青の絶界

松乃木ふくろう

謎の少女

第1話 嘘の名前

 駅から続く大通りの信号を右に曲がり、坂道を登り始めると風に潮の匂いが満ちはじめた。

 ヘルメットの中で滴る汗を無視して、アクセルを開け、風避けとして植えられた松並木の坂道を一気に駆け登る。


 バイザー越しの視界は緑から青へ


 頭上には空、眼下には海。

 空と海の青。

 夏の日、二つの青が繋がり目の前に青の世界が広がった――――――




 夏休みに入ったからといって、日常は大きく変わる訳でもない。朝になれば起きなければいけないし、日中は家の掃除や洗濯、庭の水撒きに夏期講習への参加など、やろうと思えばいくらでもやる事はある。

 しかし、こう嘘みたいに暑い日が続くと、タダですらないヤル気は、アスファルトに落ちたアイスクリームのようにあっという間に溶けてしまう。そう、全てはこの暑さがいけないのだ。

 鳥飼柊悟はそんな事を考えながら、堤防に腰掛けただ遠くを眺めていた。



「ねぇ、このオートバイ、あなたの? 」

 不意に掛けられた声。

 声の方向にはひとりの少女。しゃがみこんで柊悟のバイクを眺めている。


 夏の海には不釣り合いなくらいな白い肌と青み帯びた黒く長い髪。そして、そこから覗く生命力に溢れた鳶色の瞳が印象的だ。

 表情にあどけなさが残っている所を見ると、年は15.6歳と言った所だろう。


「そうだよ」

 びっくりするくらい、きれいな娘。

 それが、柊悟の第一印象だった。そして、『関わらない方がよさそう』が第二の印象。


「乗せてくれない? 」

 いきなりのお願い。“女はおおよそ第二印象通り”そんな父の口癖を思い出し、柊悟は思わず苦笑いを浮かべる。



「ダメだな」

「何故? 」

「見ず知らずの女の子を後ろに乗せるのは抵抗があるんだ」

「そんな堅い考え方じゃあ、女の子にモテないわよ」

「柔らかく考えてもダメなんだ」

 そう言いつつ、柊悟が見上げた太陽は、まだ8時前だというのに凶暴なまでの日差し。最近TVでは毎日が異常気象と騒ぎ立てているが、今日も凄まじい暑さになるのだろう。


「何故、柔らかく考えてもダメなの? 」

 眉間にしわを寄せ、女の子は不思議そうに尋ねて来た。


「そのバイクは二人乗り2ケツには向いてないんだよ。後ろのシートが小さいだろ?」

 一応、後部にもシートらしきものはついているが、小さいうえに華奢。


「ヘルメットをもうひとつ持っているじゃない」

 嘘をつかないでと言わんばかりの指摘に柊悟は心の中で舌打ちをした。


「それは、子供用のヘルメットで小さめに出来ているんだ」

 取ってつけた嘘である事は明白だったが、少女は困った様に腕を組み考え込みはじめた。



 静寂


 あたりには潮風と波の音。それに海鳥の声だけが切り取られた様な鮮明さで響いている。


「それは困ったわ」

 かなりの間の後の言葉。


「なぜ、キミが困るんだ?」

「私、母に追われているの」

「へぇー」

 夏休みを利用しての家出。そんな所なのだろうと柊悟は結論づけた。


「悪の組織からも追われてるの」

 警察に捜索願を出されている事の比喩だとしたら、ユーモアのセンスはなかなか。


「そりゃあ、大変だね」


「助けてくれない? 」

 少女の言葉に少し良心が咎めたが、ひとつ伸びをした柊悟は、この場を立ち去るため、バイクに跨った。


「こう見えて結構忙しいんだ」

「ぼっーと海を見ていたじゃない」

「海を見ていた訳じゃないよ」

「じゃあ、空? 」

「空を見ていた訳でもない」


 少女が右の口角だけをあげて、しかめっ面をした。


「ココから見えるのなんて、そのどちらかでしょ?」

「いや、もうひとつ見えるモノあるよ」

「何が見えるの? 」


 少女の問いに対し、柊悟は視線を遥か彼方の水平線に向けこう答えた。


「空と海の境界」

 

 柊悟の言葉に驚いた、いや、呆れたのか少女がまた変な間を開けた。


「あなた、ホントにア…… 」

 その返答が完成する寸前、突如、波と風の音を割くような、アスファルトを咬む車のブレーキ音が響いてきた。


 音の方向には黒のハイエース。そして、それを見つめる怯えた表情の少女。

 柊悟の視界に映ったものはそれだけだった。すぐさま、キックペダルを蹴り、エンジンを掛ける。


「乗れ! 」

 反射的にそう叫び、のヘルメットを投げて渡していた。


「二人乗りに向いてないバイクじゃなかったの? 」

 ヘルメットを被りながらの拗ねた声。

「キミのお尻が、並みに小さければ座れない事もない」

 後ろに感じる重さと背中に感じる少女の体温。


「四葉って誰? トモダチ? それとも彼女?」

「…… 妹だよ、小学校6年生の」

 柊朗はそう答えると同時に、バイクのエンジンを大きく吹かす。。

 一瞬、振り返った先には停車しかけたハイエースが、ホイルスピンを起こしながら、再び走り出す姿が目に留まる。


 警察車輛では無い所を見ると、この少女の母親が運転しているのかもしれない。随分と荒っぽい。どうやら追われているのは事実らしい。


「親から逃げてもいいんだな? 」

 柊悟の脳裏に、あの日、母親が浮かべた表情が過ぎる。


「私は捕まる訳にはいかないの。それより、こんな古いオートバイで逃げ切れるの? 」

 SRX400は確かにオールドバイクではあるが、こんなの呼ばわりされる程の腑抜けた単車ではない。


「しっかり掴まってろよ!」

 グリップを握る掌には、いつの間にか汗が滲み出ている。

 

 相手の方が早さはあるが、路地に逃げ込めば、小回りの利くバイクが有利なうえ、地元である柊悟には地の利がある。


 スピードを上げつつ、柊悟は海沿いを走る国道のひとつ目を右へと曲がり脇道へと入った。


 バイクのタイヤが砂利を弾く音と頬に感じる汗。


「きゃっ! 」


 急に曲がった為か、少女から短い悲鳴が上がる。可哀想な気もしたが、体重移動と後輪のブレーキを少しだけ使い、次の交差点を今度は左へ。


「ひっっ! 」


 再び起こる小さな悲鳴。より密着してくる少女。夏の日差しのせいか、バイクの風を切る音がいつもより近くに感じる。

 柊悟はそれらを全て無視して、バイクを走らせ続けた。そして、彼女の悲鳴を6回続けて聞いたところで、はじめてバイクのスピードを緩めつつ、後ろを振り返った。


 追ってくる車の影は無い。


 このあたりの海へと続く道は、狭く入り組んでいるうえ、一方通行も多い。他所から来た人間が考えなしに入り込めば、一通地獄に迷い込むか、狭い路地でのハンドルの切り返しに難儀しているはずだ。


「たぶん、巻いたと思う」


 バイクをゆっくりと走らせつつ、柊悟は後ろの少女にそう告げた。

 怖かったのだろう。背中越しにも、震えているのが分かった。もしかしたら、泣いているのかもしれない。


「…… 大丈夫か? 」

 あまりにも長く俯いているため、どこか痛めでもしたのではと心配になり、柊悟はバイクを止め少女に尋ねた。


 ヘルメットを脱いだ少女の肩が大きく揺れ出す。


「……ぷっっ‼ っはははっはははは」

 突然の大笑い。

 

 柊悟の心配をよそに吹きだし、大きく口を開けて笑い出した少女。余程おかしいのか、涙まで浮かべている。


「何だよ、どこか痛めて泣いてるかと思って心配したのに…… 」

 抗議気味に柊悟は尋ねた。


「ううん、どこも痛くない平気だよ。ありがとう! ただ、めちゃくちゃ怖かった。オートバイすごいスピードで、グワッーって曲がるんだもん。だから怖くて、なんか可笑しくなってきちゃった」

 怖過ぎて、笑ってしまう。

 分かるようで分からない感覚だった。もしかしたら女の子特有のモノなのかもしれない。


「取り合えず、駅まで送るよ。あとは友達に連絡でもして、泊めて貰うのが良いんじゃないか? 」

 リュックひとつの格好から、少しだけ嫌な予感がしたが、柊悟はそう告げた。


「それが無理なのよ」

 おどけた様に両手を広げて見せる少女。


「まさか、スマホないとか? 」

「うん。私スマホ持ってないんだ。実はお金も無駄にできないの」

 今やスマホの所持などあたり前感があるが、持っていない人がいても不思議ではない。


 嫌な予感は的中した。


 ごく小さなリュツクを背負った彼女は白いワンピースに編み込みのミュールといったシンプルな服装。地元民でもないのにどうやって、あんな辺鄙な防波堤に来たのかが不思議なくらいの軽装だった。


「ずっと逃げてたから、お腹も空いちゃった」

“何か食べに行きたい”

 遠まわしにそう言っていた。


「とりあえず、飯だけだけなら…… ボクは鳥飼柊悟とりかいしゅうご。キミは? 」

「キミ? 」

 少し気取った尋ね方だった所為なのだろうか、困った様な表情をしている。


「キミの名前だよ 」

 今度はシンプルに尋ねた。


「あぁ、名前ね…… えーと…… ツキノ。 ツキノマサキよ! 」

 自分の名前を言うのに随分と時間を費やした。

「ツキノ…… あまり聞かない苗字だね。どう書くの? 」

 悟朗はある疑いを持って質問をした。


「…… お月様の『月』に野原の『野』で月野。真実の『真』に花が咲く『咲』で真咲よ」

 目線を上にして、そう答えた月野真咲。


「へぇー。何かカッコいいカンジだね。教えてくれてありがと。んじゃ、月野さん、ご飯食いに行こうか」

「うん! 」

 余程お腹が、空いていたのか満面の笑みだ。


 ツキノマサキ。

 響きはキレイだが舌を噛みそうな名前だ。だが、偽名うそであるのは、まず間違いないだろう。

 ヘルメットを被り直す彼女を見ながら柊悟はそんなことを考えながら、バイクのキックペダルを蹴り込んだ。

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