第29話 異の言伝
少し苦さを含んだ広葉樹独特の香りに水の匂いが混じり始めた。夏の日差しの中、走り続けている空冷エンジンの熱と振動が柊悟の膝と踝辺りをむず痒くさせ、足元の感覚を妙に鮮明にさせる。
なだらかに左に下るカーブを越えて視界に飛び込んで来たのは、光に照らされる広大な水面と広がる樹々。それらが時速60キロの速度の中で、万華鏡のように形を変えていた―――
ライダーの視界は意外にも遠く、狭い。これはヘルメットにより視界が狭められている事もあるが、実際は高速走行の中、外気に身を晒している緊張感、そして速度による情景の変化に脳の処理が追い付いていないのが要因だと言われている。だが、それでも俯瞰で横を抜けてゆく車や、ガードレールの白さを捉えつつ走り続ける。五感だけでなく、第六感までをフルに使う。それがツーリングの面白さのひとつだ。柊悟もその高速で流れる狭く限定された世界が気に入っていた。
『似てるんだよなぁ、サッカーに』
次々に変化してゆく景色を眺めながら柊悟はそう呟く。
足元にはボール。
緑の芝生、それを噛むスパイクの音。駆け上がっている為、視界は狭く、見据えているのは敵ゴールのみ。左に感じるサイドライン。俯瞰で捉えているのは近づく敵ディフェンダーと駆け上がる仲間たちの気配 ———
橙の点滅が目に留まる。
前を行く、由布子のZ2がウィンカーで右折を告げた為、柊悟は口元に浮かび掛かった笑みを消すと、前に倣い右にハンドルを切り駐車場兼展望台へとウラルを進ませた。
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「うわー、凄い! これってダムですよね? 」
コンクリートの壁と大量の水。
展望台から見えるその有機物と無機物の物量に圧倒されたのか真咲が声をあげる。
「そうよ。三保ダム。もともと丹沢湖は神奈川県西部の水源を確保するために造られた人造湖なのよ。ダムとしては小さい方だけど、中々の景色でしょ? 」
ヘルメットを肩に担ぐように持ちながらそう返す由布子に周りにいた外国人観光客の視線が落ちてゆく。乗っているバイクに加え、そのスタイルの良さはモデルと気づいていないであろう外国人から見ても目を惹くものらしい。
「風‥‥‥ 由布子さん、詳しいんですね」
「風子でいいわよ。真咲ちゃん。ここには雑誌の撮影で何度か来ていて、結構お気に入りなのよね」
芸名で呼ぶことを憚った真咲に笑顔を向け、そう笑う由布子。
「確かにいい眺めだよな。ダムなんて生まれて初めて見たし、丹沢湖が人造湖であるなんて知らなかったよ」
「私も」
景色のお陰か機嫌がよくなった真咲と顔を見合わせた柊悟はほっと胸を撫で下ろす。
「由布子さん、バイクが好きでダムに詳しいなんて、おと‥‥‥ いや、面白いよね‥‥‥ あっ、確かあとドラムもやるよね? 」
柊悟は両手の指をスティックに見立て振ってみせた。
「シュウ! 今、男みたいって言おうとしたでしょ? 私はちゃんと女性らしく洋服のデザインや裁縫だってやるし、料理だってうまいの知ってるでしょ」
『こらっ』と叱るように拳を上げ、柊悟を叱るように由布子は笑う。
「‥‥‥デザインの話しとかは、俺なんかより風子の熱烈なファンの方が興味あるみたいだよ。なぁ、真咲?」
「‥‥‥ 」
言葉を受け上手く繋いだつもりだったが、当の真咲は視線を柊悟から露骨に逸らす。
「おい、真咲さっきからどうしたんだよ」
「‥‥‥別にどうもしないわ」
どこぞの女優さんのような口ぶりだが、また機嫌が悪くなったのは明らかで、柊悟の隣を避けるように由布子と並ぶ真咲。
「‥‥‥ったく」
舌打ちをしたくなるようなその態度にため息をもらした瞬間、柊悟は地面が少し浮いたような感覚に襲われる。
地震だった。
「地震?‥‥‥ 大きいわね」
由布子が反応を示す。
「真咲、平気か! 」
「ここは外で高台。倒れてくる物なんてないわ」
「‥‥‥ 」
柊悟の心配をよそにツンとした返事を見せる真咲。地面の揺れは収まったものの、何とも言えない空気がその場を流れる。
「ふたりともそろそろ、音治郎さんたちからの言伝を話そうと思うんだけど良いかしら」
そんなふたりを見つつ、苦笑いを浮かべた由布子は、周りに人のいない事を確認するかのようにぐるりと首を回すとポケットからメモを取り出しはじめた。
「お願いします」
そう答える真咲を確認した後、柊悟も静かに頷く。
「音治郎さんは『真咲さんの持っていたモノは【
首をひねる真咲の横で、柊悟は数時間前に会話を交わした『古書酔夢庵』の女主人・七種ふみさんの言葉を思い出し、ある事に気が付く。全身に立つ鳥肌。
もしかして【燕のこ 】は‥‥‥
「シュウ、どうかしたの?」
余程怪訝な顔をしていたのだろう、由布子が声を掛けて来た。
「なんでもないよ。それよりローリーや
ごまかし半分、柊悟はそう返す。
「ええ、ふたりは、『祈りも経も通じない相手だから、いざとなったら箱を渡してしまった方がいい』って‥‥‥ 私、オカルトとかは信じないんだけど、坊主の息子と敬虔なクリスチャンが言うと、さすがに背中に走るモノがあるわ」
イギリス生まれのローリーはカトリック、坊主頭の翼はああ見えても真言宗の寺の息子だ。
「音治郎さんも【箱】って言ってたけど、お宝か何か? 」
『人ではない』その言葉と黒装束の一団を思い浮かべる柊悟への問い。疑問はもっともだ。
「私の出生に関わるモノで、私はその木箱をあと3つ探しているんです」
そう語りつつ、背負っていたリュックを降ろしはじめる真咲。
「真咲ちゃん。あなたにとって大切な品物なら、安易に人前に晒すのは良くないわ。ここは一応観光スポットよ」
ガサゴソとリュックから木箱を取り出そうとする真咲を諭す由布子。その指摘通り、人通りの少ない所にはいるが、人目がゼロと言う訳ではない。
「‥‥‥そうですよね。ありがとうございます」
「そんな、頭を下げる事じゃないわ」
頭を下げる真咲に言い過ぎたとばかりに言葉を掛ける由布子。
「シュウも男の子なら、気を使ったあげなきゃダメじゃない」
「へいへい」
明らかに場繋ぎの為の諫言。そんな自分に飛んできた言葉に柊悟は不満混じりの返事をし、あらためて警戒の為にまわりを見渡す。
駐車場兼見晴らし台にいるのは団体の観光客が10人ほどにカップルらしき組み合わせが3組、それに家族連れが2組程。さらに、西側に視線を動かすと見覚えのあるひとりのガタイの良い男。男の後ろには銀色のバイク。
「ミヤケンさん?」
「あっ! ほんとだ」
思わず声をあげた柊悟に反応する真咲。ミヤケンも気が付いたようで、笑顔を浮かべながら、こちらに駆け寄って来た。
「ミヤケン? 例のストーカーもどきの奴らの事? 」
由布子がそう声をあげ、ふたりを庇うように前に立つ。
「由布子さん、ミヤケンさんはストーカーじゃないよ。僕らの恩人なんだ。ついでを言えば、VMAX使い」
ざっくりとした人物紹介をする柊悟。
「ストーカーとはひでぇな。 久しぶりって程じゃねえけど、また会ったな。兄ちゃん、嬢ちゃん!」
カメラを首から下げたまま、花宮兼一ことミヤケンは人なつこい笑顔を浮かべ、再会を祝うかのように拳を差し出してきた。困惑気味な表情を浮かべる由布子の横でミヤケンの拳に自身の拳を合わせる柊悟と真咲。
「ミヤケンさんは、なんでこんな所に?」
偶然の再会に笑顔を浮かべる真咲の問いかけ。それに対し、ミヤケンはカメラをポンと叩くとこう返した。
「『
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