第7話 小説家

「稀さん、何か良いことでもあったんですか? 声が弾んでますよ」

「やっぱり分かりますか? まあそうか、そうですよね。でも今はいいんですよそんなこと」

「……んん?」


 受話器の向こう、開口一番でばっさり切られた相手は少々困惑しているようだ。

 しかし彼女の勢いはそんなことでは止まらない。


「実はですね、新しいネタを思いついたんですよ。それで担当の坂田さんには報告して置こうって」

「ネタですか? それは、詩集の?」

「あーっと、いえ、そうじゃなくて小説です。長編小説」


 ああそうだな、と稀は浮かれた頭で思い至った。

 大学を卒業して一番最初の仕事。映画の効果もあって一時は世間に知れた小説の……例えるなら残飯、残りカス、最後っ屁か? 決してそんなことは口に出さなかったが、稀、ペンネームでは青井緑か、小説家としての自分から見たらそういう一面もある詩集を出したのだ。


 今どき野良猫だって人間の残飯なんか食ってないというのに。

 最初は可愛らしい見た目の本にサインを求めてくれたファンもいたが、一年もすればどこかに消えていた。見た目は辛うじてキャットフードだったかもしれないが、どちらにしろ栄養が足りていない安物では満足しなかったのだろう。野良猫だ、他に当てがあるのか大半は稀の家に寄り付かなくなった。


「長編小説? いやいや、どうしちゃったんですか? 僕としては詩集の第二段か、それとも子どもに読み聞かせする本が書きたいって稀さんが言ってたんじゃないですか。……稀さんのファンには家庭に入ってる女性も多いですし、読み聞かせ用の本なら僕だって賛成しないことも」

「いや、その気持ちが無くなったわけじゃないです」

「だったら」


 いつもと様子が違う自分の担当に危機感を覚えたのだろう。電話越しでも分かる、確実な方に誘導しようと彼は必死になっている。

 稀はそんなどこまでも堅苦しい仕事人間な彼を好きでも嫌いでもなかったが、人の良さが滲み出たような、少し低めの柔らかい声は気に入っていた。


「私ね、多分ですけど今人生で一番気分が良いんですよ。今なら誰に何を言われても笑って許せるくらいには、気分が良い」


 稀はふと顔を上げ今朝も眺めた、ベランダの柵越しに見える午後の空に目を細めた。そういえばベランダが気に入ってこの部屋に住むことを決めたんだっけ。


「今日の空見ました? 青い空を、雲が、積乱雲が我が物顔で闊歩してる。主張が激しいくせに背景の青に自然と溶け込んでいる。やれと言われてそう簡単に出来ることじゃないですよね。いや、きれいなのは昔から知ってたんですけどね。夏の空は好きだったし」

「――ちょっと、稀さん」

「そんなことにも感動しちゃうくらい気分が良くて……だから聞いて欲しいんですよ。ね、良いですよね? 坂田さんお願いします」

「…………あの、はあ、まあ、創作意欲があるのは悪いことじゃないですよ」


 ただ純粋に興奮しているのかそれとも血迷ってしまったのか、判断のつかない稀を今すぐ黙らせるのは一先ず諦めてくれたようだ。

 でも稀は知っている。ぺらぺら喋らせた後は必ずいつものお説教が始まることを。


 声は嫌いじゃないのでBGM代わりに聞いたっていいのだけれど、この後スーパーに一週間分くらいの食料を買いに行きたいのだ。だから言いたいこと言った後はさっさと通話を切る。

 報告内容が決定事項になってしまったのは悪いと思うが、稀にも予測できなかったことなので仕方ない。勝手に決めてしまっていることの、せめてもの償いとして電話している。


「私ね、吸血鬼の話を書こうと思っているんですよ」

「――きゅうけつき」

「そうです。吸血鬼。がぶって、尖った牙というか犬歯かな。人間から血を吸って生きるアレです」

「…………」


 数秒の沈黙。電話越しでも相手がイラッとしたのが分かった。稀はつい笑ってしまいそうになるのを口を動かすことで耐える。


「聞こえてます? 血を吸う吸血鬼です。そういえば蚊とか、マダニも血を吸いますよね」

「……あの、稀さん。落ち着いて」


 あ、椅子から立ち上がる音がする。今から稀の家に押し掛ける気だ。

 ……ドラマに出てくる熱血教師みたいだな。


 本当に仕事人間な自分の担当に感心しながらも、稀の予定に変更はない。


「取りあえず、今言えることはそれだけです。じゃあ、私これから買い物に行くので、ごめんなさい」

「――ちょっと」







 昨夜の出来事。あれから優花と同じ部屋に戻るのははばかられたので、稀は瞼が完全に落ち切る前にリビングのソファへと移動した。ベッドとは違い脚を伸ばせないので窮屈だったが、他人の視線から、今は優花の視線から少しでも隠れたかったのでそういう意味では丁度良かった。


 目を覚まして、ソファで爆睡していた稀に気付いた優花は笑っていた。

 トイレに立って、その後ソファに座ったら寝てしまったと稀が言えば、そんなに疲れていたのかとまた笑っていた。そういう優花も起き抜けとはいえ、目元が赤かったのだから人のことは言えないだろう。

 それを指摘しないで、稀も優花に釣られるようにして笑った。

 目を開けて優花の顔が視界に入った時は体に緊張が走ったが、目覚め自体は驚くほど気持ちが良かったのだ。

 それこそ自分が生まれ変わったのではと思ってしまうほどに。


 気持ちのうえでは、あの幸せがまだ続いているのだ。


「今なら何でもできそう」


 財布とエコバックを二つだけ持って、歩いて十分のスーパーに向かう。車じゃ駄目だ。きっと帰りは荷物で手が痛くなって、道の途中で一度は立ち止まるのだけど。

 それがいい。立ち止まって、蝉の声にしっかりと耳を傾けるのだ。


 優花が昼前に家を出てそれからの時間、稀は自分が夢中になったにおいの正体が何なのか調べることにした。

 今の稀には世界の全てが輝いて見える。感じたことのない高揚感が稀を包んで解放しない。その正体を知らないままというのは勿体無いだろう。気になったアーティストの名前を知りたいと思うのと何も違わない。


「オキアミ、プランクトン、海、人の汗、血」


 そうして分かった。海の水と人の血は、成分が似ているということを。

 人間は元々海で生きていたというし、そう驚くことでもないらしい。


 これだと思った。稀が書きたかったものは。稀は幸せを書きたかったのだ。

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