第31話 Chase
「こんにちは、センパイ♡」
道の先に、香澄がいた。
ただそれだけの事実に、俺は絶望にも似た感情を抱いていた。
「センパイが逢いに来てくれないから、ボクから逢いに来ちゃいました」
呑気な笑顔をこちらに向けて、勝手にしゃべりだす。見たところ武器や凶器は持ってないみたいだ。ということは、本当に俺に会いに来ただけ?
「センパイ、元気でしたか? って、訊くまでもないか。ボクがいなくて、寂しくて死にそうでしたよね。だってセンパイ、ボクに再会できて嬉しいって顔ですもん。幸せを噛み締めてるんですね」
いや、この期に及んで香澄がなにもしてこないなんて、甘い考えだ。なにせ数日ぶりの再会だ、彼女の中で
「それならそうと、遠慮なんてしないでボクの家に帰ってきてくださいよ。あそこはボクたちの愛の巣なんですから。ホント、どうしてボクに顔を見せてくれなかったんですか? ボクのほうは、寂しくて悲しくて苦しくて、もうすぐ死んじゃうところだったんですからね」
香澄がはにかんでみせる。アイツ、また痩せた気がする。やつれたと表現したほうがもっと正確か。注視してみると、ところどころに傷が残っている。
「ボクが死んで悲しいのはセンパイでしょう? だったら、ちゃんとボクに愛を
悶える香澄から、ゆっくりと、悟られないように距離を取る。いまコイツに襲われでもしてみろ、俺は間違いなく死ぬ。ただでさえ
「ところでセンパイ、どうしてボクから離れようとしてるんですか?」
肝を冷やす。やっぱりコイツを出し抜くのは難しいか。
「それに一言もしゃべってくれないし。さっきからボクの声が一方通行ですよ。ま、ボクとセンパイは両想いですから、破局の心配はしてないですけどね」
無策で逃げても勝ち目はない。なら、一か八かこちらから仕掛けてみるか。
「お前とは縁を切るって言っただろ」
精神攻撃に出る。うまくいけばアイツを放心状態に
「?」
香澄が首を傾げる。
「センパイ、なに変なこと言ってるんですか。そんなこと、聞いた覚えがないですよ」
「この前、砂浜でお前たちに言っただろ」
「いやいやまさか。センパイがボクにそんな残酷なセリフを吐くわけがない。だって、センパイにとってボクはかわいくてたまらない後輩で、愛してやまない恋人ですもん」
どうやら本当に心当たりがないらしい。いや、自分に不都合なことは記憶から抹消しているのか。
「さ、そろそろ帰りましょうか、二人の愛の巣へ。そしてたっぷりと求め合いましょう」
香澄が手を前に伸ばす。
「お前とは二度と口を利かない」
俺はめげずに攻撃を続ける。
「もう、センパイってばボクをいじめるのが本当に好きですね。ボクもセンパイにいじめられるの大好きですけど、それは帰ってからのお楽しみにしましょう。ふふっ、たくさんセンパイに犯してほしいなぁ♡」
クソッ、まったくお花畑なヤツだ。俺の言葉を嘘か冗談だと思ってるみたいだ。これじゃあ、なんの抵抗もできずにアイツに食われるだけだ。なにか策を打たないと……!
「二人で腕を組んで帰りましょうね!」
香澄が俺の左手を取る。
刹那、彼女の表情も雰囲気もがらりと変わった。
「あぁ?」
香澄が血眼で俺の手首を見ている。
「これ、なに?」
彼女の手がぶるぶると震えている。
「どうして他の女の傷があるんですか?」
黄色い声が、チクチクとした赤い刃物に変わった。
「どうして他の女と会ってるんだよ!!!!!!!!!!」
ヤバいと思った瞬間、香澄が俺の顔面めがけてパンチを繰り出した。すんでのところでそれをかわし、バランスを崩しながらも彼女から離れる。
「どうしてボクを放置して、他の女と会ってるんだよ!!! どうしてボクよりも他の女を優先してるんだよ!!! ボクよりも他の人間のほうが大切なんですか!? 違うでしょう! センパイはボクのものだ!!!!!」
香澄が再び殴りかかってくる。重傷を負った身体を死に物狂いで動かし、横に回転してパンチを
「あれぇ?」
香澄の腕がブロック塀にめりこむ。それで彼女は身動きがとれないらしい。
「今だ……!」
これを好機と捉えた俺は、すぐさまその場から立ち去った。香澄の声を無視して、とにかく走りまくった。裸足の痛みも、炎天下のつらさも、左手の苦しみも、全部抱えて走りまくった。
「あれ……センパーイ、どこですかぁ?」
遠くから香澄の声が聞こえる。俺がいなくなったことを認識したらしい。だが姿は見えない。まだブロック塀から抜け出せずにいるのだろう。この隙に、できるだけアイツから離れるんだ。うまくいけば、香澄の襲撃を振り切ることができる。
このあたりは、車両一台分ほどの幅員の道路が続く。正直、単純な直線勝負は避けたいところだ。俺がアイツに敵うはずがないからな。ただ、人混みに紛れようと大通りに出るのも厳しい。目立ちたくないというか、俺の現状を多数の人間に見られたら面倒だ。
みどりちゃんの家から距離を取ることも念頭に置きつつ、俺は最適だと思えるルートをがむしゃらに突き進んだ。
「あ、いたいた! センパーイ!」
突如、後方から俺を呼ぶ声がした。全身の毛が逆立つような恐怖を感じながら、首を背後にまわす。
「待ってくださいよぉ!」
200メートルほど離れたところから、香澄が笑顔でこちらに向かってきていた。愉快に手まで振っている始末だ。
「クソッ、もうそこまで来てるのかよ!」
怒りというより、焦りの感情のほうが強かった。
香澄の怪物っぷりを
「あはは、もしかしてボクと追いかけっこですか! ラブラブなカップルみたいで素敵ですね。ならボクも本気で楽しんじゃおうっと!」
文字通り命が
「センパイ、大好きですよ! どんなに離れていたって、ボクはセンパイに愛を叫びますからね! アツアツなボクたちに、距離なんて関係ありません!」
香澄の声がどんどん近づいてくる。彼女がアスファルトを蹴る音が、俺の耳元で粘っこく響いている。
動かせ、手を、脚を。一秒でも速く動かし続けろ。そうやって念じながら走るのが精一杯だった。
「八十崎 俊と、久我 香澄は、幸せな家庭を築くことを前提に付き合っています! どうかみなさん、ボクたち夫婦を末永く応援してください!」
突然、香澄が大声で叫び出した。通行人や近隣住民が一様に彼女を見ている。アイツ、なんのつもりだよ! 身も蓋もない嘘を言い
そう
ここは、入り組んだ道路に忍び込んで、アイツの目を
俺は左に折れて住宅街に入る。
「あれ、センパーイ、どこ行くんですか?」
「もしかして、ボクたちの新居を探してるんですかぁ? それなら一緒に見て回りましょうよ」
住宅街でも彼女は声を上げている。よく通る声が、この状況では緊張感となって心臓を刺激してくる。だがそれは、自分の位置を敵に教えているようなものだぞ。
「あ、いたいた! やっぱりここでしたか」
「なっ……!?」
休憩していたタイミングで、隣の道に香澄が現れる。
「センパイの汗の匂いで、すぐにわかりましたよ」
「クソが……!」
顔を輝かせながら駆け寄ってくる香澄。その恐怖にたじろぎながらも、ただちに場所を移す。
「また逢えましたね」
移動しても、また隣の道に香澄がいる。
「やっほー、センパイ!」
さらに移動しても、香澄がいる。まるで金魚のフンのように、しつこくべったりくっついてくる。まさかアイツ、俺と平行移動しているのか。それじゃあいつまで経っても距離を離せない。
「こうやって何度も巡り合っていると、運命を感じますね!」
誤算だった。このタイプの住宅街では、一度追跡者に捕捉されると振り切るのが難しい。俺と香澄の相性の悪さを考えればなおさらだ。
「ちくしょうがっ」
作戦変更だ。もっと見晴らしが良好で、なおかつ身を
住宅街を脱出すると、広大な公園に迷わず逃げ込んだ。ここなら、香澄の位置を見失うリスクが少ない。それに、
「よし、ここに隠れよう」
障害物の陰に隠れることができる。俺は雑草の生い茂った場所に身を
「お、今度はかくれんぼですかセンパイ?」
香澄の無邪気な顔がありありと
「センパイのラブコールが聞こえてきます。やっぱりボクを求めずにはいられないんですね! ふふっ、いますぐキスしに行ってあげますね!」
とか口走っておきながら、香澄がどんどんとこちらから離れていく。やがて俺の視界から彼女が消える。よし、作戦成功だ! この隙に一気にアイツを突き放す……!
「みーつけた♡」
全身が凍りつく感覚がした。
公園から離れようと走り出した瞬間、真後ろに香澄がいた。
「さあセンパイ、キスしましょうか。キスの次は、ボクを愛してください。ボクをめちゃくちゃにして、快感で酔わせてください」
曇りも陰りもない笑顔で、香澄がこちらに手を伸ばす。その距離が近づくにつれて、俺の顔が恐怖で固まる。
クソッ、ここまでか。
ここまでなのか。
このまま俺は、香澄に痛めつけられるのか……!
「俊くん!!!」
キィィィという金属音と、聞き慣れた声が同時に耳に入る。
「俊くん、乗ってください!」
「……茶助!?」
現れたのは、チャリに乗った茶助だった。
「俊くん!」
予想外すぎる人物の登場に呆気に取られるが、今は立ち尽くしている場合じゃない。なにが起こっているのかわからないが、腹を決めて自転車の荷台に
「飛ばしますよ……!」
茶助が全速力でチャリをこぐ。瞬く間に公園を抜け、道路を駆ける。前髪を掻き上げる熱風とギコギコという自転車の悲鳴が、今はなによりも希望に思えた。
「茶助、なんでお前がここに!?」
すでにへとへとになりかけている彼に尋ねる。
「いや、僕もよくわからないんですけど、紅さんが行けっていうから」
紅が助け舟を出してくれたのか。
「そしたら、俊くんが危機一髪の
「ふっ、これは
「どうやら野暮な質問だったようですね」
今日ほど茶助を頼もしいと思ったことはない。
「このまま遠くへ突っ走ってくれ!」
「はい!」
「センパーイ!」
ゾッとした。後方150メートルあたりに、悪魔の姿があった。
「おいおい、こっちは自転車だぞ……」
香澄の怪物ぶりに言葉を失う。
「センパイ、急に速くなりましたね。そんなにボクと遊ぶのが楽しいんですか。そんなにヒートアップしたら、ボク、愛をセーブできませんよ。たぶん、センパイのことを激しく求めちゃいます」
「ずいぶんと余裕そうですね……」
「頼む、もっとスピードを上げてくれ! じゃないと俺ら二人ともおしまいだ」
「了解ですっ」
茶助が光の速さでペダルを回転させる。
「そうだ! センパイ、ボクにご褒美くださいよ! ボクがセンパイを捕まえたら、センパイはボクの人形になってください。ボクはセンパイの奴隷になります」
「お断り……だ!」
公園で迎撃用に拾っておいた石を香澄に向かって投げる。
「はっ、センパイがボクに石を投げてくれた! えへへ、嬉しいな」
香澄は石を
「俊くん、曲がりますよ!」
自転車が急カーブ。転げ落ちそうになるのを耐える。
俺たちは進路を変えて、先程とは別の住宅街に入った。
「下り坂なら、自転車のほうが圧倒的に有利なはずです」
「あっははは! センパイ、もっとボクをいじめてくださいよ! 石なんかじゃ足りません」
「なんで民家の屋根の上を走ってやがるんだよ……!」
まるで忍者のように、香澄はすいすいと屋根の上を移動する。気が付けば、彼女は俺たちと並走していた。
「センパイが殴ってくれないなら、ボクから殴っちゃいますよぉ」
刹那、香澄が屋根から飛び降りた。着地先は俺たちのチャリ。そして彼女は、いつの間にか調達していたハンマーを振り上げていた。
「おらっ!!!」
「がはっ!!!!!」
あろうことか、自転車が真っ二つに割れる。衝撃で弾き飛ばされる俺と茶助。
「ぺろっ」
香澄が舌舐めずりをする。
「俊くん、逃げてください!」
起き上がりながら茶助が叫ぶ。
「僕のことは構いませんから!」
「っ……すまない、茶助!」
立ち上がり、全身全霊をかけて走った。
後ろを振り返ることなく、果ての希望にすがるように。
「くっ……!」
幸運にも、走った先には学園があった。背水の陣で敷地内に飛び込む。
慣れ親しんだ校舎を、
ただ生き延びることで思考が埋め尽くされていた。
「……!」
だから行き止まりにぶつかって、慌てて近くの部屋に入った。
そこは陸上部の男子更衣室。まさに慣れ親しんだ場所だった。
自分の幸運ぶりに
アイツを
「待ってましたよ、センパイ」
息が止まった。
どうして、どうしてお前が、俺の真後ろにいる。ここはロッカーの中だぞ。
もしも絶望が人の形をしているとしたら、それは今、背後から俺の首に手を伸ばしている。
「つかまえた♡」
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