第21話 再会は曖昧で


「おかえりなさい、俊ちゃん」




「あ、葵ねぇ……!?」

玄関で俺を出迎えたのは、紛れもなく葵ねぇ本人だった。

「どうして、ここに……?」

「どうしてって、ここは俊ちゃんとお姉ちゃんの愛の巣でしょう。お姉ちゃんがいるのは当たり前よ」

葵ねぇが柔らかな笑みを浮かべる。その表情を見るのは、ずいぶんと久しく思えた。

「か、身体は……もう平気なの?」

「ええ。この通り、バッチリよ」

両手を広げてみせる葵ねぇ。たしかに身体のほうは問題ないように見える。予定では完治するまでにまだまだ時間がかかると言われていたから、正直戸惑いを隠せない。

しかし、俺が気になったのは葵ねぇのメンタルだ。恐怖心でいっぱいな俺に対して、葵ねぇはいつも通りのほほんとしている。あれだけのことがあったのに、まるで気にしていない様子だ。いや、わざとそういう風を装って、俺をあざむく算段なのかもしれない。だとしたら、油断は到底できないな。

「もう俊ちゃん、聞いてるの?」

「え……? あぁ、ごめん。なに?」

「いつまでもこんなところにいないで、リビングに行きましょう?」

葵ねぇが手を差し出してきた。

「そ、そうだね」

俺はその手を取るなどせず、玄関に上がる。葵ねぇの脇を通り越し、リビングへ向かおうとした瞬間だった。

「……っと、その前に」

という葵ねぇの声が聞こえたかと思うと、突然、背中越しに抱きしめられたのである。

「俊ちゃん……俊ちゃん俊ちゃん俊ちゃん」

背中に顔をうずめ、俺の名を呼ぶ葵ねぇ。この間までは何気なかった行為が、今の俺にはナイフを突き立てられているように思えてならない。無意識に、俺の呼吸は荒くなっていた。

「ふふっ、久しぶりの俊ちゃん成分、お姉ちゃんにたっっっくさん充電させてね」

葵ねぇは、しかしそれ以上のことはしなかった。数分間、俺に抱きついて“充電”をするに終わった。

どうしてだろう? 危機感でガチガチになっていた俺の身体は、気づけば葵ねぇのぬくもりにほだされていた。

久方ぶりの葵ねぇとの再会は、曖昧な空模様を俺の心にもたらしたのである。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「こ、これは……」

自室で部屋着に着替え、流れ作業でリビングへ足を運ぶと、予想だにしなかった光景が俺を出迎えた。

「じゃーん、名付けて『俊ちゃんと葵ねぇの運命の再開鍋』です!」

葵ねぇが高らかに宣言する。テーブルの上には豪勢な食事が並び、その中央にはアツアツの鍋がそびえていた。その異様さに目を疑う。

「すごい量だね、これ」

まるでパーティだ。

「待ちに待った俊ちゃんとのご飯だもの。お姉ちゃん、張り切ってたくさんごちそう作っちゃった」

それにしても盛大だ。しかも真夏なのに鍋って……。

「さあ俊ちゃん、一緒にいただきますしましょう」

「う、うん」

いろいろと疑問に思うところはあるが、俺は我知らず胸が躍っているのを自覚した。こんなに豪華な夕食は久々だ。葵ねぇが入院していた間はほとんどが既製品だったから、この呆れるくらい贅沢なフルコースが輝いて見える。

俺は葵ねぇに促されるまま着席し、「いただきます」と口にした。それすらも懐かしく感じる。

早速、葵ねぇの手料理に箸を伸ばそうとした途端、

「はい俊ちゃん、あーん♪」

葵ねぇが箸を差し出してきたのである。これもずいぶんと懐かしいな。

しかし、俺は素直にそれを受け入れることができなかった。いや、以前だって素直に受け入れてはいなかったが、今はそれ以上に拒絶の念が強かった。

葵ねぇがなにかを企んでいるのではないか。そう勘繰ってしまうほどには、俺の心は完全に疑心暗鬼に陥っている。今までの彼女の行動を踏まえれば当然だろう。

「どうしたの、俊ちゃん? 食べないの?」

「……自分で食べる」

差し出された箸には目もくれず、俺は肉じゃがを口に入れた。

「そんな、俊ちゃんがあーんさせてくれないなんて!」

葵ねぇの叫びには耳も貸さず、食事を進める。

「ほら俊ちゃん、お姉ちゃん特製のポテトサラダだよ。はい、あーん」

「だから、自分で食べるって」

「じゃあじゃあ、こっちのお刺身はどう? はい、あーん」

「後で食べるよ」

「うぅ……俊ちゃんがあーんさせてくれないよぉ」

見るからに落ち込む葵ねぇ。一方で俺は、まだ内心身構えていた。どうやら料理は安全みたいだ。けれど、最後まで安心はできない。葵ねぇがなにも仕出かさないという確証はないのだから。

「ねえ俊ちゃん、どうしてお姉ちゃんにあーんさせてくれないの?」

俺が考え込んでいると、いつの間にか葵ねぇの顔が目の前にあった。慌てて後ずさる。

「な、なんでって、食事くらい自分でできるし」

「でもでも、しばらくぶりの俊ちゃんとの夫婦水入らずなんだよ。お姉ちゃんは俊ちゃんのお世話、たくさんしてあげたいよ!」

いや夫婦じゃないし。

「ね? お願い俊ちゃん。お姉ちゃんに、俊ちゃんのお世話をさせて? じゃないとお姉ちゃん、愛情爆発して死んじゃうよ!」

そんな死因はない。

「お姉ちゃんね、一刻も早く俊ちゃんのお世話がしたくて、元気になったんだよ。俊ちゃんへの愛情が、お姉ちゃんを生かすエネルギーなの。だからお返しをさせて? 今度はお姉ちゃんが、俊ちゃんに愛情を送ってあげる!」

その言葉通り、葵ねぇは本当にピンピンしている。もう身体は大丈夫なのだろう。それでもやっぱり猜疑心さいぎしんは拭えない。ここは、葵ねぇをきっちりと問い詰めるべきだ。葵ねぇの本心を。

「葵ねぇ」

「なに、俊ちゃん? もしかして、あーんしてほしくなったのかな?」

葵ねぇの言葉を無視して、俺は続ける。

「葵ねぇは、なにがしたいの?」

意を決して尋ねる。すると、葵ねぇはきょとんとした顔になった。

「なにって、俊ちゃんのお世話よ。何億回も言ってるじゃない」

やがて葵ねぇは笑みを浮かべ、そう答えた。違う、俺が聞きたいのはそういうことじゃない。

「葵ねぇは、俺をどうするつもりなの?」

一歩踏み込んだ質問をする。

「どうもこうもしないわ。俊ちゃんはお姉ちゃんの旦那様だもの。ただ尽くすだけよ」

嘘だ。じゃなきゃ、俺にあんなことをする理由がない。

「じゃあ、葵ねぇは」

そう思った次の瞬間には、俺の口が開いていた。

「どうして、学園祭であんなことをしたの?」

沈黙が、場の空気を凝固させた。これでいい。俺が聞きたかったのはこれだ。葵ねぇがその本心を語るまで、俺は何時間だって待とうじゃないか。

鍋がぐつぐつと音を立てている。増幅する静寂の中、ようやくとも思える時間を経て、葵ねぇが答えた。

「ごめんなさい俊ちゃん。あんなことって、どんなことだったかしら?」

はにかんだ葵ねぇに、俺は怒りと呆れが混じった感情を覚える。とぼけるつもりか?

「葵ねぇは、俺やみんなに酷いことをしたじゃないか」

自然と語気が荒くなっていた。逃げようたって、そうはさせない。もう二度と、あんな惨劇を繰り返してたまるか……!

「……ごめんなさい、俊ちゃん」

葵ねぇは、さっきとまったく変わらぬセリフを吐いた。

「実は、学園祭の日のことは、あまり覚えていないの」

「え……」

彼女の言葉に多少、動揺した。予想外な返答ではあったからだ。けれど、今の発言が真実かはわからない。葵ねぇが嘘をいている可能性だって十分にある。

「気が付いたら病院にいて、お姉ちゃんすっごく驚いちゃった。でも、大したケガでもなかったから、こうして俊ちゃんに会いに戻ってきたのよ」

葵ねぇが胸の前で両手を合わせる。その様子はあっけらかんとしていて、まるで一連の出来事をなんとも思っていない風だった。少なくとも俺には、「頭を打って記憶が混濁こんだくしているのか?」と思えてしまった。


「あ、そうだ俊ちゃん。お姉ちゃんね、俊ちゃんにひとつだけ不満があるのよ」

すると、今度は葵ねぇが切り出した。見ると、彼女は頬を膨らませていた。

「俊ちゃん、どうしてお見舞いに来てくれなかったの?」

「え……?」

思いも寄らない文句と、眼前に迫る葵ねぇの顔に気圧けおされてしまった。

「お姉ちゃん、ちょっぴり……ううん、すっごく寂しかったな。昔は毎日、看病してくれたのに」

葵ねぇはプンプンした顔で俺に詰め寄る。

「その、初日に顔を出したんだけどさ……葵ねぇ、寝てたから」

事実、みんなが入院したと聞いたときはすぐに様子を見に行った。しかしそれ以降は、一度も病院には赴いていない。みんなと顔を合わせるのが嫌だったからだ。

「そっか……ふふっ」

俺が言い訳を述べると、葵ねぇはなぜか笑った。

「気に病まないで、俊ちゃん。今はお姉ちゃんがお世話をしてあげる番だから、俊ちゃんが負担を背負う必要はないわ」

「そ、そうなんだ。ならよかった」

俺は乾いた笑みを作ることしかできなかった。なんともぎこちない会話だ。俺たち姉弟きょうだいは、もう元通りになれないのだろうか。

「でもね、やっぱりお姉ちゃん寂しかったの。だから、お詫びにお姉ちゃんのわがままを聞いてほしいな」

葵ねぇが首に手を回してくる。

「お姉ちゃんと一緒に、お風呂に入りましょう♪」

「は、はぁっ!? なに言ってるの葵ねぇ」

葵ねぇの肩をつかみ、引き離そうとする。

「お姉ちゃんね、実は入院中、満足にお風呂にも入れなかったの。だから、お姉ちゃんのはじめてを、俊ちゃんにあげたいなって」

「はじめてじゃないでしょ。風呂には何度も入ってるでしょ」

「でも、久々のお風呂だから、お姉ちゃんいろいろと忘れちゃってるかも。身体の洗いかたとか」

「そんな簡単には忘れないよっ」

「それとも俊ちゃんは、お姉ちゃんがこのまま一生お風呂に入らずに臭くなっても構わないの? お姉ちゃん、はじめては俊ちゃんとって決めてるから、一緒に入ってくれない限り、お風呂には触りもしないわよ」

「なんでそんなかたくななのっ」

「あ……でも、俊ちゃんがそういうプレイをご所望なら、お姉ちゃんは喜んで受け入れるわ。俊ちゃんの命令なら、家畜にだって、野良犬にだってなれるわよ♪」

「俺にそんな性癖はないから!」

「お願い俊ちゃん。俊ちゃんのお背中を流してあげたいの。俊ちゃんの役に立ちたいの」

「別に俺は、そんなこと望んでないのに……」

ため息を漏らす。

「それにね、俊ちゃん。やっとこうして会えたのだから、二人で一緒の時間を過ごしたいの。それって、姉弟にとってはすっごく大事なことじゃない?」

「それは……」

それはそうだが、俺たち姉弟の関係を壊したのは葵ねぇじゃないか。

「お姉ちゃん、俊ちゃんと仲直りしたいな」

「……!」

「仲直り」というワードに驚かされる。葵ねぇにも自覚はあったのか?

「夫婦としては順風満帆なのに、姉弟としては曖昧っていうのも、腑に落ちないじゃない?」

「俺にはその思考が腑に落ちないよ」

でも、なぜか葵ねぇが冗談を言っているようには見えなかった。もしかしたら、葵ねぇは本当に関係修復を望んでいるのかもしれない。だったら、ここで拒絶してしまってはいけない気がする。俺だって、葵ねぇと仲違なかたがいしたいわけではない。

「はぁ……わかったよ。今日だけ、特別だからね」

前にも似たようなセリフを言った覚えがある。

「本当に!? ありがとう俊ちゃん! お姉ちゃんが一生懸命、ご奉仕してあげるからね♪」

満開の笑顔で葵ねぇに抱きつかれる。それがやっぱりあったかくて、いつの間にか俺の緊張はほどけていた。

俺たちは後戻りできるのだろうか。その答えはまだわからないが、少しだけきりが晴れたような、そんな気がした葵ねぇとの夕食だった。


ちなみに夕食後、一緒にお風呂に入ったのだが、それはそれは大波乱だった。葵ねぇは相変わらずゴーイングマイウェイだったが、相も変わらず元気そうでホッとした。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


数週間ぶりの俊ちゃんは、愛しくて、愛しくて、愛しかった。愛しすぎて、感情を抑えるので必死だった。私に禁欲は無理だと、改めて悟った。

あぁ……久々の俊ちゃんのお部屋。俊ちゃんの匂いで満たされていて、身体が火照っちゃう。

ふふっ、俊ちゃんの寝顔、とってもかわいい。こんなの見せられたら、我慢できなくなっちゃうよ。

いつものように俊ちゃんのベッドに入り、愛をささやきかける。離れ離れだったぶん、今日はたっくさんお耳に愛をんであげるからね。

せっかくだから、俊ちゃんの髪の毛ももらっていこう。退院祝いに、新しいミサンガでも作っちゃおうかな。

俊ちゃんの身体が、ゆっくりと鼓動を刻んでいる。膨らんだり、萎んだりを繰り返している胸に、そっと手を当てる。

「赤い糸、なくなっちゃったんだね……」

お風呂で見たときは、すごくショックだった。お姉ちゃんがあれだけの愛情を込めて縫ってあげた運命の赤い糸が、綺麗さっぱりなくなっていた。まるで最初からなかったかのように。そう思うと、ショックよりも怒りのほうが強いのかもしれない。

「ふふっ、でも大丈夫よ」

俊ちゃんの頬を、優しく撫でる。

「いつかまた、縫ってあげるからね……。いつかまた、必ず」

でも今はそのときじゃない。学園祭の件で、俊ちゃんは私から距離を置いてしまった。俊ちゃんが私から遠ざかってしまった。

だから今は、なにもしない。俊ちゃんが私に歩み寄ってくれるまでは、なにもしない。つらいけど、俊ちゃんに嫌われるほうがもっとつらいから。

俊ちゃんの唇に、人差し指でキスをする。

いつか、俊ちゃんのほうから、お姉ちゃんの唇にキスをしてくれるかな。

お姉ちゃんはいつまでもいつまでも待っているから。永遠に俊ちゃんを愛し続けるから。

「大好きだよ、俊ちゃん」

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