第07話 脈動

 ぜいはあ、息を切らせている。

 激しい疲労感の他に、驚きや悲しみ、怒り、様々な負の色がごっちゃとひしめきあった、やつれた顔で。

 そんなどっと寄せる感情を全然処理出来ず、赤毛の少女、りようどうさきは、ただ茫然自失といったふうに立ち尽くしていた。


「アサキさん、そんなに急いで。無茶したらいけないと、いってるでしょう」


 背後から、幼くも落ち着いた声。

 扉を抜けてこの大きな部屋へと入ってきたのは、ふんわりした白衣装を着たブロンド髪の少女ヴァイスだ。


 掛けられた声に気付いているのかいないのか、アサキは正面を向いたまま汗ばんだ拳をぎゅっと強く握り締めた。


 まるで体育館、といった高い天井の広大な部屋だ。

 一方の壁の下には、青い魔道着姿のカズミが倒れている。

 意識はあるようだが、生死に関わるようなかなりの痛手を受けているのが分かる。全身傷だらけどころか、骨という骨が折れていそうな酷い状態だ。


 アサキの正面には、床が大きくえぐられて地面が露出している。

 直径が三十メートル以上はある、巨大な円状だ。魔法陣を使っての、魔法の痕跡であること、ひと目で明らかだった。


 アサキは陥没した淵に立つと、ゆっくり滑るように降りていった。まだ体力がまるで回復しておらず、ふらふらと頼りなく。


 傾斜の途中に、焼け焦げてほぼ炭化した物体があった。

 反対側の斜面にも、そのすぐそばにも。

 僅か残った衣服の切れ端から、おそらくアインス、ツヴァイ、ドライの三人、その死骸であろう。魔法陣の結界機能に封じ込められ 破壊の魔法から逃げ出すことが出来なかったのだ。


 降り続けて、円状にえぐられた中心部へと立った。

 目の前に、異様ともいえる巨大な塊がぐしゃぐしゃに潰れて、やはり炭化した状態で横たわっている。

 確かめるまでもない。

 巨蜘蛛である。

 その背中から生えるのは、炭化しただれとくゆうの上半身である。


 そして、その傍らには……


 アサキは肩を震わせると、ぎゅっと目を閉じて顔をそむけた。

 傍らにあるそれは、アサキが正視に耐えられずそむけてしまったのは、ぐちゃぐちゃに溶けて崩れている物体である。

 この世界においてあきらはるを形作っていた、しかし現在はもう原型を微塵も留めていない、溶け潰れてアメーバ状に広がっているただの肉塊であった。


「核が、もう存在していません」


 ヴァイスも降りて、アサキの斜め後ろに立っていた。


 抑揚の乏しい小さな声に、びくりアサキの肩が激しく震えた。


「それは、どういう……」


 尋ねるまでもないことなのに。

 誰かにはっきりと、いってほしかったのかも知れない。

 現実は現実なのだということを。


 でも、


「端的にいうなら、死んだということです。もう決して復活はしないということです」


 それでショックがやわらぐものでは、なかった。

 涙が出た。ぼろぼろと、涙がこぼれ頬を伝い落ちた。


「治奈ちゃん……」


 差し違えたのか……治奈ちゃんは。

 世界を、宇宙を、守るために。

 仮想世界を、フミちゃんたちを、守るために。

 守って、死んでしまったのか。


「治奈ちゃ……」


 震える唇でまた名を呼ぼうとした、その時であった。

 邪気の濃密に孕まれた、白く輝く球体がアサキを背後から襲ったのは。

 だが、その球体は弾かれていた。弾かれた瞬間、遥か上にある天井が爆発した。

 襲い掛かる光球を、アサキが弾き飛ばしたのである。横へステップを踏みながら、振り向きざま右の手刀で。


 振り向いたアサキの前には、巨大な蜘蛛。

 六本足の、全身が真っ黒に焼け焦げた。背中からは、やはり焼け焦げた人間の上半身が生えている。


 至垂シュヴァルツである。

 ぐしゃぐしゃに潰れて、皮膚という皮膚は炭と化していたはずなのに、死んではいなかったのだ。

 治奈と刺し違えたはずなのに、滅んでいなかったのだ。


 ぐふ

 それは至垂なのか、それともシュヴァルツなのか、ぐじゃり潰れて真っ黒焦げになっている顔から、笑い声が漏れた。


 ぶるっ、ぶるるっ、

 巨蜘蛛が身震いすると、皮膚に亀裂が入っていた。

 ぼろり、ぼとり、焦げた皮膚が落ちる。

 割れて、剥がれて、次々と、地へ落ちる。

 新たな皮膚が再生しているのだ。

 巨蜘蛛の部分は、以前と変わらぬ状態にまで戻っていた。


 背から生える人間体の方は、構造が複雑であるためかまだ再生が追い付いていないようで、ぐちゃぐちゃな形状のままだ。

 だが、焼けた皮膚そのものはかなり再生が進んでいる。ところどころ、肌色が見えている。

 皮膚が再生しようとも、形状としてまだあまりにぐちゃぐちゃであるため、それが至垂なのかシュヴァルツなのかは分からなかったが。

 魔道着はさすがに、切れ端すら残らず消し飛んでおり、上半身は完全な裸である。至垂徳柳の、古代彫刻然に筋骨隆々とした、女性の裸体である。


 ぐふ

 至垂か、シュヴァルツか、また笑い声を漏らすと、巨蜘蛛の足が動き出した。


「お前も死ね!」


 突進する。

 アサキへと、巨体が突っ込んでいく。


 腰を軽く落として身構えるアサキであるが、ぐらり足元をふらつかせてしまう。

 嫌な予感に寝ていられず、急ぎここへ駆け付けたものの、疲労はまったく回復していないのだ。

 だが、よろけながらもきっと顔を上げると、猛烈な勢いで飛び込んでくる蜘蛛の巨体を両手で受け止めていた。


 ずしゃっ、

 アサキの靴が地面へ深々めり込んだ。

 受けた衝撃の、あまりの重さのために。


「明木治奈のあとを……己の度量も把握出来なかった無能な女の、あとを追うがいい!」


 ぐいぐいと、巨体が押す。

 重量、勢いを込め、アサキを潰そうと押し込んでいく。


 肉体の疲労も魔力も回復していないアサキは、力比べとしては完全に劣勢であった。

 毅然とした表情で踏ん張りはするものの、魔道着も着ていないとなればその関係はより明らか。

 ずざりずざりと、足元のえぐれがどんどん伸びていくばかりであった。


「う、あ」


 踏ん張るアサキの、顔が苦痛に歪む。

 骨が軋んでバラバラになりそうな痛みに歪む。


 そばに、白い衣装の少女ヴァイスが立っている。

 アサキが危険だというのに、心配そうなそぶりはまったく見られなかった。無表情に近い落ち着いた顔で、ただ様子を見守っている。

 先ほどは、アサキを守るために一人で巨蜘蛛と戦ったというのに。いまの彼女は、ぴくりとも動かなかった。


 何故?

 すべて、分かっていたのかも知れない。

 彼女、ヴァイスは。

 これから起こることを。


「治奈、ちゃんの……ためにも……」


 巨蜘蛛の突進を、両手で食い止め踏ん張っているアサキは、必死な、懸命な、くしゃり潰れた表情で口を開いた。

 ぶるぶると、足が、膝が震える。

 足元の土がえぐれ、アサキの靴がめり込んでいる。


 負けられ……ない!


 口を閉じ、歯をぎりり軋させながら、心の中で叫んだ。

 全身が、痙攣したかのように震えた。 


 どくん!


 なにかが、入り込んでいた。

 入り込んで、脈動していた。

 なにか、

 これは、なんといえばいいのか、

 エネルギー、としかいいようのない、なにかが。

 自分の、アサキの、中に。

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