第5話 「はい、こうするんです」
片手で土鍋の底を持ち、ローテーブルに鍋敷きを敷いてから。土鍋を置きあっさりローテーブルを元の位置に戻した彩花に、さすが男の子、腕力が違うなと唯子はまじまじと見ていた。その視線に耐えかねたのか、不快気にではなくただ不思議そうに眉をひそめた彩花が。
「……なんですか?」
「あ、い、いえ。力持ちだなあって!」
「先生以外なら誰でもできますよ。このテーブル軽いですし」
「うう、ご迷惑おかけしました」
「あ……」
胸の前で両手を組んですぐに下を向いてしまった唯子は、彩花がかすれた音で名残惜しそうな声を出したことも。その顔が困ったような後悔の色を纏っていたことにも気がつかなかった。まるで、言ってはいけないことを言ってしまったと後悔するような、そんな表情をしていたことを。
唯子は昔から言葉で判断し、人の顔色をうかがうことが行動の中に根付いている。それは全て、この赤い目のせい。でもこのことは彩花に受け入れてもらえたからもういいとして。
しょんぼりと肩を落とした唯子に、手を伸ばそうとしてはすくめてを何回か繰り返していた彩花は。立体型になっていたズボンの、ポケットに入れていた栄養ドリンクを取り出すと。元の穏やかな空気を戻すようにこほんと咳払いをした。その咳で顔を上げたおそるおそる唯子に無表情ながらも、目元だけは緩ませて。蓋が取り皿になるタイプの土鍋の蓋を開けて唯子の前におく。
空腹を誘うだしのいい香りが広がる。にんじんは花型に、大根はいちょう切り、ゴボウは火が通りやすくするためささがきに。彩りに三つ葉なんかが添えてあって、『美味しそう』&『女子力高い』という喜べばいいのか膝と手をつけばいいのかわからない事態に唯子はとりあえず苦笑した。そんな唯子に彩花はゆっくりととレンゲを差し出した。
「……どうぞ」
「あ、なにからなにまですみません! ……わー、いい匂いですね、おいしそう!」
「あ……仕上げを忘れてました」
「あ、ごま油とかですか?」
「いえ、これです」
そう言って指さされたのは栄養ドリンクこと有名な鷲のマークのリポビランである。
仕上げがリポビラ? 意味が分からなくて首を傾げた唯子に、淡々とぱきぱき蓋の部分を捻って封を破る彩花。
「……? それ、リポビランですよね? これが仕上げなんですか? どうするんです?」
「はい、こうするんです」
「!?」
次の瞬間、右手で持っていた瓶を。なんと彩花は鍋の上から中に向けてひっくり返した。
当然のように液体である中身は鍋の中に流れていく。一瞬、むわっと薬くささと甘いにおいがあたりに漂う。唯子はもうただ呆然としていることしかできなかった、目を見開いて口を開けて呆然と正座した状態でレンゲを握っていることしかできなかったのだ。それ程衝撃的だった。
わざわざ温めてくれていたのか、作ってから時間が経っていないのかはわからないが。まだ時おりぐつりと泡をたてる湯気が漂う雑炊にはもはや先ほどまでの優しいだしの匂いなんて感じない。ただただ薬とそれをごまかすような甘い匂いがくさい、それだけだ。
「え……いじめ?」
「いじ……なんてことを言うんですか。先生が倒れたり鼻血を出したりするから、健康面に気を使って作ったものです。さあどうぞ」
「あ、ありがとうござい……ま、す。い、ただきます」
どどどどどど、どうする
まじか、これを食さねばならんのかと思うとレンゲが手から滑り落ちそうになる。黄色いリポビラに染まった雑炊がもはや狂気にしか思えない。いや、むしろ狂気の方がマシかもしれない。
ちらりと腹痛がするから食べたくないなんて言ってみようかなと、彩花を見上げれば。雰囲気が明らかに期待している、どこかそわそわした様子でまっすぐに唯子を見つめている。
あ、だめだこりゃと唯子は思った。いまさらいらないなんて言えない雰囲気だ。食べたくないなんて言っちゃあかんやつや。唯子の心の中の関西人が呟いた。
そこで唯子は気付いた、もしここで腹痛なんて言ってみろ。もしかしたら無理やりにでも全部食べさせられて薬を飲まされるかもしれない。さらにはあのまばゆい顔面が曇るかもしれない。
だったら、いっそ!! 自分から食べた方がどれだけましか!
(五月女唯子、いっきまーす!!)
女は度胸、女は度胸と心の中で繰り返し唱えて、決死の思いで雑炊をレンゲによそり。ふーふー冷ましてから口に入れた唯子は。
かっと目を見開いた。
期待はしていなかった、きっと死ぬほどまずい組み合わせだと思っていた唯子だが。
これはこれで全然いけない、まずいものはまずかった。この組み合わせはリポビランとあの温かで懐かしささえ感じるお雑炊に対する冒涜以外の何物でもない。
ぽろりと涙をこぼして泣き泣き雑炊を食べている唯子を見る彩花の顔はひどく穏やかで、優しかった。ふと顔を上げて唯子と目が合った途端きりっとした顔に消えてしまったが。
その優しい微笑みを見た唯子の感想は。
(わ……美麗スチル日常編ゲット……)
どこまでも二次元脳だった。馬鹿は死んでも治らないというが、二次元脳は本当の意味での飯テロでも死ななかった。二次元脳強い。もう用意されたミネラルウォーターで流し込みながら雑炊を平らげた唯子に、彩花はほっと安堵の表情を見せると。
食べおわった鍋に蓋をして「下げますね」と台所へと持っていった彩花の背中を見送って、ぺたりと冷たいローテーブルに頬を当てて。小さくため息をついた。
「美人は三日で飽きるって言われてるけど、あのまぶしい顔に慣れるかなあ」
「ぼくに飽きるつもりですか先生」
「ぼえっ!?」
「ぼえってなんですか、ぼくに飽きるつもりなんでしょう。先生の」
「いえ!? あの、ことわざでっていうか! 近い近い!」
ローテーブルにべったりだった体を起こして、キッチンの方を見れば。腕を組んで柱にもたれかかった彩花がいた。心なしか……というか間違いなくその顔は黒い笑みをたたえている。
足音もなく唯子に近づいてくると、ローテーブルを片手で退けるとソファーに怯えるというよりは困惑の極みの唯子を押し付けて。その小さな耳元に唇を寄せ。
「浮気者」
とやっと声変わりの終わった美少年の澄んだ中性的な声で囁かれて。
それは地球が自転するように、月は太陽光で輝くように当たり前に。唯子は鼻血を噴出しながらソファーへと倒れ込み気を失ったのだった。
ここまでの反応を示すとは思わなかった彩花がぎょっとしていたのはお約束である。
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