第34話 禁断の木の実
「くっ、このチェーンを外せ!」
「こらこら俊ちゃん、焦らないの。赤ちゃんを作るには、準備が必要なんだから」
葵ねぇはありふれた笑みを浮かべると、ナイフで俺のTシャツをすっと切り裂いた。服が分解されたかと思えば、いとも簡単に俺の上半身が剥き出しになった。素肌にチェーンが擦れて痛い。
「綺麗な肌」
葵ねぇが人差し指で俺の上半身をなぞってくる。細い指と長い爪が肌の上を滑ると、今度はくすぐったさを覚えた。
「あんまりにも綺麗すぎて、汚したくなっちゃう」
「それじゃあ俊ちゃん、ひとつになろっか」
「やめろ! こっちに近寄るな!」
どんなに身を揺らしても、金属音が
葵ねぇが俺の身体に
「まずはいつも通り、お姉ちゃんたちの心音を合わせようね」
眼下の
「ドクン、ドクン、ドクン……俊ちゃんの鼓動が聞こえるよ」
耳を傾けるつもりなんか毛頭ないのに、葵ねぇの鼓動が聞こえてくる。それは服という壁がないからか、はたまたこの行為を受けるのが二度目だからか。
「こうやって、お姉ちゃんたちの心臓の鼓動を一緒にするの。そうすることで、俊ちゃんとお姉ちゃんは同じ生を刻めるようになるの。一心同体になれるの」
心臓が動くという現象を、これほどまでに嫌悪する瞬間もない。心音を合わせる気なんて微塵もないのに、身体が勝手に反応する。それがたまらなく不愉快なのだ。
「ほら、もう心音が重なったよ。俊ちゃんがお姉ちゃんを愛してくれてる証拠だね」
「そんなのは妄想だ。俺は葵ねぇに恋愛感情なんて抱いてない」
「もう俊ちゃんったら、照れちゃってるのね。そういうの、ツンデレっていうんだっけ?」
「照れ隠しなんかじゃない。これは俺の本心だ」
「だから、他でもない俊ちゃんの本心が、お姉ちゃんに愛を伝えてくれているの。ほら、ドクンドクンって、愛のメッセージを刻んでる。心臓の鼓動が一緒っていうのはね、紛れもなく一心同体という意味なの。お姉ちゃんたちは、同じリズムで、同じ血液を身体に送り出している。これって、地球上でお姉ちゃんたちにしか成し遂げることのできない、愛の形なんだよ」
「俺の心臓とか、血液とか、どうでもいいんだよ。俺は俺の意思で、葵ねぇの言葉を否定しているんだ」
「そっか」
葵ねぇが上半身を起こす。
「俊ちゃん、洗脳されてるんだね。他の女に」
「……は?」
「だって俊ちゃんはそんなヒドいこと言わないもの。俊ちゃんはいつだって優しい言葉をかけてくれる。お姉ちゃんにだけ優しいのが、俊ちゃんの素敵な長所だから」
再び葵ねぇが上半身を倒す。
「お姉ちゃんのことが大好きな俊ちゃんに戻してあげなきゃ」
頬に湿った感触を覚える。その不気味さに
「俊ちゃんの脳を、お姉ちゃんの液体で満たしちゃおう」
やっぱりだ。耳に唾液を入れられてるんだ……!
「うっ、んうっ……!」
耳に入った海水を抜く勢いで、可能な限り頭を振る。
「まだ足りない? もっと欲しいんだね。それなら」
刹那、両手で口をこじ開けられた。
「はい、あーん」
そして、葵ねぇがゆっくりと唾液を垂らす。
「んぐっ!」
「はい、お口を閉じて、ごっくんしちゃいましょうね♪」
吐き出そうとした途端、今度は無理やり口を閉ざされた。喉を必死に動かし、意地でも呑み込まないように抵抗する。しかし、とうとう息苦しさを感じた俺は、彼女の唾液を飲み下してしまったのだった。
「俊ちゃん、受け入れてくれたんだね。あはっ、間接キスみたいで興奮する♡」
「っ……ふざけるな。こんなことされたって、俺の意思は変わらない」
「お願いだから、お姉ちゃんを傷つけるような言葉だけは使わないで。いくらそういうプレイでも、お姉ちゃん悲しくなるから。そうじゃなくて、たくさん褒めてほしいな。頑張って俊ちゃんにアタックするから」
「誰がこんなの認めるか。こんな奇行……!」
「……まだ、洗脳が解けてないんだね」
葵ねぇの声色がシリアスになったかと思うと、彼女は俺の顔の真上に立った。下半身が目先にある。
「なにをする気だ」
なんの予兆もなかった。葵ねぇを睨みつけていると、突然、彼女の下着にシミが生まれた。それがだんだんと濃く、大きくなって──
「俊ちゃんの脳を、お姉ちゃんの液体で満たしちゃおう♡」
葵ねぇの下半身から放出された液体が、俺の口内に侵入してくる。
「ぶはっ! げほ、げほっ!」
抵抗するも、やはり葵ねぇに口をこじ開けられ、これを飲んでしまう。
「どう、美味しいかな? 今日のために、いっぱい愛情を込めたんだよ♡」
不快感よりも、屈辱感のほうがはるかに大きかった。人間としての尊厳をビリビリに引き裂かれているようで、心に穴が空く感覚がした。気が付けば涙まで流していたみたいだ。
漂うアンモニア臭と、力を使い果たした疲労感が俺を襲ってくる。途端に激しい胃痛を感じた。葵ねぇの排泄物を飲んだ事実を認識して、身体が拒絶反応を示しているのか。
「んぐっ、はっ……ぐわあっ!!!」
ストレスに耐えきれず吐いてしまった。今日で二度目。最悪だ。
「わあ、俊ちゃんもお返しをくれるのね、ありがとう。いただきます♪」
躊躇なく吐物を口に含みだした葵ねぇ。以前にも見た光景だが……やっぱり狂ってる。
「んちゅ、はむ……美味しいよ俊ちゃん。アツくてとっても濃い♡」
口元を汚しながら、うっとりとした表情でこちらを見てくる。
「お姉ちゃんしか知らない俊ちゃんの味……他の女は、こんなことしてくれないでしょう。お姉ちゃんなら、どんな俊ちゃんも受け入れてあげるよ」
やがて、俺の吐物はきれいさっぱり姿を消した。そのすべてが彼女の腹の中にあると思うと、
「ふう……これで、内側は繋がれたね。今度は」
上半身を起こすと、葵ねぇは
「外側で繋がろっか」
一瞬、俺は自分が殺されたのかと錯覚した。
針で左胸を刺されたからだ。
「ぐはっ!?」
「これね、パワーアップした運命の赤い糸なの。俊ちゃんとお姉ちゃんの髪の毛を、二人の血でコーティングしたんだよ」
「うぐっ、ぶはっ!」
「まずは、俊ちゃんがお姉ちゃんの弟だっていう印を、植え付けてあげなきゃね」
葵ねぇは笑顔で針を進める。左胸を縫うなんて、頭壊れてんのか!? 心臓に刺さったらどうするんだよ!
「縫え♪ 縫え♪ 縫え♪ 俊ちゃんが他の女にたぶらかされないように♪」
「はっぐ……!」
「縫え♪ 縫え♪ 縫え♪ 俊ちゃんはお姉ちゃんが守りましょう♪」
朗らかに歌いながら、一瞬の迷いもなく縫い進めていく葵ねぇ。やがて肌から針を離すと、
「できた!」
上機嫌でそう言った。
「見て俊ちゃん、綺麗に縫えたよ!」
鏡で左胸を見せられる。
「なっ……!?」
「ハート型だよ♡」
戦慄した。
心臓をハートで囲うように、赤い糸が縫い付けられていた。
「ふざけんな! 狂うのもいい加減にしろ! 俺は人形じゃないんだぞ!」
「え……」
「俺の身体で、命で遊びやがって! どこまで自分勝手なんだよ!」
「そんな、俊ちゃん喜んでくれると思ったから……」
「だから、その思い込みが自分勝手だっつってんだよ! 俺がいつ、こんな奇行を願ったんだよ!」
「え、え、なんで? なんで俊ちゃんそんなこと言うの? お姉ちゃん、悲しいよ。心が痛いよ。お願い俊ちゃん、お姉ちゃんに愛をちょうだい。好きって言って」
「お前なんか嫌いだ!!!」
「お前………………」
葵ねぇの目の色が変わったのが、はっきりとわかった。
「お前……」
途端に彼女の身体が震え出す。それを
「俊ちゃんが、どんどん、遠くに……行っちゃう」
病的なまでに息を切らし、
「ダメだよ、お姉ちゃんから離れちゃ」
まるで悪魔に魂を
「お姉ちゃんから離れないで。お姉ちゃんから離れないで。お姉ちゃんから離れないで。お姉ちゃんから離れないで。お姉ちゃんから離れないで」
暗黒に塗り潰された瞳を浮かべながら、
「俊ちゃんはお姉ちゃんの弟なんだから。お姉ちゃんは、俊ちゃんがいないと生きられないんだから。お姉ちゃんと俊ちゃんは、運命の赤い糸で結ばれているんだから。恋人になって、結婚して、子どもをたくさん産んで、幸せな人生を歩んで、一緒に死んで、一緒のお墓で眠るんだから。俊ちゃんがお母さんの子宮にいるときから、そう決まってたんだから」
「いいから俺を解放しろ!」
「黙れ」
その刺すような一言に、俺の
「悪い言葉を使う口は、お姉ちゃんが封じちゃいましょう♪」
直前の殺気が嘘だったかのように、笑みを見せる葵ねぇ。
かと思えば、いつの間にか、俺の唇に針が刺さっていた。
「縫え♪ 縫え♪ 縫え♪ 俊ちゃんがお姉ちゃんから離れないように♪」
葵ねぇがノリノリで針を進めていく。上唇と下唇が赤い糸で繋がれていく。
「うぐっ、むがっ」
クソッ、口が開かない!
「はい、完成」
頬に、熱い液体が流れるのを感じる。おそらくこの液体は赤いのだろう。なにが運命の赤い糸だ。ただの、立派な凶器じゃないか。
「キスできないのは残念だけど、これから毎日毎秒できるもんね」
葵ねぇが顔を離す。
「もうちょっとで、準備が終わるからね」
「むぐっ……!」
当たり前のように、針で俺を刺してきた。今度は腹だった。
「ねえ俊ちゃん、ここになにがあるか、わかる?」
葵ねぇはそう言うと、自分の腹部をさすった。
「俊ちゃんとお姉ちゃんの、赤ちゃんを作る場所だよ♡♡♡」
脳裏に地獄がチラつく。
命懸けでもがく。
すると彼女は、自分の腹を刺した。
「ふふっ、俊ちゃんとお姉ちゃんのお腹が繋がったね♡ これで確実に、俊ちゃんの子どもを
互いの腹の間に、赤いアーチがかかる。
「嬉しいなぁ。大好きで大好きで大好きな俊ちゃんとの、幸せな未来が約束されてるんだもん」
「狂ってる」なんて表現じゃ足りないくらい、歪な光景。
彼女は、禁忌を犯そうとしている。
「うっ、痛い。これが、出産の痛みなのかな。幸せだなぁ」
腹部を撫でる葵ねぇの目は、闇夜よりも暗い色をしていた。
──葵ねぇが、俺のズボンに手をかけた。
「お姉ちゃん、こういうのはじめてだけど、一生懸命尽くすから♡」
やめろ。
「頑張って、俊ちゃんの赤ちゃん妊娠するから♡」
やめろやめろやめろ。
「だからお姉ちゃんのはじめて、俊ちゃんが奪って♡♡♡」
それだけは絶対に、やめてくれ……!
「愛してるよ、俊ちゃん♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
やめろぉぉぉっっっっっ!!!!!!!!!!
「やめろぉぉぉっっっっっ!!!!!!!!!!」
「やめろぉぉぉっっっっっ!!!!!!!!!!」
窓が割れたのと、怒号が響き渡ったのは同時だった。
目の前から一瞬にして葵ねぇが消えた。腹の糸も、いつの間にか切断されている。
「俊くんのはじめては私のものだ!!!!!!!!!!」
「センパイを汚すなんて許さない!!!!!!!!!!」
みどりちゃんと香澄が、鬼の形相で叫んだ。
そして間髪入れずに葵ねぇに追い打ちをかける。
「俊!」
「俊君!」
ドアから、紅と茶助が現れる。
二人はどさくさに紛れて、手早く俺の拘束を解いた。
「さあ、逃げるわよ」
紅に手を引かれながら部屋を離れる。
「アンタ、なんちゅう格好してるのよ」
「むがむご、むがっ」
「なに言ってるかさっぱりだっての」
すると彼女は、手に持っていたナイフで俺の唇を
「テメッ、危ねぇだろ……あれ、口が動く」
「俊君、これに着替えてください」
茶助が手渡してきた体育着に身を包み、全力で先を急ぐ。クソッ、やっぱり右足が尋常じゃないほど痛い……!
「もうちょっとだから我慢しなさい。もうちょっとで、アタシたちのり──」
勢いよく玄関を後にしたところで、俺たちは足を止めた。止めざるをえなかった。
「最悪だ……」
葵ねぇ、みどりちゃん、香澄。
三人が、正真正銘の殺し合いを始めようとしていた。
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