第3話「老人と鏡」2

それは、ただ立っている老人だった。


右手に杖を持っているが背筋は伸び、髪は全て銀色に生えていて、同じ色の髭が口周りからアゴにかけて生えていて、アゴから伸びた髭は老人の喉元まで伸びいている。そして、深く刻まれた皺の中にある眼光が鋭くただ一点をじっと見つめたまま立っている。


俺はその姿を確認してからもゆっくりとボートを彼へと進めて行き、やがて彼の目の前、距離にしてほんの数メートルの所までボートを進めた。

彼は水草の間に現れた地面に立っている。


俺には構うことなくただじっと一点を見つめている様だ。


俺は謎の影の正体が自分よりも弱そうな老人であったことに少し安堵した。


俺はしばらくその老人の前にボートを着けていたが、しばらく待っても何も変化が無いので何かここの情報を持っていないか聞いてみることにした。


「あの、すみません」


俺は随分久しぶりに声を出したので、始めは掠れてしまい、何度か声を出し直さなければならなかった。


「あの、ここは一体なんなのですか?俺は随分前からここにきてしまって、困っているんです」


そう、俺が問いかけても老人は反応せず、じっと立っている。


俺は何度か老人に問うてみたが何の変化もない事に少しイライラしてきた。


「こっちが話しかけてるんだからなんとか答えてくださいよ」


老人は変わらない。

俺はその老人とのコンタクトを諦めかけ、目線を先へと向けると、そこには水路が二手に分かれる分岐点となっている事に気が付いた。

俺が進むべき道はどっちなんだろう。

どちらを見やっても同じように白い霧が深く立ち込めており、ただ水路が二手に分かれているという情報しか俺には得ることが出来なかった。


「あの、この先の道はどっちに行ったらいいんでしょうか?俺はあのずっと先に見えて入り光の方へと行きたいんですけど俺にはどうやっていいのかわからなくて。もし知っていたら教えてくれませんか?」


そう、俺が老人に問うと始めて反応を見せて俺の方へ深い皺に刻まれた目を俺に向け、静かに答えた。


「わしには貴様がどの様な道を辿るべきか等知らん」


老人はしわがれているが、よく通る強い口調で答えた。


俺は、その答えを聞いて何だか見放された様な気持ちになり、俺の中から力が抜けていくように感じた。


俺はしばらくそうして、軽い失意の元でボートで佇んでいた。

すると、老人は俺に視線を落としたまま、変わらない、強い口調で話し始めた。


「人間万事塞翁が馬じゃ。お前がまだ人間の心を忘れていなければの話じゃがの。」


「人間万事。。?どういう事ですか?」

俺はイマイチ意味がわからなくて老人を見上げたまま問い返した。

老人は俺の目を一時も逸らさない。


「何でも貴様の心の持ち様で悪くたって良くなる様になるという事だ。

貴様は自分で選ばなければならない。それも自信を持ってな。

そうでなければ、貴様は永遠に自らが望む場所には行けないだろう。

貴様の道は貴様以外誰にも決められない。

そして進んだ先にはまたいくつもの分岐や決めなくてはならない事があるんじゃ。

貴様はそれを自分で考えてはっきりと進んで行かなくてはならないんじゃ。

もっとも、ずっとこの場所で漂っていたいのなら話は別じゃがな」


「いや、俺には向かうべき場所があります。ここにずっといる訳には行けないんです」


「そうか、それならば貴様が自分で決めて進めば良い。

どんな事があっても前を向いていればきっとどこかに辿りつくじゃろう。

答えは後からついてくるものじゃ。

始めから安全な様に行動できるのは子供だけじゃ。

貴様の道は貴様で作り出せ」


俺は老人の目をじっと見ながら聞いていた。


すると老人は右手に持っていた杖で俺のボートを突き飛ばし、水路の真ん中へと放り出してしまった。


「ここであったのも何かの縁じゃ。

きっかけは作ってやったぞ。

後は貴様が思う方向へ体を向ければいい。」


俺はいきなり動き出したボートに慌ててしがみつき、バランスを崩さない様に重心を真ん中へと集めた。



「そうじゃ、貴様が出来ることなど限られておる。

その中で一番良い方法を常に考えて行動することじゃ」


俺はやっとボートのバランスを立て直し、文句の1つでも言ってやろうと老人の方へ向いた時、何かが俺の胸へと飛び込んできた。


「それはワシからの餞別じゃ。

常にそれは貴様と世界を写し出している。

さぁ行け、若者よ」


俺は胸に投げ込まれたモノを見た。


それは俺の顔のふた回り程の大きさの鏡だった。


そして、もう一度老人の方へ視線を向けるとそこには水草以外何も無く、さっきまでそこにいた老人の気配すらも感じさせられなかった。


俺の目の前には左右に分かれる分岐が迫ってきている。


俺は胸に鏡を抱えながら、どちらへ行くべきか考えながら、その分岐と向き合っていた。



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