第15話 咀嚼

「どうしたんだろう。二人とも」


 抱き合っている正香と成葉の姿を、遠目に見ながら、アサキが小首を傾げている。


「ほうじゃのう。ずっと、あのままじゃけえ」

「ったく、バカップルじゃねえんだからよ。……って、ほんとにそっち方向に行っちゃたりして」

「やだ、カズミちゃん。……でも、ラブパワーで凄い合体技とか出たりしてえ」

「ラブとか合体とか変なこというな」

「え、そ、そ、そっ、そんな意味じゃあ」

「そんなって、どんなだよ」


 軽そうな会話をしている彼女たちであるが、表情は、ものの見事に反比例であった。


 ずっしり重く、強張っている。

 笑顔ではあるが、無理やりに作っている引きつった笑顔だ。


 結局、言葉が続かなくなり、アサキたち三人は黙ったまま、ただギクシャクした笑顔を浮かべながら、ゆっくりと近付いていった。

 重なり合っている影を、路上に落としている、正香と成葉へと。


 ごくり。

 アサキは、唾を飲み込んだ。

 そっと、自分の胸に手を当てると、もう一回唾を飲み込んだ。いや、飲もうとしたが、突っ掛かる感じがあるだけで、飲めなかった。


 正直な話、いや、あらためて問うまでもなく、アサキは、抱き締め合う二人を、微笑ましい感情で見てはいない。


 胸騒ぎ。

 なにか、ただならぬ出来事が起きているのではないか。


 でも、そうも思いたくない。

 否定したい。

 きっと二人とも、感極まって言葉が出ないだけなんだ。

 そう強く思いたい。


 少なくとも、アサキはそういう気持ちであったし、治奈たちも、その引きつった笑顔からして、おそらく同じ気持ちなのではないだろうか。


 でも、

 きっと大丈夫だ。

 正香ちゃんは、家族を殺された悪夢を見たことや、その件で成葉ちゃんと喧嘩しちゃったショックで、ぼーっとなってしまっているだけだ。

 きっと、そうに違いない。

 だから……


「成葉ちゃん、正香ちゃん。仲がよすぎるのも妬けちゃうよお」


 強張った微笑みを向けながらアサキは、アサキたちは、正香たちへと近付いていく。

 ゆっくりと。


 だが、歩を進めるうち、いつの間にか、アサキたちの顔から、こわばった笑みさえも失われていた。

 不安に青ざめた顔になっていた。


 震える目を、

 すがる表情を向けながら、

 それでも、

 ゆっくりと、確かめるように、ゆっくりと、

 抱き合う二人へと、近付いていく。


「正香……ちゃん?」


 アサキの、何度目の呼び掛けであろうか。


 声が耳にまるで届いていないのか、二人はなおも抱き合い続けている。


 アサキたちから見えているのは、成葉の背中と、その背に回されている正香の腕だけだ。

 覆いかぶさるように抱き着いているため、正香の表情はまったく分からない。


 不意に、成葉の身体が動いた。

 能動的か否かは分からないが、とにかく背中が、ずるりと横にずれたのである。


 そのまま、自分で立つ力も、自らを支えようとする意識も、感じられずに、膝が崩れて、地面へと横たわっていた。


 制服姿の、その小柄な身体が、崩れてごろりと仰向けになった瞬間、


 アサキの、

 アサキたちの、

 この世界の、

 すべての、時が、静止していた。


 あまりの信じがたい衝撃に、彼女たち全員の表情は、完全に凍り付いていた。


 誰が……

 一体、世の誰が、このようなことが起こるなどと、想像出来たであろうか。


 倒れている平家成葉の顔は、それは間違いなく平家成葉であるはずなのに、平家成葉ではなかったのである。


 顔面が、無数の狂犬に襲われて長時間しゃぶられ尽くされたかのように、食いちぎられ、消失していたのである。

 鼻も、口も、皮膚どころか肉という肉が。


 がんは、ぽっかりと空洞になっており、眼球は存在していない。

 ……いや、よく見ると右の眼球が飛び出ており、今にも切れそうに、耳のあたりにぶら下がっている。 


 骨にこびりつく肉は、赤黒くぐずぐずとしており、その骨もところどころ砕かれており、保健の教科書の図解さながらに、顔面の内部が、丸見えになっていた。


 その肉体に、果たして現在、生命は宿っているのか。

 身体は、ぴくりとも動いていない。


 平家成葉であるが、平家成葉ではない。

 あの無邪気な彼女の笑顔は、もうこの世のどこにも存在していなかったのである。


 顔がないといえば、それは大鳥正香も同じであった。

 同じだが違う。

 がくり項垂れて、せむしになっている正香の、その顔がはっきりと見えたのだが、目や鼻といった、人間の顔を構成するパーツが、そもそもまったく存在していなかったのである。


 そこに立っているのは、

 その長い黒髪に包まれているのは、

 鼻の辺りが微妙に盛り上がっているだけの、真っ白で、ぬるぬるとした、のっぺらぼうであった。


「ヴァイスタ……」


 治奈は、ごくり唾を飲み込むと、乾いた唇を微かに動かして、それだけを発した。


「正香……ちゃん」


 アサキの声が、身体が、ぶるぶると震えている。

 青ざめた顔。

 はあはあ、呼吸が荒くなっている。


「まさか、そんな……」


 カズミも同様に、荒い呼吸の中、驚きに目を疑い、目を開いている。

 夢なら覚めよ。そんな表情で、ぎゅっと自分の汗ばんだ手を、強く握った。


 げご、

 大鳥正香は、その顔には口など存在していないというのに、どこからか、そんなヒキガエルの鳴き声に似た音を発すると、腰を屈め、手を着いて、膝着かずに尻を上げた、四つん這い姿勢になった。


 げご、

 真っ白で、ぬるぬるとした、粘液質な頭部を、道路に横たわっている制服姿の、平家成葉の顔へと、近付けていく。

 顔の表面、あますところなく噛みちぎられて、残ったわずかな筋肉や、骨が剥き出しになっている、成葉の顔へと。覆いかぶさるようにして、自らの顔を、近付けていく。


 大鳥正香の、真っ白でぷるぷるとしている、のっぺらぼうの顔が、突然、真ん中から縦に大きく裂けた。


 裂けたその瞬間、すっと自らの顔を落として、裂け目の両脇に生えているピラニアを思わせる無数の鋭い歯で、成葉の顔へとかじり付いていた。


 ぶづり、

 がちり、

 まだ残っている肉が、引き裂かれる音、そして骨の砕ける音。


 一心不乱に、かじり、咀嚼もなく嚥下していく。


 がづり、

 ぶづり、

 気の弱い者なら、聞いているだけで卒倒してもおかしくない、不快極まりない音。


 腐肉臓物を食らう野生動物が、かわいく愛おしく思えるほどの、おぞましい悪魔的な姿。


 がちりがちりと、頭を振り乱して、骨に無数の歯を立てているうちに、大鳥正香の黒く長い頭髪が、一房、二房、そして、完全に抜け落ちた。


 まるでマネキンといった、つるんとした頭部があらわになった。ただしその皮膚は真っ白であり、ぬるぬると粘液質である。


 食らった肉か骨か、はたまた魂か、なにを養分としてであるか分からないが、大鳥正香の肉体が、むくむくと急速に成長、巨大化していた。


 内から膨れ上がるその肉体に、身を覆っていた服の布地が、たちまち限界に達して、びいいいいっと破れて地に落ちた。


 肉体が大きくなっただけではない。

 手も足も、見る見るうちに伸びて、海の軟体生物の触手を想像させる、にょろにょろとしたものへと育っていた。


 四つん這いになっているため、はっきりとは分からないが、その大きさは身長二メートルは優に超えているだろう。


 あえて裸体と表現することに意味があるのかというほどに、その真っ白で粘液質な全身は、既にもう、人間であった痕跡を微塵も残してはいなかった。


「正香、ちゃん……」


 青ざめた顔で、地を這う大鳥正香を見下ろしているアサキの、手や指、全身が、ぶるぶると震えている。


 はあはあ、荒い息遣い。

 信じられない現実に、信じたくない現実に、アサキはすっかり涙目になっている。


 否定したくとも、目の前にあるが現実だ。

 ても、認めたくない。

 信じたくない。


 がちりがつりと、成葉の顔の骨を噛み砕いて飲み込んでいた大鳥正香が、四つん這い姿勢のまま、ぬるり首を動かして、アサキたちの方を向いた。


 いひっ。

 と、アサキは息を飲んでいた。


 そして、

 どのような恐ろしい目にあったならば、人間はこのような声が出せるのだろうか、というほどの、聞く者の魂を震わせる、凄まじい絶叫を放っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る