第02話 お姉ちゃん!

 厳しい眼光を少し弱めて、横目をちらり治奈へと向ける。


「ありがとう治奈ちゃん。何度も、ごめんね。でも……ここからは、わたしが一人で引き受けるから、早くフミちゃんを探して、助けてあげて」


 至垂へと向け油断なく剣を構えながら、治奈を送り出そうと微かな笑みを浮かべた。


「こちらこそ、ありがとうな。ほじゃけど、まずはこの男を、あ、いや女か、捕らえるのが先決じゃけえね」

「でも、フミちゃ……」

「フミが心配だからこそじゃ!」

「……うん」


 治奈ちゃんがいっていることの、理解は出来る。

 予期せずこのような戦いになってしまっているけれど、部下に新たな指示を伝えさせなければ、ここでいまフミちゃんがどうかなることもないだろう。

 ボスをここで捕らえてしまえば、部下だって保身を考えて、これ以上の罪を犯すことはないはずだ。

 そのような考えだろう。


 むしろ、ここまで追い込んで恥辱を与えてしまった、リヒト所長を逃がすことの方が、危険だ。

 恥辱というだけでなく、おそらく秘密にしていたであろう女性であること、合成生物キマイラであることを、我々は知ってしまったからだ。


 乗り込む前の作戦会議でぐろ先生もいっていたけど、もしも逃げられて行方をくらまされでもしたら、どうなるか。

 日常、わたしたちがいつどこで襲われるか。

 家族の安全は。

 それ以外にも、なにをしようとしてくるか。

 ヴァイスタを操って、なにかをしでかすのではないか。

 この世界は、どうなるのか。

 そんな不安と恐怖に、ずっと怯えて暮らさなければならなくなる。


 不本意ながらもこうした状況になってしまったのであれば、ここはもう、所長を確実に捕まえることが最優先事項。それが、フミちゃんの安全にも繋がる。


 そういう、考えだろう。

 でもやっぱり、フミちゃんのところへ一秒でも早く駆け付けたいはず。治奈ちゃんは、実のお姉ちゃんなんだから。

 わたしのことが心配だから、ああいってくれているんだ。


 と、アサキは申し訳ない気持ちだった。

 生身の至垂へと本気で戦えない自分の甘さに、申し訳ない気持ちだった。


 しかし、というべきか、ここで状況が変わった。

 至垂を倒すの捕らえるのという点では同じだが、治奈の揺れていた感情が、ベクトル定まって激情に加速が付いた。

 きっかけは、至垂の言葉であった。


「フミフミさっきからいってるけど、誰?」


 あえてなのか分からないが、気怠そうな顔で尋ねたのである。


 聞いた瞬間、治奈のまなじりが釣り上がっていた。

 髪の毛が逆立っていた。

 震えていた。

 こめかみに血管が浮かんでいた。

 両の拳を、指の骨が折れそうなほどに握り締めていた。


「貴様がさらった、うちの大切な、大切な妹じゃ!」


 怒鳴っていた。


 至垂としては、からかって挑発しているだけなのだろう。

 しかし、分かったから落ち着けるものではない。


 治奈は、大切な妹の生命に対して、片手間気怠げ小指で耳クソほじっているその態度に、瞬間的に沸騰してしまっていた。


 しかし、家族を思う気持ちも、怒りも、激情も沸騰も、目の前の相手は微風を受けたほども感じていないようであったが。

 感じていないだけならば、まだいい。


「ん? きみの、妹? ええと……。んーー。あーーーーっ! ああ、ああ、すっかり忘れていたなあ。あの娘のことかあ」


 からかったのである。


「白々しい!」


 治奈は、だんと強く床を踏んだ。


 その激情にピシャリ打たれたから、というわけでは、もう決して、絶対に、ないのだろうが、至垂は不意に真顔になった。

 ちょっと難しい顔になった。


「……あのね、足りない頭を頑張ってちょっと働かせて、理屈で考えてみて欲しいのだけどね。現在の、事態の方向性や、進行段階で、まだあのウミちゃんとかいう娘を生かしておくメリットってなあに?」

「え……」


 治奈の動きが、止まっていた。

 顔が硬直していた。

 あまりに何気のない、縁側で雑談をしているかのようなリヒト所長の表情や口調に、言葉の意味をすぐ飲み込めず、口が間抜けな半開きになってしまっている。

 アサキも、同様の表情になっていた。


 反応に満足して、というわけでもないのだろうが至垂の言葉が続けられる。


「きみたちの、絶望が欲しい。こちらは、ただそれだけだ。きみたちは、微かな希望を信じて、ここへもうきてくれている。なのに、きみたちに喜びや安堵を与えることになるという不要な可能性を高めるために、わざわざウミちゃんを生かして、監視をつけて監禁し、というそんな面倒なことをするメリットが、こっちにあるのかい? キャンディ舐める以上の旨みが、あるのかい?」

「まさか、まさか、そんな……や、約束が……」


 治奈の身体が、心が、ぶるぶると震えている。

 血を半分吸い取られたかのように、青ざめている。


「研究班に、ゴミ処理させとくけど。大きくて、面倒くさがるかも知れないから、きみ持って帰るかい? 子供でも、自分から動かなくなると結構ずっしり重いんだよね。それでよければ、硬直する前に是非」

「うああああああああああああああああああああああああ!」


 壁をも震わせ砕くかのような、胸の底からの、治奈の絶叫。


 剣を、アサキから強引に奪い取っていた。

 柄を握るが早いか、走り、飛び込んでいた。

 至垂徳柳へと、渾身の力で叩き付けていた。

 振りかぶり、振り下ろし、頭上へと、肩へと、胸へと、上から、横から、斜めから、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、狂い、吠え、喚きながら。

 剣に込められているのは、明確な殺意。自分の手首こそが砕けてしまいそうなほど、激しく重たい剣をガムシャラに振るい続ける。


 白シーツを纏った至垂は、片手に持った長剣で、まるで鼻歌交じりといった顔で楽々と防いでいたが。


「単調だなあ」


 言葉の通り、退屈そうな笑みを浮かべると、至垂は長剣を軽く横に振った。


 さしたる力を入れたとも思えない一撃であったが、しかし、


 ガツ、

 と硬いものを断つ音と共に、治奈が悲鳴を上げて、横殴りに飛ばされていた。身体がぐるり半回転して、壁に背を打ち頭から床に崩れ落ちていた。


 また、苦痛の呻きが漏れると、床には大量の血が広がっていた。

 治奈の右の太ももが、まるで途中に関節があるかのように、九十度曲がっている。そこから、噴水の如く血が噴き出しているのだ。

 足が骨まで断たれて、薄皮一枚で繋がっている状態であった。


「治奈ちゃん!」


 アサキは、声の裏返った悲鳴にも似た声で治奈を呼んだ。

 駆け寄り、屈むと、切られた右足のすねと膝に手を当てる。

 切断されてずれた大腿骨の位置を直しながら、もう治癒の魔力を帯びた左手が切断箇所へと翳されている。


「至垂! 至垂徳柳! 絶対、絶対に、お前を許さん! 生かしてはおかん!」


 治療を受けていることも、気付いていないのだろう。

 意識をすべて、恨み怒りの念として至垂へとどろどろと吐き出している治奈であるが、だが、あまりの酷い出血に、その意識がなくなり掛けていた。目の焦点がぼやけ、まぶたも力なく落ち掛けていた。


「休んでいて、治奈ちゃんは。……辛いと、思うけど」


 切断箇所を癒着させるという、取り敢えずの処置を施したアサキは、ゆっくりと立ち上がった。


「わたし、いいましたよね」


 至垂を、睨んだ。


「もしも、フミちゃんになにかあったら、絶対に許さないと。すべてを、リヒトを、滅ぼしてやるって。……いったはずだ」

「うん、確かに聞いた。でもさ、ほら、きみをオルトヴァイスタにすることの方が、遥かに大事だから。それに比べたら、別にたいしたことじゃないでしょ」


 ははははっ、と乾いた笑い声。


「なにを……いっている」


 俯き立つアサキの、赤い前髪に隠れた顔から、ぼそりと、小さな、震える声。


「でも、友達の妹ごときじゃあ、きみは絶望はしないのかあ。……一、二年前にさ、赤の他人を守れなかった慚愧心からヴァイスタになっちゃったしろって娘がいてね、大阪での話なんだけど。友人であったそのヴァイスタを、始末したことで、自分もヴァイスタになり掛けたみちくもって娘がいてね。……そんな前例があるもんだから、ちょっと期待しちゃったんだけどね。ヘドが出るほど甘っちょろいきみだから、もしかしたらって」


 楽しげに語るリヒト所長であるが、それはアサキの怒りという炎に油を注ぐだけだった。


「許さない……」


 ぶるぶる震える顔を上げ、憎しみの眼光で至垂を突き刺した。

 歯をぎりり軋らせると、引きつった唇を動かした。


「こんなことをしておいて、なにが『絶対世界ヴアールハイト『』だ。一人の尊厳を、微塵の躊躇いもなくこきおろしておいて、なにが支配だ、なにが神だ……」


 床を強く、蹴っていた。

 蹴ったその瞬間には、至垂の顔面がひしゃげて、後ろへと吹き飛ばされていた。

 飛び込みながらのアサキの拳が、至垂の頬をぶち抜いたのである。


 背中を壁に打ち付けた至垂は、がふっ、と呼気を漏らすと、ずるずる床へ落ちた。

 足をつき壁にもたれ、信じられないという顔で、目の前に立つ赤毛の少女を見つめた。


「世界を云々、人間を云々、口に出すどころか、思う資格もない!」


 アサキは絶叫に似た大声を出すと、近くに転がっている自分の剣を拾い、構えた。


「ちょっと油断した」


 にやっと笑みを浮かべる至垂。


 二人の眼光と眼光が、ぶつかり合った。

 と、その時であった。


「アサキちゃん! 大丈夫! あきらさんの妹さんは無事だよ!」


 聞き覚えのある、少女の声が聞こえたのは。


 部屋の、反対側の扉が開いていた。

 そこに立っているのは、天王台第二中学校の魔法使いマギマイスターであるあまあきと、天野やすの姉妹。

 それと、


「お姉ちゃん!」


 涙目で姉を呼ぶ、まだ十歳くらいの女の子。

 あきらふみであった。

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