも似た様々な妄想が駆け巡って

いた。



 頬が、上気してさえいる。

 異様に興奮していた。

 より一層、病みを感じる。妄執と狂気すらも。



 期待と欲望と夢。




 その手箱は、その男の家へと代々伝わるモノで

あるらしい。

 蔵の奥で、いつからそこへと在ったかは、男も

知らぬが、厳重に保管されていた家宝の一つ。


かなりな金目のものと、その男は踏んでいた。


 その手箱は、大きさが縦が三十センチほどで、

横が十七センチ、高さ3センチほどだろう、純黒

のヌメるような艶をたっぷりと含む、本漆塗り。



 手箱の顏には、二重亀甲の内に十一枚羽団扇の

紋が、金色の高蒔絵で大きくあしらってあった。

美しく、見事な技である。



 逸品であろう。



 箱の両側面には、




     らい





とだけ、一字、墨痕淋漓と書された小さな封紙が

二枚、左右に貼られて、紫の組紐で固く結われて

いる。



 紐は、解く試みで分かったが、ひどく複雑怪奇

で、特殊な結び方で、固く結ばれ、男はかなり、

難儀したが、何とかほどくことができた。

幾度となく、箱を叩き壊す衝動にかられたが。



あとは、上ふたをとるだけ。



 しかし、見たことも聞いたこともない結び目で

あった。

あちらを緩めれば、こちらが固く結われてしまう

ような、複雑でパズルのような、美しい結い方。

男には、一度解いてしまえば、再び同じ結い方は

出来ぬであろう。



 男が、何のためらいもなく、上ふたを取ろうと

したが、封紙がそれを阻む。

男が、忌々しそうに封紙を睨んだ。

右の親指の爪先で、封紙を破ろうと押す。




「痛っ!!!?」




 パヂッ!!!!



 と、かなり強烈な静電気が、スケールを小さく

した稲妻よろしく、幾条も男の親指を刺した。



 男が、手箱を軽く床へと落とした。

 あまりの痛みと衝撃に、男が親指を見ると爪が

割れ、みるみる鮮血があふれる。



 苦痛と悔しさに顏を歪め、男が封紙を見る。




 が、白色の封紙であったのに、血が滲む所より

勝手に蠢くが如く拡がっていくと、封紙が黒く、

煤けるように、色を変えていく。


 やがて、軽く発火し、反対側の封紙も発火し、

燃え尽き、封紙は失せた。


 男は、突然!?封紙が発火し燃え失せたことに

呆然としたが、すぐに思い直し、手箱の上ぶたを

取ろうと両手を伸ばした。



 だが、あろうことか……、ふたが動いた。

 もぞり…………と。




 内側からの動きで。




 だんだんと、勝手に活発になる上ぶたを、ただ

見てるだけの男。

 両腕を、後ろ手に伸ばして、両手を床につけ、

ぶさまに後ずさり、手箱から離れようとする。

上ぶたの不可解な動きは、中に居る何かが荒ぶる

だけ、荒ぶったあと、静止、沈黙した。




「え……!?」




 これまた突如、それまでが嘘のように微動だに

せぬ、手箱に様々な思いが、男をさいなむ。




 男の額を、大粒の汗が伝う。

 全くもって、不気味だった。



 封紙が失せた時から、小屋の雰囲気が変わった

ことに今更ながら、思い付く。





 かすかな、この世ならぬ気配。





 そう、それは、まるで…………  !!!?




 男が愕然と表情を変え、あわてふためくように

手箱のもとへ、しどろと這い、組紐をとにかく、

再び、結い直そうと手をのばそうとした時!?




 ふたが割れた。



 鋭い音と共に。

 真ん中から。真っ二つに!?

 男に、人生最大ともいえる驚愕と戦慄が走る。


 割れたかすかな隙間から上ぶたと箱の隙間から

何かが、無数に音もなく、あふれ出てくる。


 それは、黒い何かだ。


 よくよく、目を凝らすと、それは芥子粒ほどの

微細な黒い何かが、一粒一粒凝り固まり、群体と

化している。

 男は、ふたたび後ずさりし、もう脱兎のごとく

山小屋を逃げるつもりでいた。




 手に負えない。

 まったくアテがはずれた。




 男が立ち上がり、手箱と、間合いを取りながら

山小屋を脱出しようと、にじり…と動いた途端。


                

 黒い芥子粒のような何かが、男へと、さながら

黒い雲霞と化し、意外な早さで、襲い掛かる。

 男の穴と言う穴から、侵入する。




 容赦なく、獰猛に。




 両手両足をバタつかせようが、空を振り払い、

顏や耳裏を払おうが無駄であった。




 涙腺、鼻、耳、口と全てから波濤のように、穴

を強引に、こじ拡げ、中へ中へと侵入する。



 手で押さえても、隙間から入り込む。

 床を転げ回り、激しく苦悶する男の全身の穴と

言う穴から黒い汁が、間欠泉のように噴き出す。

 黒い雲霞が、手箱からも部屋からもなくなり、

男の体へと入り終えた。

 男は、黒い涙を滂沱と流し、苦悶に目を開け、

天井をみつめながら、全身を痙攣させ始めた。





 男の自発呼吸が停まり、心停止。

 このままだと男は、死ぬ。

 手箱の底面には、何一つと入ってはおらず……

ある一文が、さらりと、金筆で、清幽に記されて

いた。



    『凾を開けしものよ


     如何なるモノよりも


     祟られるが良い』


 とだけ。








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