第07話 変身不可能
窓を開けた
「外にはおらんようじゃ」
「こっち側もだ」
隣の部屋から、カズミの声。
もしもそこにヴァイスタがいるならば、例えそれが空間の向こう、異空側であっても、うっすらと見えるはずである。
歪んだ透明な膜の、向こう側に、うっすらと。
もちろん、魔力があれば、であるが。
それが、見えないというのである。
通常、住宅街に出現する場合は、外だ。
ターゲットたる少女が一人で歩いているところを、次元境界の向こう側からヴァイスタが狙う、という構図が圧倒的に多数を占める。
いる気配が濃厚であり、地震警報もなく、しかし地震の如くぐらぐら揺れており、しかもそれは真下から激しく突き上げられるようで、そして、探せども外には姿が見えず。
と、いうことは……
「こ、この中にいる、ってことお?」
延子が、カズミからさっと巨大メガネを奪い返して、おでこに掛けた。
「し、
「
延子は、はああっとため息を吐いた。
「知らねえよ! バーカ!」
呼び込んだ犯人にされて、カズミは怒鳴りドッカン床を踏み鳴らした。
「昭刃さん、バカ力で床に穴が空いたらどうすんの!」
部屋の借り主、須黒先生が青ざめた顔で怒鳴った。
「すみません。つうか今それどこじゃないでしょ! ……真下の部屋に、魔力のやたら強い女が引っ越してきたんじゃねえんですかあ?」
それでヴァイスタを呼び込んでしまったか。
「いえ、確かずっとお年寄り男性の一人暮らしのはずよ」
「レアじゃけど、うちら狙いかも知れんな」
呟く治奈。
ヴァイスタには、魔法力が強く、かつなるべく無力な少女を狙う、という法則がある。
訓練されていない、魔力の自覚がない者が襲われやすい。
魔法力が強いほど魅力的な獲物ではあるが、挑んで倒されては意味がない。と、そんな生存本能的なところからであろうといわれている。
つまり、本来であれば、魔法力を持つ者が複数人集まっているようなところは、ヴァイスタの方から避ける。仮に襲ったところで、返り討ちに合う可能性が濃厚だからだ。
ただし、そうした生存本能の狂った個体も、一定割合で存在する。
治奈のいうレアというのは、そういう意味だ。
どおん。
また、突き上げられ、床が、激しく揺れる。
どおん
「偶然か必然か分からないけど、倒すしかないわね。でも……よ、よりによって、どうしてわたしのマンションでえ!」
ぐらぐら激しく揺れながら、須黒先生は頭を抱えた。
「ほじゃから偶然か必然なんですよ! 揺れ方からして、真下がめちゃ怪しいんじゃけど。どうであれ、早う異空へ入らんと」
「異空なら、
緊張の中の強がりか、カズミは冗談っぽくいって、薄く笑みを浮かべた。
「や、やりすぎると影響あるからねっ」
先生。この期に及んでなんであろう、転居時の敷金の心配であろうか。
なお、
異空は現界のコピーであるため、異空内でなにかを破壊しても、オリジナルである現界側に引っ張られて、すぐに元に戻る、という現象である。
どおん。
また、おそらく異空の側から、おそらく真下から、床が突き上げられた。
どおん、どおん。
激しく揺れる。
「おし、そんじゃあ行くぞっ」
カズミは、みなの顔を見回した。
リストフォンを着けた左腕を立てると、思念スイッチでクラフト機能を発動させ、異空へと繋がる次元のカーテンを掴み、開いた。
はずであるのだが……
「あれ」
小首を傾げた。
「カズミちゃん、どうした?」
不思議そうな表情を浮かべつつ、治奈も、リストフォンを着けた左腕を立てて、そして、カズミと同じような顔になった。
「なんじゃろ。クラフトが、機能しとらんけえね」
クラフト、魔力制御装置である。
携帯性、利便性から、近年は、リストフォンに内蔵されていることが多い。
利用者にとっての役割としては、魔道着や武器の伝送機能、体内の魔流経路調整による魔力の効率化、そこからの肉体機能アップ。
そして、異空への往来を容易にする機能だ。
元々、異空への扉を開くだけでも、膨大な魔力と、制御のための集中力を必要とするものであった。
現在は、魔法使いでさえあれば誰でも往来可能。それは、境界を開く論理がある程度解明されており、クラフトが制御を肩代わりするためであるのだが、
それが機能していない、と、治奈はいうのである。
「そんなバカな。……じゃあ魔道着は……変身っ!」
カズミは腕を振り上げ、リストフォン側面にあるボタンを押した。
だが、リストフォンの中に搭載されているはずのクラフトは、まったく反応を見せなかった。
「うちのは、どうじゃろ」
「わたしも」
治奈も、続いてアサキも、動揺した表情で、リストフォンを振り上げ、変身を試みる。が、カズミと変わったことは、なにも起こらなかった。
「サーバーへのアクセスが、拒否されているわ! どいうこと?」
須黒先生が、自分用のコンパクト型クラフトを、ノート型の携帯デバイスに翳している。
エラー、の文字が表示されている。
ノート型デバイスの画面を指が滑ると、続いて、令堂和咲、昭刃和美、明木治奈の名と、やはりエラーの表示。
「あなたたちは、どう?」
いわれた祥子と延子の二人は、早速腕を振り上げて、リストフォン側面のスイッチを押した。
全身が光り輝き、次の瞬間には、二人とも魔道着姿へと変じていた。
「単なる故障じゃないですか? わたしと、ショーパンの二人だけで、ちょいちょいっと倒してきますよ」
延子は、ピッと親指を立てると、もう片方の手で、異空へのカーテンを開いた。
「あ、あの、一緒に行っちゃダメですか? ここで待ってるだけなんて、不安だから」
おずおずとした顔でお願いするのは、赤毛の少女、アサキである。
「でも、魔道着がないと危ないよ。……まあいいや、ほら、手を繋いで」
差し出される延子の手を、アサキが掴み掛けるが、
「令堂さんなら、クラフトがなくても行かれるんじゃない?」
祥子の言葉に、延子とアサキの手が、指先触れるか触れないかの距離で止まった。
「そんなことが……」
アサキは手を引っ込めて、間近に見つめた。
昔から、ヴァイスタは存在した。
魔法使いも。
当然、魔道着などはなく、生身で戦うのが当たり前だった。
誰でも異空へ行く能力があったのか、能力のある者に運んでもらったのか、それは分からない。
でも、出来ないわけでは、ないはず。
試してみよう。
と、アサキは半信半疑ながら、意識を集中させた。
そこに次元の壁があると想像し、手を掛けた。
錯覚か分からないが、手応えがあった。
なにかを掴んでいるという。
そのまま、横へ動かし、開いた。
目の前に広がる、瘴気に満ち淀んだ、色調の反転した、物々ことごとくが歪んだ、空間。
前へ、一歩。
二歩。
突き抜けた。
ここは、須黒先生の部屋の中。
その、異空側だ。
「うおお、まさか本当に行けてしまうなんて。……服のセンス問わないから第二中にきて欲しいなあ」
冗談ぽくいう延子であるが、いわれた当人はそれどころではなかった。
はあ、はあと息を切らせており、そして、がくり崩れて、両膝を着いてしまった。
額からだらだら汗が垂れる。
バテバテであった。
「とてつもなく大量の魔力を、一瞬で消費したからねえ。まあ、令ちゃんならすぐ回復するんだろうけど」
変身後もおでこに掛けている、青白ストライプ巨大メガネ、延子はそのフレームをなんとはなしに摘みながら、感嘆の言葉を発した。
「ほんっと、ドエライことを簡単にやってのけるよな、お前はいつも」
カズミが、アサキの背をぽんと叩いた。
そのままぜいはあ息を切らせていたアサキであるが、突然びくり肩を震わせ、目を見開いた。
「え、え、カズミ、ちゃん? どうして異空に」
「祥子とヨロズのアホに掴まって、全員一緒に入ったんだよ」
いわれて見てみれば、確かに、瘴気腐臭にまみれたこの空間に、治奈、そして、
「須黒先生まで!」
「自分の部屋は、自分で守らないとね」
須黒先生は、強気な顔でふふっと笑った。
「それに、たまには教え子たちの成長を間近で見たいしね」
「第三中は、誰も戦えませんよ」
延子がぼそり。
クラフトが機能しないため、アサキ、治奈、カズミ、誰も魔道着を着ていないからだ。
「ああ、そうなのよね。それじゃあ、特使でうちに派遣予定の、嘉嶋さんのお力を拝見」
「地味な技、退屈でなければとくとお見せ致しましょう」
祥子は冗談ぽく畏まった口調、とは不釣り合いの超巨大な斧を取り出し構えた。
銀黒の髪と同じくらい、彼女のトレードマークといえる、柄のない、刃身だけの斧だ。
「では祥子くん、足元の床をぶっ壊してくれるかい?」
延子が冗談ぽくいうと、
「了解。地味で退屈な一撃を」
銀黒の魔法使い、祥子は、巨大な斧の刃身に空いた穴に手を掛けて、勢い付けて振り下ろした。
地味などとんでもない豪快な一撃が、部屋をぐらぐら揺らし、床に大きな亀裂を作った。
もう一度、斧を振るうと、床が砕け、大きな穴が空いた。
みなが固唾を飲んで見守る中、
「あーーー」
一人、情けない声。
「退去時に敷金戻るかしらあ」
須黒先生である。
「大丈夫です。現界位相で、ダメージ自体が戻りますから。たぶん」
「まずは、どうするの。ここから……」
須黒先生が屈んで、自分の部屋に空いた大穴を、そおーっと覗き込んだ。
その瞬間、穴から、真っ白で巨大な手が現れて、
「やあっ!」
先生の身体を掴んで、穴の中に引きずり込んでしまったのである。
「先生っ! うわあっ!」
咄嗟に手を掴んだ、治奈もろとも。
一瞬のうちに二人の姿が消えた。
先生と、魔道着を着ていない治奈、どちらもヴァイスタに太刀打ち出来るはずがなく、
「治奈ちゃん!」
アサキは頭が真っ白になってしまい、自分も魔道着を着ていないというのに、慌て叫び、穴から飛び降りようとした。
「無茶するな! ここにいて」
祥子は、アサキの肩を掴み、自制促すと、ひらり穴へと飛び降りた。
「お前もとっとと行けよ」
カズミが、万延子の背中を蹴飛ばした。
「分かってるよ。わたしの魔道着スカートタイプだから、飛び降りたらめくれちゃうかなあ、って」
「アホかあ! 気にしなくていいように、ここで下半身全部ひん剥いてやろうか?」
「キバちゃんにだったら、されてもいいかな」
バカなやりとりを遮ったのは、なにかが砕かれる低く重たい衝撃音であった。
「わっ!」
アサキの叫び声。
延子カズミも視線の先へ視線を向けて、びくり肩を震わせた。
玄関が砕かれたのか、身を窮屈に縮めながら、リビングへと全身真っ白な、粘液質の、巨人が入ってきたのである。
「わたしの背中に!」
延子はそういって、後ろにアサキとカズミを庇い、ヴァイスタと向き合った。
しゅ、と空間に具現化した木刀が、右手に握られていた。
「ショーパン! 祥子くん! こっちも出ちゃったからあ! そっちは任せたよ!」
穴の下にいる祥子へと怒鳴ると、あらためて白い巨人、ヴァイスタと向き合った。
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