黒瑪瑙美術鑑定士は狙われる

なななん

第1話

ぐす、ぐす、と鼻をすする音がする。それと共に響く鋏の音。

「お八重、泣くのはやめなさい」

 鋏を慎重に且つ正確に入れている女中がたしなめた。お八重と呼ばれた若い女中が手ぼうきを持ち、泣きながらはらり、はらりと落ちる髪を纏めている。

「だって……おきよさ……お嬢様が……不憫で……」

 そう言ってまたぐす、ぐす、と鼻をすする。

「いいのよ、お清さん。泣きたい時は泣いたがいいと母さまも言っていたわ」

 ジャキ ジャキ と切られながら努めて明るい口調でお嬢様と呼ばれた娘が言った。

「……おりょう様がご存命でしたら…こんな事には……」

 ジャキ、という音が止まる。

 見えはしないが、後ろで震える気配がする。

 いいのよ、と少し微笑みながら言う。

「お兄様亡き後、外国語の読み書き出来る者は私しか居ないし」

「だからと言って……!」

「先方には成田屋の長男が行くと伝えてあるし、ただの留学ならば別の者を立てればいいけれど……鑑定も含まれるから……」

 すすり泣く声が二つになる。

「……ありがとう、二人とも、私の為に泣いてくれて。その気持ちを胸に、頑張れるわ」

 泣く事もせず、感謝の気持ちを述べる主に、若い女中はとうとう突っ伏して泣き出した。

 年嵩の女中は泣きながらジャキ、ジャキ、とまた鋏を入れる。

 はらり、はらりと散る黒髪。

 娘は目に焼き付けておこうと、じっと見ていた。





 ********





「いいですか、アルバート様。領地視察の後は必ず、必ずお戻り下さいませ。今晩のお客様は旦那様にとって大事なお客様です。まだ年若い方と聞いておりますので、アルバート様に同席して頂くよう固く申しつけられております!」

 必死の形相で述べる執事の顔を塞ぐようにパンと紙で仕切ると、分かっている、と眉をしかめて下の証書にサインをしていく。

 仕切りの為の紙を無言で執事に渡すと、畏まりました、と受け取ったかと思うとまた執事は喋り出した。


「お名前は、ハジメ・ナリタ様。20歳独身、男性の方です。日本美術品を扱う老舗アンティーク・ナリタのご長男で、倫敦はおろか渡航も初めてとの事。英国にいらっしゃる間は当家にご在宅頂き、大英美術館の日本美術品を鑑定されます。アルバート様はナリタ様に全面的なフォローを、と旦那様から固く、固く!」

「分かっている! 朝から何度目だ!」

 堪り兼ねて吐き出すと、執事はじとっとアルバートを睨め付け、低くおどろおどろしい声を出す。

「苦節三十年、アルバート様の幼少期から勤めさせて頂いているこの私が何故こんなにくどくどお願い申し上げているのか、理由をお聞きになりたいと?」

「いや、いい」

「いいえ! 今度という今度は言わせて頂きます! 先月の当宅にて旦那様が主催されたドダリー卿との晩餐会にも領地にて領民達との争いを静めるだのといって欠席され、先々月では旦那様がアルバート様の為に主催されたモスローキ卿男爵令嬢との晩餐会の場も腹が下ったのなんだのとご欠席され、先々々月では」

「分かった!! 今日は行く!!」

「誠ですね?」

「ロードの名にかけて誓う!」

「畏まりました」

 恭しく礼をとって下がっていく執事を見送り、深いため息を吐く。


 父が美術収集を趣味としている関係で、英国議会から打診があったとは聞いてはいた。曰く、大英美術館に入っている日本美術品に贋作の疑いあり、と。

 一年前に渡航して来ていた日本人留学生の中に美術品に明るい者が居て、飾られてある物を見て偽物が混じっていると言ったのだ。もちろん英国の権威ある鑑定家が見定めてみたが、正直自信が無いと。当たり前だ。自国の物ではないのだから。

 その日本人がまた親切なのか偽物が飾られているのが気に食わないのか、日本から正式な鑑定家を送る、と言って来たのだ。若いが目は確かなので丁重に扱って欲しいと。

 その世話役にこのジェラルド家に白羽の矢が当たった。

 父は趣味と実益を兼ねれるとほくほく喜んでいるが、程のいい厄介払いに近い。言葉も通じないかも知れない外国人を持てなすなど、無益、時間の無駄、厄介事だらけの数週間になる事、間違いないだろうに、あの父は。


 カタンと立ち上がり、幅の広い執務机から数枚の書類を巻くと、封蝋を蝋燭に当ててGの印を押す。

 窓から見る景色は相変わらずの曇り空。空まで俺の気分を害さなくてもいい、と詰なじる。

 無言で扉を開け玄関へ向かうと、ホールで執事が見送りに立っていた。

 アルバートは手に持っていた書類をまた執事にポンと渡す。

「こちらは議会だ」

「畏まりました」

 また長ったらしい問答が来る前に早々にホールを出る。しかし今度は、行ってらっしゃいませ、という慇懃な言葉だけだった。

 既に用意してあった馬車に乗り込むと、アルバートは積もり積もったため息を吐くのであった。

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