第32話 ランデブー イン ロッカールーム
「うわぁぁぁぁぁ!!!!!」
ロッカーの中で、情けなくも悲鳴を上げる。
「そんなに叫ばないでくださいよ。他の女が来たら殺さなくちゃならない」
香澄の手が、俺の首を
「せっかくのランデブーなんですから♡」
彼女の指と爪が、ザクザクと皮膚を侵食してくる。ロッカーの中という真っ暗で小さな密室が、スリルを激増させる。
「くっ……助け、て」
呼吸もちゃんとできない状態だ。助けを呼ぶので精一杯だった。自力でこの危機を脱するのが不可能だと、本能が無意識に判断してしまったらしい。
「センパイ、どうしたんですか? 『助けて』なんて、今は不要なセリフでしょう。だってこれは恋人同士のイチャイチャなんですから。むしろラブコールをくださいよ」
「げほっ、げほっ……!」
無理やり息を吸おうとしたら、逆に苦しさが気管を襲った。ずっと口を開いているからか、唾液が勝手に垂れていく。
「はっ、はっ……助けて、誰か……」
それでも懸命に助けを呼ぶ。もはや声ですらないか細い空気が、狭い密室内を
「はあ?」
香澄の苛立った声が耳に入る。
「だから、センパイはボクに愛をささやいてくださいよ。『香澄は俺のものだ』って。どうしてボク以外の人間が脳内に存在してるんですか?」
ロッカーがガンガンガンガンと音を立てる。香澄がイライラして地団駄を踏んでいるのだろう。
「ボクのことだけ考えろよ。……まさか浮気か?」
舌打ちして、つぶやく香澄。
「浮気なんて絶対に嫌だ。浮気は悪だ。浮気は罪だ。絶対に許さない」
首を締めつける力が強くなった。彼女の指先が
「そうだ。他の女の名前を口走らないようにしなきゃ」
そして次の瞬間、香澄が思い切り喉を潰してきた。
「んっ……! んぐっ、はっ、ごほっ……!」
あまりの苦しさに全身から汗が噴き出る。喉という、普段誰にも触られないような場所を圧迫され、異物感ともいえる痛みを覚える。
「喉を潰しちゃえば、センパイが他人と話すこともありませんよねぇ」
呑気な口調を腹立たしいと思えるほどの余裕はなかった。
「あ! でもそしたら、ボクに愛の告白をすることもできなくなっちゃうのか」
香澄の力がやや弱まる。だが依然として苦しい。
「それはダメですよ。センパイは、ボクへの愛を口に出すために生まれてきたんですから。ボクと会話できなかったら、センパイがかわいそうです。さ、ボクに愛のメッセージをください!」
自分勝手に話を展開する香澄。彼女にとって、俺はおもちゃに過ぎないのだろうか。
「だ、誰か……助けて、くっ、がはっ!」
だからといって、コイツの都合で死ぬのは御免だ。めげずに助けを呼ぶ。
「チッ」
気が付けば、俺は香澄と真正面で向き合っていた。一瞬で身体の向きを変えさせられたんだ。
「言えよ!!!」
予想外だった。
香澄が躊躇もなく腹を殴ってきた。
「がはっ!」
痛かった。手首を切られるのとは違う、ありふれた痛み。しかしそれが、悲しいほど痛かった。
「ボクに愛を聞かせてくださいよ! ほら!」
疲労でげんなりしている俺を、再び香澄が殴ってきた。
「言え! 言え! 言え! 言え! 言え!」
リズムに合わせて繰り出されるパンチに、だんだんと吐き気を覚えてくる。喉が焼けるような不快感まで顔を出していた。
「どうしてボクに愛の言葉を聞かせてくれないんですか? ボク死んじゃいますよ? センパイがいないと、寂しくて死んじゃうんですよ? ボクにはセンパイだけあれば足りるんです。それ以外はなにもいらない。センパイだってそうでしょう? ボクさえいれば、それでセンパイの幸福が、人生が満たされるんです。だから言え! ボクのために! ボクとセンパイの幸せな人生のために、言え!!!」
何度目かの鉄拳と、うだるような暑さを前に、俺はとうとう戻してしまった。
「ボクが吐けって言ったのはナポリタンなんかじゃないんですよ! 愛なんですよ!」
それでも香澄は腹を殴り続ける。
「センパイ、約束しましたよね? ボクが追いかけっこで勝ったら、センパイがボクの人形になるって。ほら、ボクの命令を聞いてくださいよ! 人形らしく忠実に、ボクに愛を与えてくださいよ!!! ねえ、お願いしますよ! ボクがこんなに必死にお願いしてるんですよ! ただ愛を口に出すだけ! なにも難しいことなんかない! たったそれだけじゃないですか! それだけなんだから、さっさと言えって!!!!!」
痛い。苦しい。もうこんなの嫌だ。どうして俺が、こんな理不尽な目に遭わなければならない?
ロッカーがガンガンと音を上げる度に、怒りが膨らんでいく。
そしてそれが、とうとう俺の良心を呑み込んでいった。
「……ふざけんな」
「はい?」
「ふざけんじゃねぇよ!!!」
俺は臆面もなく香澄の腹を蹴った。反動で、倒れ込むようにしてロッカーから脱出する。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
床に
「センパイ」
ロッカーの中から、殺意を剥き出しにした香澄が現れる。その威圧感を追い払いたくて、慌ててバケツを
「痛っ!」
バケツが彼女の頭にヒットしてしまった。
「す、すまない……」
罪悪感から、咄嗟にそんなセリフを言う。つい数秒前までの怒りが、急速に
「げへへへ」
しかし、香澄の反応は常軌を逸していた。
「センパイがいじめてくれた。センパイが蹴ってくれた。センパイが頭に物を投げてくれた」
奇妙な笑い声を響かせながら、香澄が顔を上げる。
「もっといじめてください!!!!!!!」
彼女の顔は、完全に狂っていた。
「なんなんだよお前は……!」
気色悪さと恐怖で、俺の怒りに再び火が灯る。立て掛けてあったホウキで香澄を
「もっと強く!!!!!」
香澄が謎の不満を爆発させる。だったらお望み通り、全力で殴ってやるよ!
「痛い! 痛い! 痛い! センパイがボクに痛みを与えてくれてる!!!」
俺が力を込めれば込めるほど、香澄の声が弾んでいった。
「センパイのその血走った目、最高です♡ もっとボクを痛めつけてください! ボクはセンパイの奴隷ですから!!!」
そういう彼女の顔は、まるで
「あっははははは!!! この瞬間をずっと待ってましたよ! センパイが一思いにボクを
「笑うな! しゃべるな! その気味悪い姿を俺に見せるな!」
「やっぱり傷つけられるのが一番の快感です。愛を感じます。人は誰かを傷つけるとき、その対象のことしか考えてない。それはつまり、相手のことを愛しているという証拠なんです! だから人は、誰かを傷つけずにはいられない。愛がないと死んでしまう生き物だから!」
「そんなの、意味不明な暴論だ」
「この暴力は、俊センパイからボクへの愛! 愛してるのサイン! 言葉よりもダイレクトなプロポーズ!!! ぎゃっははははは!!! センパイ、たくさんの愛をありがとう♡ ボクもセンパイのこと、愛してますよ♡」
「耳障りの悪い声を出すな!」
「そうですセンパイ、もっと攻撃して! 犯して! ボクをぐちょぐちょにして! あっ、そう、そこ……んっ、はあああっ!!!」
刹那、香澄が
そしてありえないことに、彼女は失禁した。
「あひゃぁぁぁ……♪」
溶けた顔で、仰向けになって天井を見上げている。
「な、なんなんだよ本当に……」
あまりに理解し難い行動を目撃し、俺まで疲労を感じている始末だ。思わずその場にへたりこむ。
「しぇ、しぇんぱぁい♡」
下半身から液体を流出させているにもかかわらず、香澄は恥ずかしがる素振りすら見せない。むしろ興奮している様子だった。
鼻を突くような刺激臭と、蒸すような熱が脳を襲う。
「しぇんぱいがこんなに愛してくれりゅなんて、ボクは幸せだなぁ♡」
大の字になって手足をひらひらさせる香澄。
「それじゃあ──」
これで終わり。そう思っていた瞬間だった。
「ボクもセンパイを愛してあげますね!!!!!」
香澄が飛び起きた。そして速攻で俺を押し倒してくる。
「ぐっ……やめろ!」
咄嗟に彼女の腕を払う。
「やめませんよぉ。ていうかセンパイも欲しいでしょ、ボクの愛。我慢しないでください。遠慮も不要ですよ。さあ、一緒に快感を
「そんなの……こっちから願い下げだって、言ってんだよ!」
香澄を引き離そうと肩をつかむ。クソッ、相変わらずなんつう怪力なんだ……!
「おら!」
「ぶはっ!」
なんの脈絡もなく顔面を殴られる。激痛が脳内でガンガン響く。
「ちゃんと痛いですか? ちゃんとボクの愛を感じてますか?」
「痛いに、決まってんだ……ろ!」
彼女の頬をはたく。
「あはは! その調子ですよセンパイ! ボクにたくさん暴力を振るってください! ボクも頑張って痛いのあげますから、二人で一緒に気持ちよくなりましょう♡」
お礼と言わんばかりに香澄が頬をはたいてくる。頭に血が上ってこちらも反撃に出るが、まったく力が入らない。せめて左手が使えれば……。
「ねえセンパイ。男女が気持ちいいことをするときって、互いに愛を口にするらしいですよ」
仰向けになった俺の腰に
「センパイ! 好き好き好き好き好き好き好き! 大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き!!! ボクが生きているのは、センパイが同じ世界で生きているからですよ! ボクにはセンパイ以外なにも必要ありません! だからありったけの愛情を、センパイだけに注いであげますね! これからも末永く、ラブラブでいましょう♡」
言い終えてから、香澄が胸のあたりを一殴りしてきた。圧迫感で
「さあ次はセンパイの番です! ボクに愛を聞かせてください!」
今日だけで何回も耳にしたセリフ。しかし、何度命令されようが俺の意思は変わらない。
「……だ、誰がそんなふざけたこと、言うかよ」
「ふーん」
香澄の笑顔が消える。
「ボクという女がいながら浮気するなんて常識的にありえないですけど……もしやセンパイ、他の女のこと考えてますか?」
無言の時間が訪れる。この空間だけ、時間が粘着しているみたいだ。
「ありえない」
やがて香澄はそう言い切ると、俺の顔を撫で始めた。
「そうか。センパイが他の女に目移りしないようにすればいっか」
そして次の瞬間、俺の左目を指で押し潰してきたのだった。
「ああああああああああっっっっっ!!!!!!!」
痛みとか、そういう次元じゃない感覚だ。なんだこれ。眼球と後頭部がくっついたみたいだ。
「綺麗な声♡」
「ぐっ……お前!」
「そうだ、他の女の異臭を嗅ぐのもダメですよ」
そしてさらに、香澄が俺の鼻を圧迫してくる。
「があああああっっっ!!!」
首を左右に振って、なんとか骨折を回避しようとする。
「浮気、ダメ、絶対」
それでも彼女は、執拗にその行為を続ける。鼻の穴を
「どうして男はすぐに浮気をするんですか? センパイにはボクがいるじゃないですか。ボク以外の女なんて、死んでいるも同然じゃないですか。どうして彼女を悲しませるような愚行ができるんですか? センパイはボクのものなのに」
「浮気、なんかじゃない……」
「え?」
香澄の動きが止まる。
「そ、それってつまり、一生ボクだけを認識するって意味ですよね? そうなんですよね! ははっ、嬉しいな。やっぱりセンパイはボクのことが大好きなんだ! ボクしか愛せない生き物なんだ!」
「違う……」
彼女の手を払い、睨みつける。
「俺はそもそも、お前の恋人なんかじゃない……!」
香澄の目から、生気が消滅した。
「………………嘘吐き」
ぽつりとこぼすと、彼女はゆっくりと、それを取り出した。
「センパイの嘘吐き!!!!!!!!!!」
直後、取り出したハンマーを思いっ切りこちらに振り下ろしてきた。
「クソッ……!」
上半身をくねらせてなんとかそれをかわし、腰に跨っていた香澄をどついて弾き飛ばす。
「センパイ、ボクだけを愛してるって言ってくれた!!! ボクと結婚するって言ってくれた!!! ボクと一緒に幸せになるって、約束してくれた!!! なのにどうして、約束を破るようなことをするんですか!!!!!」
香澄が無秩序にハンマーを振り回す。
「そんな約束してねぇんだよ! 全部、お前の妄想だ!」
「違う!!!!!!! 約束した!!! 約束なんかしてなくても、ボクたちは心で繋がり合ってる!!! だからセンパイには、ボクの胸の内がわかるはずです!!! ボクがどれだけセンパイのことを愛しているか!!!!! いや、わからなければならないんです、ボクのものだから!!!」
「なんなんだよそのめちゃくちゃな理論!」
「許さない許さない許さない許さない許さない。浮気だけは絶対に許さない。ボクの愛を裏切るなんて真似、もう二度とできないように教育してやる」
「しまった……!?」
香澄に投げ飛ばされる。急いで起き上がろうとした瞬間、
「ボクが好きだと言え!!!!!」
ハンマーが、無慈悲にも俺の右足を直撃した。
「あああああぁぁぁっっっ!!!!!!!!!!」
骨が折れる音がたしかに聞こえた。
「愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ! 愛せ!」
それでも彼女は、俺の右足だけを何回もハンマーで殴り続けた。
「ボクのことが大好きだと言え! ボクにプロポーズをしろ! ここでボクに永遠の愛を誓え!!! 言わないと殺す!!!!!」
「ぐあっ、くっ……!」
「他の女なんか不要だと言え! 他の女との記憶を抹消しろ! 他の女を消すと誓え!!! じゃないと殺す!!!!!」
「うあっっっ!!!!!!!!!!」
言葉を吐く余力なんてなかった。悲鳴だけが、勝手に喉から出る。
「センパイを殺した暁には、この世のすべての人間を殺し尽くして、ボクとセンパイだけの世界を作り出してあげますから♡」
もはや右足の神経が死んでいるのか、痛みすら感じない。それが限界を迎えている証拠であることを、俺は知っている。
「でももし、センパイが愛の
視界が赤い。耳が痛い。心臓が乱暴に暴れ回っている。
せっかく、紅と茶助が助けてくれたっていうのに、俺は……。
「センパイはボクのもの♡ ボクはセンパイのもの♡ センパイが狂おしいほど愛しているのはボク♡ ボクが壊したくなるほど愛しているのはセンパイ♡ センパイが死にたいと思うのはボクを愛しすぎているから♡ ボクが殺したいと思うのはセンパイを愛しすぎているから♡ あっはははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!!! これぞ究極の相思相愛♡♡♡♡♡」
紅、茶助、すまない。
助けてくれて、ありがとうな。
「あ!!!!! い!!!!! し!!!!! て!!!!! る!!!!!」
香澄の絶叫とともに、視界が真っ赤に染まった。
でもこれは俺の血じゃないと、すぐにわかった。
「…………………………あ?」
香澄の血だった。
彼女が腹から、大量の血を吹き出している。
香澄がそのままあっけなく倒れると、その背後に、ナイフを持った葵ねぇの姿があった。
助かった。
最悪だ。
両方の感情が押し寄せてくる。
葵ねぇはしばらく俺を見下ろすと、すっと、こちらに手を出した。
彼女の手が、俺の顔に接近する。
なにをするつもりだ。なにをされるんだろう。警戒心と緊張でいっぱいになる。
葵ねぇの手が顔に触れる。ぐっと目を閉じる。まともに動いたのは右目だけだった。
目を開けると、俺は葵ねぇの背中の上にいた。おんぶ、されてるのか……?
そしてそのまま、静寂と化した更衣室を後にする。
葵ねぇの足音だけが、耳に入ってくる。
彼女は無言だった。俺は、口を開く元気がない。
抵抗も理解も信用もできないまま行き着いたのは、葵ねぇの部屋だった。
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