七色の桜

王子

七色の桜

 当然ながら、九分葉桜ばかりになった並木道で夜桜を楽しもうという見物客は一人もいなかった。連なる桜達は例年どおり一週間ほどでほとんどの花びらを落としていた。花の無い桜には見る価値が無い、とまでは言わないが、悲しいかな、人を呼び寄せる魅力を失ったのだと二人きりの桜道が代弁している。

 葉ばかりになった桜のためにともされるはなかがりは、それでも非日常的な世界を作り出していた。炎の揺らめきを眺める時間は日常から切り離されている。毎年春にやって来るこの静けさに満ちた時間は、いい加減名前を付けやってもよさそうなものだが、でも実際に考え始めるとどうでもいいのだと気付く。

 墨染めの夜空、若い緑に呑まれる桜、煌々こうこうと赤くる花篝。

 見慣れた景色の中、今年も俺とつゆは手を繋いで歩いていた。

「明日は雨が降るんだとさ」

 露と出会ってからは、開花宣言から毎日わざわざ天気予報を確認するのが常になっていた。

 露は、地味な四つ身着物に似つかわしくない桃色のサンダルをぺたぺた言わせている。散り落ちて茶色くなってしまった桜の花びらをつま先で小突きながら。

「うん、知ってる。雨雲が近づいてくる匂いがした」

 露には天気予報なんて必要なかった。それでも気になって予報を欠かさず見るのは、ひとえに俺が知りたいからだった。

 継ぐ言葉が見付からなくて、変色した桜が足裏に消えていくのを意味も無く眺めた。

「コウは、今年何歳になるの」

 名前を呼ばれて露の顔を見下ろせば、形の良い眉毛がなだらかな弧を描き、猫を思わせるつぶらな双眸そうぼうが俺を見上げていた。

「二十四、じゃなかった、二十五」

「そうなんだ」

 露は嬉しそうに、ふふんと笑った。

「覚えてるのにいただろ」

「そうだよ」

 露はさっきよりも楽しげに、おかしさをこらえられないとばかりに、ころころ笑う。

 繋いだ手をやたらに大きく振って歳相応にじゃれつく露は、九歳だ。

「花、もっと近くで見たい」

 俺の胸の高さほどしかない露は、肩車をしろとせがむ。

 肩に乗せてやると、短い腕を必死に伸ばして指に花びらを一つ、つまんだ。

「いいのか、取っちゃって」

「おろして」

 わがままな奴だなぁ、と思う。いや、違う。露だけが特別にわがままなのではない。本来、子供はわがままに振る舞うことを許された生き物で、大人になってしまった俺はそれを受け入れなければならない、というだけのことなのだろう。

 わがままな生き物に散り時を奪われた花びら。無情で清らかな指先の中にあっても、満開に咲いていたときの誇らしさのまま、しんと背筋を正している。

 露は珍しいものでも見るみたいに、手首をゆっくり回しながら、花びらの両面や先端までじっくりと観察してから、

「手出して」

 と言った。

 言われるがまま右手を差し出せば、手の平の真ん中に、ガラス細工でも置くように、そっと花びらが載せられた。露の目に選びぬかれた、一枚の桜。

「コウにあげる。ちゃんと持ち帰ってね」

 子供の贈り物は押し付けがましい。好意は必ずや受け止められると信じて疑わない。

 持参した和紙に花びらを包んでふところにしまい、これも大人になった罰だろうかと思う。

 俺が九つだった春、満開の桜の下で少女が一人膝を抱えていた。

「何してるの」と声をかけると、少女は驚いたように立ち上がって、俺の左手を握った。触れた手の温度は春そのもので、手を引かれて古ぼけた立て看板の前に連れてこられるまで、ぼんやりとしてしまっていた。

「読んで」と言われて、読めない漢字を飛ばしながらも目を通すと、少女が俺に伝えようとしていることは大体分かった。

 少女が「私は、ツユ」と名乗ったから、「俺は、皓」と応じた。

 露は俺の名前をただ「コウ」と呼び、俺も未だに「ツユ」をどう書くのかは知らない。「露」と書くのではないかと見当を付けたのは、中学生になってからだった。

 子供にとって人の名前なんて互いを呼び合うための記号に過ぎないし、毎年桜の下で一緒に遊ぶのにも、露との約束を守り続けるのにも、さして重要なことではなかった。

 あのときも露は四つ身着物姿だったが、足には何も履いていなかった。

 姉のサンダルを拝借し、淡雪のように白くて華奢きゃしゃな足に履かせてやると、ぎこちなく俺の周りを一周して、顔をほころばせた。

 ああ、あのとき咲いた笑顔は。看板の言うことは本当なのだと物語っていた。

 こんなにも可憐だったから、露は――

「コウ、桜が青くなってる」

 露の指差す方を見やれば、一本だけ青く染まった葉桜。

 見間違いかと目を凝らすと、だんだん青みが薄れて白くなっていく。そうかと思えば、色味が付いて黄色くなる。そして、みるみる濃くなり橙に。刻々と変化する桜の葉。

 呼吸するように色を変えていく桜を見て、ようやくてんがいった。

「近くで見てみるか」

「怖いよ」

「大丈夫だ」

 並木は一本の細い川を隔てて続いている。色が変わる桜は、橋を渡った先の一本目だ。さっきまでは不思議に見えていたのに、橋の上に立って間近から見上げると途端に安っぽく見えてきた。

「下から、色の付いた明かりが当たってるんだ」

 橋の終わりの足元には照明器具が置かれていて、桜に向かって代るがわる七色の光を投げかけていた。

 昨日までは無かった。もう見物客も来ないだろうと、来年のために試しに照らしてみている、といったところだろうか。

「あの桜、もっと近くで見る!」

 細枝のような腕に似合わぬ力で手を引かれ、俺はつられて早足になる。

 桜の下まで来ると、露は薄く口を開けて桜を見上げた。

 すぐそばには、あの古い立て看板があった。


 この桜並木には、江戸時代から残る逸話があります。

 ある一家は、その年も花見に来ていました。この話の中心である九つになる女の子と、その父と母、そして弟です。

 その年はいつにも増して花付き良く咲き乱れており、花見客でごった返していました。

 父は女の子が迷子にならぬようしっかりと手を握っていました。

 そんな中、並木道に一陣いちじんの風が桜並木を駆け抜け、ざあっと桜吹雪を吹かせたとき。

 父は握っていたはずの手が空になっていることに気付きました。

 人混みをかき分け、懸命に名前を呼び続けても見つかりません。いよいよ篝火が消されようという時間、一本の桜の下に、ぽつり残されているわらぞうが見付かりました。

 ちょうど、この看板のあたりです。

 女の子は桜の神に連れて行かれ、桜の精になったのだとささやかれるようになりました。

 翌年、一家は再会を願いながら花見に訪れました。そして、この看板横に立つ桜の下、膝を抱えて座っている女の子の姿を見たのです。

 女の子は他の人には見えず、連れて帰ろうとすると桜の陰に消えてしまうのでした。

 それから一家は、年に一度、桜の精になった女の子に会いに来るのでした。

 時が経ち、家族と会えなくなった今でも、桜が咲く時期になると桜の精は姿を現すと言われています。


 ぱちぱちと死にかけの蛍のような火の粉を飛ばして、花篝が揺らめく。

 そろそろ篝火が消される時間だ。明日雨が降るとなれば、篝火がかれるのは今日が最後だろう。春を流し去る粒に打たれて花は全て地に落ち、花篝は今年の役目を終える。

「露、そろそろ帰るぞ」

 振り返った露の唇はきゅっと一文字に結ばれていた。あどけない表情はもうどこにも無くて、その目に百を超える別れを映しているように思えた。

 九歳から進まぬ露を置き去りに、俺だけが大人になってしまった。

 二本並んだ桜は共に四季を繰り返すのに、片方だけが樹齢を重ねてしおれ、やがて葉は落ち、幹は腐り、ちていく。

 行く末は想像にかたくないというのに、露に手をつかまれた瞬間から、途方も無い循環を抜け出せずにいる。想いは報われないと分かっていながら、春の到来を待ち続けている。だからまた、身を切られるような別れを重ねなければならない。

 なあ、露。置き去りにされたのは、俺の方なのかもしれない。

 無粋な照明器具が七色の沈黙を生み、桜を照らし続けている。

「来年も来てね」

 露がぽつり、こぼした。目を合わせず「ああ」と返す。

「絶対、来てね」 「桜が散るまで、毎日来てね」 「約束、だからね」

 もう答えなかった。まともに取り合っていれば、すぐにでも逃げ出したくなりそうで。

「またね」

 目の端で、露が桜の幹の裏側に回り込むのが見えた。


 新聞紙を広げ、一枚きりの花びらを和紙ごと包む。重しに辞書を置き机の隅に寄せた。

 抽斗ひきだしを開ければ、乾燥剤と写真立てがいくつも入っている。色せてしまった花びらもあれば、露の指先で息をしているような花びらもある。

 春の終わりを閉じ込めた抽斗に、また一つ、連綿れんめんと続く約束が積もる。

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