成り代わり願望

涼風すずらん

第1話成り代わり願望

「別れよう」

「え……今、なんて……?」

「僕たちは別れるべきなんだ」


 助手席で彼氏の運転を眺めていた私は突然の告白に驚いた。ついさっきまで冗談を混じえながらドライブをしていたのに、どうして?


「なんで? なんでよ! 今まで仲良くやってきたじゃない! それなのにどうして、こんな……」

「ごめん」

「謝って済むと思ってんの! ねぇ、なんでよ!」

「……」


 男はそこで口をつぐんで運転に集中する。やがて決心がついたのか、ゆっくりと息を吐いて車のスピードを緩める。そして助手席側を一瞬でも見ることなく、残酷な言葉を告げる。


「妻と子供がいる」


 左手の薬指を確認する。そこに指輪はない。


「うそよ」

「本当だ」


 男は右手でハンドルを握り、左手を上着のポケットに入れる。出てきたのは革のカードケース。年季の入ったそれをひったくるように奪う。


(うそ! ウソよ! 絶対に信じないんだから!)


 ケースの中に入っているカードを勢いよく引っ張り出す。いくつかのカードが太ももに落ちた時、決定的な証拠を見つけてしまった。

 知らない女性の肩を抱き寄せ、笑顔でピースしている男の写真を。そして、女性が大事そうに抱いている生まれて間もない赤ん坊――どう見ても、幸せな家族写真だ。

 そっと手に取り、男の妻を見つめる。肩までかかった髪は艶があって同性から見ても美しい。だが、腰まで伸びた自分の髪の方がもっと美しい。化粧をしていないその顔は平凡。育児に疲れているのかもしれない、少しだけ肌が荒れている。そんなどこにでもいる普通の女だ。

 私はバッチリ化粧をしている。可愛く、美しく見える角度も研究した。髪と肌の手入れを怠った日はない。結果、たくさんの男達が私に声をかけてきた。

 男に不自由したことはない。別れる時は私の方から振ってやった。今までも、そしてこれからもそうなるはずだった。私が相手から振られるなんてありえない。

 今回の交際は私もいい年だし、結婚を前提にお付き合いしようと思っていた。見た目は好み、性格も合格。何がなんでも結婚したいと思っていたのに……こんなの、裏切りにあうなんて。


 誰よ、この優良物件を奪ったのは。

 

 そう、この写真の女だ。

 荒れた肌、醜い形の爪、小さい目――どの部分を見ても私よりずっと劣っているじゃない。


 許せない――胸がズキズキと痛む。ドス黒い感情が渦巻き、嬉しそうに微笑んでいる妻の顔に爪を立てる。どこかに引っ掛けたらすぐに割れそうな長い爪は、顔に深々と入り込む。ああ、隣りにいるのが私だったら……。


「君とはお別れだ」


 男の声が聞こえる。もう、愛を囁いてくれない男の声。


 これ以上、愛のない言葉は聞きたくない。


 運転席に身を乗り出し、車のハンドルを握る。「何をするんだ!」という声が聞こえるが、気にすることなく男の体を押しのけて乗り込む。

 しかし、シートベルトのせいで思ったように体が動かない。外してしまおう。シートベルトを外して男の体を潰すように力一杯ドアの方へ押し込む。

 ついに男が体勢を崩す。ブウンと唸り声を上げて車が加速する。慌ててブレーキを踏もうとする男。ああ邪魔だ、こいつのシートベルトも外してしまえ。

 カチッと外れる音がして、これで邪魔者はいないと思った瞬間、運転席の窓からガードレールの端が見えた。


「あ」


 声を発するのと同時に車がガードレールにぶつかる。その衝撃でドアが開き、男が暗闇に吸い込まれる。


 ゴトンッ――。


 鈍い音が聞こえた。



 車は止まらない。車内に取り残された私は狼狽えていた。車の操作方法が分からない。都会で生まれ育ったから免許は必要なかった。車に興味がないから、せいぜいアクセルとブレーキという名称しか知らない。下手に動かすと今度は自分が車外に投げ出される。そんな恐怖が心を支配していた。

 ハンドルにしがみつくしかなかった。ギュッと目を閉じ、襲ってくるであろう衝撃に耐えようとする。間もなく、その瞬間はやってきた。

 前方で大きな音が鳴り、続いて車の勢いがなくなる。静寂が辺りを包んだかと思えば、今度は小さくミシミシ、やがてメキメキという大きな音に変わり、頭上に衝撃が加わる。


 車体が傾いた時には、すでに意識はなかった。





 六月二十二日、今日は夫の一周忌だ。わたしが愛した夫は去年、事故で若くして亡くなってしまった。

 車の操作ミスで夫は車外に放り出され、頭を強く打ち付けて死亡した。シートベルトはしていなかったらしい。言葉にすると打ちどころが悪かったんだなと思うが、現場は吐き気をもよおすぐらい凄惨だったようだ。若い警察官の人が顔を青くして報告してきたのをよく覚えている。 

 夫の持ち物はほぼ回収された。しかし、いつも持ち歩いていると言っていた写真だけが見つからなかった。わたしと夫、そして生まれたばかりの息子と撮った写真。これだけが見つからなかった。


『愛してるよ、美由』


 いつもの口癖だ。出かける前にも息をするように言っていた。もうあの甘い声が聞けないなんて、こんなにも悲しいことはない。


 夫は昔、プレイボーイとして名を馳せていた。彼女がいない日なんてない。お付き合いは長続きしないことが多かったが、フリーになった瞬間、学校中の女の子がこぞって告白していた。

 わたしはそんな様子を遠くから見ていただけの存在。まったく興味がなかったわけじゃないが、女子たちを敵に回すのだけは避けたかった。女の嫉妬は怖いから。

 彼とは関わることなく卒業するだろうと思っていた。しかし、大学生活に馴染んてきた頃、廊下の曲がり角で彼と正面衝突をしてしまった。大量の本を抱えていたので前がよく見えていなかったのだ。ベタな展開ではあるが、これが夫との出会い。

 夫いわく一目惚れだったそうな。その日以来、彼はその時お付き合いしていた彼女を振って、わたしにちょっかいを出してきた。

 当然わたしは嫉妬の対象になったが、彼は早々に手を打った。なんと、出会って三日だというのに告白してきたのだ。いくら何でも早すぎる。大して親しくないのに。


『僕と付き合ってるってことにしちゃえば大丈夫だよ』


 最初は何を言っているか解らなかったが、すぐに彼に思いを寄せている人たちの間で【付き合っている女には手を出さない】という決まりがあることを知った。手を出せば嫌われる。大学生だからだろう、みんなどうしたら嫌われるかは十分承知していた。

 それに、付き合ってもどうせ長続きしない。結果的に、結婚するまでお付き合いすることになったが、当時は長くても半年ぐらいで別れると思われていた。

 大学生活中は常に彼が側にいた。正直、トイレにまでついてこられるのは勘弁してほしかったが、おかげでわたしの大学生活は平和に終わったと言っていい。今では感謝しているぐらいだ。


 卒業後はすぐに結婚した。一緒に過ごしている内にわたしも彼のことが好きになったからだ。結婚してから半年、わたしは第一子をお腹に宿した。とても幸せだった。他人から見ても幸せだったことだろう。

 しかし、わたしが妊娠してから一ヶ月、夫は家を空けることが多くなった。お腹が大きくなって入院する頃になると、わたしの知らない【誰か】の家に泊まることも多くなった。夫は友達だと言っていたが、本当にそうだったのだろうか。

 浮気という単語が頭をかすめた時だ――陣痛が始まった。夫の浮気疑惑なんて吹き飛ぶくらい大変だった。はじめての出産、痛みだす体。浮気のことを考える余裕はなかった。

 赤ちゃんが生まれてからは、大学生活中と同じくらいわたしに構うようになった。それはもう鬱陶しいほど。この変わりようはなんだろうと思ったが、きっと妊娠で大変だったから気遣ってくれていたのだろうと結論づけた。赤ちゃんの世話もしてくれるし、家事も手伝ってくれる。ちょっとでも浮気を疑った自分が恥ずかしいと思うぐらいだったのに……。


 事故があった当日、車の助手席に女性が乗っていたと判明した。そして、警察の方から告げられた女性の名字には見覚えがあった。わたしが入院している間、夫は毎日どこの誰の家に泊まるというメールを送っていたのだが、その中にまったく同じ名字の家があったのだ。泊まっていた頻度も高い。このメールは退院後に消そうと思っていたが、忙しくてすっかり忘れていた。かなり珍しい名字だから間違いないだろう。

 本人の口からはもう真実を聞けないが、これは、きっと浮気をしていたに違いない。最初は怒りが勝った。浮気をして、事故を起こすなんて自業自得だ。事故の発生から数日は荒れ狂い、胃がムカムカして、ぶつけられない怒りを心の内に溜めに溜めて……いつしかすっかりなくなっていた。

 悲しみがやってきたのだ。どうしてわたしは夫と一緒に死ねなかったのか。

 ――これは嫉妬だ。助手席に乗っていたのがわたしだったら……。たったそれだけ。それだけで顔を合わせたこともない女の人を恨んでしまう。最後に夫と過ごしたのが見知らぬ女性だなんて、今すぐ変わってほしい!

 ああ、わたしはいつ嫉妬深くなってしまったのか。あの人の笑顔が見たい。わたしだけを見つめて、幸せそうに微笑んでいる顔が見たい。未だに見つかっていない写真には、夫のそんな笑顔が写っていた。そうだ、探さないといけない。わたしたちの大切な思い出を。


 車のエンジンをかける。ようやく手に馴染んだハンドルを握り、事故があった現場へと走らせる。夫がいた頃は車の免許を取らなかったが、今は生まれたばかりの息子のためにも車が必要だった。

 幼い我が子を連れて電車には乗れない。昨今、子供を持つ母親への態度が冷たいからだ。加えて感染症の心配もある。話が通じるくらいまで大きくならないと電車には乗せられない。過保護と言われようが、今ではたった一人の――夫の血を引く家族だ。

 息子を両親に預け、郊外へ向かう。長距離を走るのは初めてだが、不思議と不安はなかった。むしろ車が少ないから快適さを感じる。

 代わり映えしない景色に飽きてきた頃、徐々に山の輪郭が見えてきた。夫もこの道を通ったのかな。亡き夫に思いを馳せつつさらに車を走らせ、大きな木が立ち並ぶ場所を通過する。木は山を越えるまで続く。夫の車は細長くもしっかりとした硬さを持つ木に押し潰されていた。この辺りに生えているのは車を潰した木と同じだ。

 ついにここまでやってきた。絶対に写真を見つけたい。警察でも見つけられなかったのだから、一般人であるわたしが見つけられるはずもない。頭の片隅で無茶なことは止せと囁く現実的な考えを持つ自分がいる。でも、写真は見つけられるという予感があった。女の勘というやつだろうか。


 車のスピードを抑え、周りの景色を確認する。確か事故現場の周辺は他と比べて急斜面だったはずだ。バランスが悪いだろうに、しっかりと根を張っている木々が印象的だった。そして、太陽の光があまり入らない場所。捜査に苦労したと若い警察官が言っていた。

 わたしが今いる場所は昼間にもかかわらず暗い。事故現場はこの辺りだろうか。通行の邪魔にならなそうなところに車を停めて外に出る。

 何かが出そうな雰囲気だ。そういえば、誰かが話していた。事故現場が心霊スポットになっていると。

 噂は二つある。一つはこの辺りを車で通るといつの間にか女性が乗っている。そしてもう一つは、頭から血を流した男性が徘徊している――両方とも夜になると現れるらしい。 

 その噂は夫が起こした事故の前にはなかった。だから男性の徘徊はきっと私の夫だろう。女性の方は助手席に乗せていた人、だと思う。

 現れる条件はカップルが乗った車が通った時だ。それ以外の人は見たことがないと聞いた。仲睦まじいカップルが通ると必ず現れて事故が起きる。確か死亡事故もあった。特に女性の霊がよく出没する。

 突然空いてる席に見知らぬ女性が現れたら怖い。よほど肝が座った人じゃないと事故を起こすのも当然。想像しただけでも恐怖で体がこわばるが、あいにく今はわたし一人だけだ。出現する条件を満たしていない。落ち着け、大丈夫だ。


 緊張した面持ちで周囲を探索していると、木がかなり斜めに生えている場所を見つけた。地震や大雨が襲ったら倒れてしまいそうだ。

 特徴的なその場所は写真で見た事故現場そのもの。しっかり目に焼き付けたから間違いない。よく見ると不自然に折れている木もある。

 一年前の事故だからか、車の部品やひしゃげたガードレールは見当たらない。何もないところを探していても成果は出ない。少し怖いが斜面の下の方も調べよう。念の為に長靴を履いてきて良かった。多少ぬかるんでいても気にせず探せる。

 ガードレールが途切れている部分に向かって歩き出す。乗り越えて降りるよりも、引っ掛ける心配がないこちらの方が良い。

 斜面の下は背の高い草で覆われている。どこまで続いているか分からないが、写真があるとすれば最下層だろうか。いや、途中で引っかかっている可能性もある。


 ちょっとでもバランスを崩したらどこかにぶつかるまで滑り落ちるほどの急斜面。つい躊躇ってしまう。写真、写真のためだ。ああそうだ、救急セットを持っていこう。少しかさばるが仕方がない。

 いったん車の方へ戻ろうとした時だ。背を向けた瞬間に左の足首が引っ張られ、「あ」と口を開けた時には上半身が前のめりになっていた。

 咄嗟に目を瞑るがアスファルトの硬い感触はない。そのかわり雑草のチクチクとしたムズ痒さがある。

 ザザザザザと滑り落ちる音しか聞こえない。土が入らないようギュッと目を閉じて、終りが来るまで耐える。

 音が聞こえなくなり、体のコントロールが効くようになると、今度は全身からズキズキとした痛みを感じるようになった。手足を見るとところどころ出血はしているが、致命的な傷はない。

 軽傷で済んだところで、どのくらいの高さから落ちたんだろうと斜面を見上げる。背伸びをしたらガードレールの端っこが見えた。上からだと草のせいで分からなかったけど、思っていたより高くなさそうだ。

 安堵した後、改めて周りを見る。警察はきっとこの辺も捜索しているはずだ。でも、もしかしたら見落としがあるかもしれない。何せ膝ぐらいまで草があるのだから。見つけられなくてもおかしくはない。草に足を取られないよう慎重にお目当ての写真を探すとしよう。


 何分経っただろうか、膝に絡みつく草を掻き分けるのに疲れ始めた頃、視界の端でキラリと何かが光った。太陽の光がほとんど入らないこの場所で光る物――きっと見落とされた遺品だ。そう当たりをつけて慎重に近づいてみる。

 少し動くと光が消えた。ちょうど雲が太陽を遮ったようだ。僅かな光さえもなくなったが、気にせず進んでみる。白い何かが見えた。

 正体が判らないそれを間近で見るために歩を進める。すると、三歩ほどでジャリッ、と明らかに土とは違う音が響いた。


 ――骨だ。


 動物の骨ではない。服が引っかかっているから、これは人間の骨だ。ピンク色の可愛らしい服だから女性のものだろう。スカートがパタパタと揺れる。恐る恐る草をよけて全身を確認する。

 頭蓋骨が見えるまで草をよけると、女性と思われる白骨死体。さっき光っていたのは腕時計のようだ。

 日常からあまりにもかけ離れているせいか、わたしはいたって冷静だった。ピンク色の洋服に、これまたピンクの腕時計。そして、わたしの目を引いたのは、右手でしっかりと握りしめられていた写真だった。

 これだ、これが探し求めていた写真だ。と、喜んだのもつかの間。指の骨が写真を突き破っていた。少しだけなら仕方ないと思うが、問題は骨が突き出ている場所――そこはわたしの顔があるところ。そっと写真を骨から引き抜いて損傷具合を確認する。わたしの顔以外の部分は少し汚れているだけだった。雨も降っただろうに、よく無事だった。

 しかし、自分の顔が破れて見えない。その事実に寒気を感じ、背筋がゾクッとする。ああ、気味が悪い。一応目的は達成したし、さっさとここから離れてしまおう。


 そうだ、警察に通報しておこう。このまま放置するのも気が引ける。通報は初めてだ。テレビでは毎日事故や事件のニュースが流れるが、自分が巻き込まれるのはもちろん、発見から通報までのやり取りも経験がない。電話番号があってるかさえも不安だ。

 プルルルルル……と呼び出し音が鳴っている間、心臓は早鐘を打っていた。伝えるべきことは白骨死体の発見と場所とあとは……頭の中で何度もシミュレーションを行う。しかし、いつまでたっても呼び出し音が鳴り止まない。一、二回で出るものだと思っていたが、忙しいのだろうか。

 八回目の呼び出し音が鳴って、諦めかけていたその時だ。プツンと音が途切れて人の呼吸音が聴こえてきた。


「あ、えと、もしもし……」

『……、……ア、ナタ、ね』


 ようやく繋がったと思ったら、地を這うような女の声と、ヒュー……ヒュー……と苦しそう息遣いが聞こえてきた。

 思いもよらない声にヒュッと喉が鳴る。頭の中がパニック状態になり、言葉が出てこない。更に、背後からゴポゴポと異様な音も聞こえる。


 警察に、繋がったわけじゃない。


 ある確信を持ってそろりと振り返る。そこには骨――ではなく、真っ赤な唇、充血した目、全身が血に濡れた女が薄汚れたスマホを耳に当てて立っていた。


『に……ク、い……』


 自分のスマホから聞こえてくる声と、目の前の女の口の動きが一致する。真っ赤な衣服からわずかに覗くピンク色はついさっき見た洋服と同じ色だ。


 合わせたくもない目が合う。その瞬間――。


『ああァァああアぁぁ!』


 濁った雄叫びを上げて四つん這いになり、頭を思い切り振って髪を乱す女。長い後ろ髪が顔先に垂れ下がり、血で汚れた顔を隠す。

 そして、わたしが一歩後ずさると同時に、髪の隙間から覗く目がギョロリと上を向き、こちらにゆっくりと這い寄ってきた。


 女の顔には見覚えがある。一年前、告別式の準備をするために斎場に行った時だ。一組の家族が式を行っていた。準備をしている時にすれ違ったのだが、小さな子供が持っていた遺影――それが、この四つん這いの女の顔と同じだった。

 遺影の女は生気を感じられない、虚ろな目をしていた。笑顔を作っていたが、どう見ても目が笑っていないから不自然な写真だった気がする。

 怒りの形相で迫ってくる。きっとこの女が夫の浮気相手だ。わたしへ向ける眼差しに憎しみが込められている。


 もし、このまま動けずにいたらどうなる?


 殺されるかもしれない。……かも、じゃない。


 殺される!

 

 一気に恐怖心が湧き上がり、全身に鳥肌が立つ。怖い、逃げなくては。早く上に登ろう。登れないほど高くはなかったはずだ。

 そこで初めて気付く。辺りが夜みたいに暗くなっている。もともと木々に覆われれているから薄暗かったが、いつの間にか一気に時間が夜まで進んだみたいに暗くなっている。ここには昼に到着した。数分程度の調査だし、意識を失っていたわけでもない。なのにこんなに暗くなっているのはなぜか。

 これでは膝まである高さの草を掻き分けて逃げるのは大変だ。引っかかって転ぶかもしれない。そうなるとあの女に捕まってしまう。

 この暗さで斜面を登るのも相当な覚悟が必要だ。思えば、ここまで滑り落ちたのはあの女がわたしの足を掴んだせいだろう。登りきった時にまた掴まれたら……今度こそ打ち所が悪くて死んでしまうかもしれない。そうでなくとも、女の手によって殺される。殺害方法については考えたくない。きっと拷問に近い何かだろう。

 考えている間に一歩、また一歩と近付いてくる。一か八か登ってみるしかない。追いつかれる前に勢いをつけよう。四つん這いのせいか、相手の動きは遅いから大丈夫なはず。

 深呼吸をして走り出す。徐々にスピードを上げて、全速力で斜面を駆け上る。根っこに引っかからないよう木の近くは避け、しっかりと地に足をつけて走る。

 後ろは振り返るな。背後を見た瞬間に襲われるのは、何度も漫画や映画見てきた。現実でも振り返れば終わりかもしれない。

 ガードレールまでもう少し。あと五歩ぐらいで手が届く範囲になる。ここまで妨害されずに登れた。もちろん油断する気はない。なにせ辺りはまだ暗い。生きている人に会うまでは警戒するべきだ。

 アスファルトに足をかけて一目散に車の方へ逃げる。引きずられなかったことに安心したが、斜面の方から絶叫が聞こえる。ヒステリーを起こした女みたいな声だ。耳に痛い、キンキンとした声が辺りにこだまする。

 しかしそんな声にかまっていられない。一刻も早くここから離れるべきだ。急いでエンジンをかけて遠くへ逃げなければ。


 運転席のドアを開ける。


 これで安心だと思った――助手席に、血に濡れた女が座っている。


 車の中は赤く染まっていた。まるで、今ここで殺人が行われたかのような光景だ。女はこちらを見やると、口を三日月型に歪めてクツクツと喉を鳴らした。目は長い前髪に遮られているが、表情を見なくても笑っていないことぐらい分かる。


 いつ、斜面から移動したのか、いつ、追い抜かされたのか。


 勢いよく車のドアを閉め、持てる力を振り絞って麓の方へ駆け出す。人里まで何時間かかるとか、自分の体力とか、そういうことは考えられなかった。

 息が乱れているのを忘れて無我夢中で走った。長靴が邪魔になって裸足になり、痛みがある部分は雑にハンカチを巻き、とにかくこの山から離れたい一心で暗闇を走る。


 どれくらい走っただろう。喉が痛み、酸素を取り込もうと懸命に動く心臓。女とはあれから遭遇していない。カーブを曲がった先にいたら、という恐怖はある。しかし、立ち止まったら背後から強襲されるかもしれない。そう思うと足は自然と動く。四つん這いで追いかけてきているのなら逃げられるはずだ。それを信じるしかない。幽霊相手に信じるも信じないもないが。

 周辺は相変わらず暗い。闇の中を一人、恐怖に支配されながら走る。ああ、どうして夫はこのピンチに助けてくれないのだろう。頭から血を流した男性の噂は嘘だったのか。それとも、わたしは見捨てられたのだろうか?


 ブウウウンと車の走る音が聞こえる。背後からではない。前方から灰色の軽自動車が走ってきたのだ。助かった。片手を上げて自分の存在をアピールする。わたしの目の前で車は止まり、窓から日に焼けた五十代くらいの男性が顔を覗かせた。

 ああ、生きている人間だ……。

 安堵感からか、わたしの意識はここでぷっつりと消え、気付いたら病院のベッドの上にいた。



 看護師の話によると、わたしは地元の人に保護されて入院することになったらしい。脱水状態に陥っていて、もう少し遅かったら命が危なかったと言われた。そんな症状はなかったはずだが、医者が脱水症状だったと言うのならそうだったのだろう。

 お見舞いにはわたしと夫の両親がそれぞれ来てくれた。写真を見つけたと話すと、夫の両親はそれはもう大喜びで、退院したら飾ろうと言ってすぐにフレームを買いに行った。自分で買おうと思っていたからありがたい。

 さらに数日経った後、警察の人が来て倒れる前の出来事を話すことになった。そして、わたしの証言を元に再び遺体を捜索し始めた。病室にテレビはないから発見できたか分からない。多目的スペースに行けばニュースは見られるだろうけど、あのときの恐怖体験はあまり思い出したくないからしばらくは立ち寄らないつもりだ。気持ちが落ち着いたら誰かに聞こう。


 十日後、体調がだいぶ回復してきたので退院することになった。傷もだいぶ塞がっている。念の為にもう数日は自宅療養するが、調子は良いので来週には問題なく生活できそうだ。

 父の車に乗って自宅に帰ると、わたしの車がちゃんと車庫に入っていた。父によると警察の人が届けてくれたらしい。見た感じ血は付いていない。


「あら、おかえりなさい」


 家では母と息子が待っていた。久しぶりに見る我が子は可愛い。こんなに幼い子を残して旅立ってしまった夫。わたしが浮気はしないよう念を押していれば――今さら後悔しても仕方ないが、つい、考えてしまう。


「そうそう、フレーム届いているわよ」

「ほんと? じゃあ、さっそく飾るね」


 母がバッグからフレームと写真を取り出す。写真は警察で調べられ、五日前に返却されたばかりだという。

 夫と息子が笑顔で写っている。わたしの顔には穴が空いているから表情が判らない。わたしは、ちゃんと笑えていただろうか。こんなことならデータを消す前に、自分用としてもう一枚作っておくんだった。

 綺麗なフレームに穴が空いた写真は不釣り合いだ。本棚の上に置くとインテリアになるが、飾られている写真がどうにも不気味さを引き立たせる。


『……次のニュースです。山中で女性のものと思われる衣服が発見されました』

「あら、ここって……」


 テレビに映ったのは夫が亡くなった場所だった。ああ、わたしが情報提供したから見つかったのか。画面から目を離して耳だけで聴くが、いくら待っても服のことしか話さない。遺体はどうしたんだろう。見つかっていないのか?


『……警察は範囲を広げて捜索を継続するということです。次のニュースです……』


 終わってしまった。服が見つかったのなら、絶対に遺体もそこにあるはずなのに。でも、まだ捜索をするみたいだから近い内に見つかるかな。


「そうだ美由、車の中に私の靴あるわよね? 会館でイベントやるから上靴を持ってきてほしいって言われたのよ」

「そうなの? じゃあ持ってくるわね」

「私が行くわよ。あなたはまだ休んでなきゃ」

「大丈夫よこれくらい。体を動かさなきゃなまっちゃうわ」


 それに気分転換に外に出たかったし。父に息子の相手を任せて外に出る。今日はまだ昼なのにいつもより暗い。空を見ると雨が降りそうな天気だ。

 助手席側のドアを開けて母の靴を探すが、見つからない。助手席に置いてあるはず――ああ違う、事故現場に行く時に後部座席に移動させたんだった。


「……っ!」


 後部座席の方に視線を向けると、そこにはお行儀よく背もたれに寄りかかっている例の女がいた。さっきまでいなかったのに、一体どこから?


『私、ハ、あナた』


 混乱しているわたしをよそに、女は一言呟いてニヤッと笑う。


 そして目の前が真っ暗になり、女の姿は消えてしまった。




 あれから、私の生活には一つの影が付きまとうようになった。姿は現さないが、時折息子がじっと私の背後を見ている時がある。これはきっとあの女に違いない。私の精神を追い詰めて、弱っているすきを突いて呪い殺すつもりなんだろう。

 もちろん負ける気はない。私がいなくなったら息子はどうなる、両親も悲しむだろう。


「あー」


 息子の声が聞こえる。声がした方に行くと、息子は写真が飾られている本棚を見ていた。少し掃除をしようか。フレームに入れてからまったく手入れをしていなかった。ホコリを被っているかもしれない。


 写真には笑顔の彼と息子と私が写っている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

成り代わり願望 涼風すずらん @usagi5wa5wa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ