「遠き山に日は落ちて」
@and25
「遠き山に日は落ちて」
眠っているところを起こされた。
路面電車の都電荒川線。一樹(かずき)はいつも早稲田駅から乗ってくるが、由美は学習院下駅で待つことが多い。夕刻に流れる『遠き山に日は落ちて』のメロディを聞いたくらいまでは覚えているが、その後はうとうとしてしまったようだ。一樹に起こされるまでの記憶がない。
「よくこんなところで寝られるよな」
一樹は呆れたように笑う。この駅は明治通りと新目白通りの交差点のそばで、交通量は激しく、おまけに電車が何度も目の前を往来していく。しかし、由美は、この喧騒がことのほか好きだった。加えてこの小さな駅のホームは、何に囲われている訳でもないのに、なぜかエアポケットに入ったように感じられて、とても居心地が良いのだった。
一樹は夜間部なので、大体帰りが遅い。由美は先にアパートに帰っていてもいいのだが、いつもついフラフラと寄り道をしながら時間を潰して、最後はこの駅で彼を待つことにしていた。携帯のない時代。由美にとっては、いつ来るとも知れない一樹を待つこの時間が、一番幸せだった。それに、先に帰って夕飯の仕度をして待つような、そんな所帯じみたことはしたくもなかった。
今日の一樹は何となく考え込んでいるようで、いつもの快活さがなかった。由美の隣に腰かけて、次の電車にも乗る気配がない。
「何かあった?」
由美がきくと、一樹は心を決めたように切り出した。
「今日就職課へ行ってみた。来年からは就活始めなきゃ駄目でしょ。由美はどうするの?」
由美は黙る。考えていることはある。一樹は由美が答えない訳が分かっているように続ける。
「由美は優秀だから、どこでもOKでしょ。それでさ、この先俺たち……」
少し言い淀んだ。由美はとう潮時かと思い始める。一樹には隠していたが、由美が男と暮らすのは彼が初めてではなかった。これまでにいろいろな男たちと、それぞれに恋愛ごっこを楽しんだ。最初はサークルの先輩。由美の住んでいたマンションに連れ込んだ。その次は……。
「由美さあ、俺と一緒に、ずっとやってくつもり、ある?」
自分から別れ話を切り出したのは一樹が初めてだった。一樹はこれまでの男たちの中で、一番人間らしかった。苦学生の彼に合わせて安アパートに住み、都電で通学し、『神田川』みたいに2人で銭湯に行ったりもした。楽しかった。
「本当は俺知ってるんだ。由美がいいとこのお嬢さんだってこと」
そうか。穏やかに言う一樹は、由美が思っていた以上に由美のことをよく理解してくれていたのだ。
「ありがとね、一樹」
それは別れを受け入れるという意思表示だった。一樹は由美を促すように、肩を抱いて少し笑った。
「分かった。次の電車に乗ろうね」
「遠き山に日は落ちて」 @and25
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