第6話 貝 稀

 今年で二十三歳になる貝 稀は小説家だったが、彼女は自身を小説家だと胸を張っていえる自信を持っていなかった。どうしてか。

 それは今現在、彼女が文字を書いていないからというのもあるが、web小説を読む若者の間で話題になり映画にまでなった自身の処女作を今でも好きになれないからだった。

 いや、むしろ映画の上映が終わって約一年半、レンタル屋に並んだDVDが新作からあっという間に旧作になり、それでも時々誰かに借りられているのを確認してほっとしながらも、年を重ねれば重ねるほど自身の作品への苦手意識は強くなっていった。

 どういった内容の話だったかなんてどうでもいいことで。

 子どもの数が減ったといえど、どこにでもいる暇を持て余した一人の女子高生がネット上に公開したつたない小説。同じく暇を持て余した夢見心地な学生達が、一刻しか持たない青春ゆめを求め、共通の話題を求め、ときには現実と重ね合わせ気付けば認知されていった小説。


 これが贅沢な悩みであることは稀自身分かっていた。同年代に受け入れられるという事実は喜ばしいことであり、決して簡単なことではない。嘘を書いたつもりもなかった。それは読者に受け入れられた理由にちょっとは関係していると思いたい。

 しかしこの気持ちだけはどうやっても誤魔化せなかったし誤魔化す気もなかった。


 理由はちゃんと分かっている。




 ***




 稀が友人の優花を釣りに誘ったのは、就職し県外に引っ越した彼女を家に呼んで久しぶりに顔を見たい、単純にそう思ったからだった。あとは、自己確認をする為だ。


 稀は一人っ子だったからか、幼稚園から中学校まで一緒だった優花を友人としながらも、ふとした瞬間、彼女を姉か妹のように感じていた。それは一緒にいて楽だったせいもあるだろう。

 そんな限りなく近しい、しかし自分とは違う存在の優花と会って他愛無い話をしたかったのだ。そうすることで自分と他人との間にあるズレを今一度確認し、何が良くて駄目なのか探ろうと思っていた。これは稀の、いつからか始まった不定期に訪れる慣例行事といってもいい。


 自分と長い時間を共にしたはずの優花は、今は何に喜びどんな悩みを抱えながら日々を過ごしているのか。


 稀が子どもの頃から絶えず感じてきた言い表すことの出来ない疎外感。嫌気が差してそのうちどうでもいいと無関心になるほど感じてきたそれ。諦めるとかではない。何度、自分と周りの人間とでは住んでいる世界が違うのではと錯覚したか。

 稀はもう、自分が感じているものを他人と共有できるとは到底思っていなかった。


 だったらせめて、上辺だけでもいい。どこでズレたのかそれとも最初からおかしかったのか、それは考えても意味のないこと。今の稀にできることは、ひとつでも他人と何かを共有し群れから追い出されないようにするだけ。自分自身の為、ひいては他人の為、息苦しくてもせめて人の皮を被っていなければならない。いや、稀はいつからか自ら望んで被っているのだ。たった皮一枚被っただけだが、ほとんどを視覚に頼って生きる人間にはそれなりに有効な手段だったし、稀はそうすることで手に入れられる日常とそれに溶け込む自分を気に入っていた。

 大事なのは第一印象だ。残念ながら例外もあったが、それならば互いに距離を置けばいい。衝突しそうになっても、こちらが黙っていれば大きな問題には発展しない。


 きっと、それは稀だけではない。誰も彼もがなんでもないような顔をしているが、皆そうやって自分の中の何かを犠牲にすることで日常を守っている。


 稀もそうやって日常を守ってきたが――そろそろ限界がきていたのかもしれない。

 気付いていなかったが稀にはもう、捨てるものがほとんど残っていなかった。犠牲を出し過ぎたのだろう。

 大切なものがあったのは確かだが、それが何だったのか見分ける力さえも失いかけている。だから稀には、自分が大切だったそれを既に捨ててしまったのか、まだ捨てずに持っているのかも分からない。


 それは皮で隠してきたものの中のひとつだったか? それとも群れから追い出されないように被っている皮の方だったか?


 もし皮の方だったなら急いで修繕しなければならない。手遅れになる前に。




「はあー、はあー」


 最近近くにオープンした対面式のパン屋。塩味の効いたオリーブパンが稀のお気に入りだった。

 昨日に続き今日も稀の家に一泊する優花を連れ立って、明日の朝食用にとパンをいくつか購入したのが夕方頃。


「うっ、ふう、ふ……ふふっ」


 釣ってきた可愛らしいサイズの魚達。包丁を滑らすたびに飛び散る鱗に二人で笑いながら、半分は煮付けに、もう半分は優花の希望で天ぷらにした。衣液にマヨネーズを混ぜておくとサクッと揚がるらしいが、それを実感したのが日も沈んで暗くなった夜九時頃。


「ああっ! うっ……ふう、ふう」


 それから、酒も飲みながら本当に何でもない他愛無い話をした。就職したばかりだったが、優花は早くも結婚したいと思っているらしい。なんでも何かと優花のことを気に掛けてくれる男性がいて、優花自身も満更ではないのだとか。今は付き合う一歩手前の、友達以上恋人未満の関係を二人して楽しんでいるらしい。

 随分と良い趣味をしている。羨ましいというか、妬けるというか。


「ん、うぅ! ……はあー」


 部屋の明かりが消えて、優花が静かな寝息を立て始めた深夜零時。朝が早かったことも手伝って、優花は布団を被るとすぐに夢の世界へと旅立っていった。

 稀も同じく睡魔に襲われたが、優花が寝るのを待ってこっそり布団を抜け出すと、リビングを挟んで寝室から一番遠い物置部屋に入っていった。

 かくれんぼ好きな子どもには見せられないが、最近は開けることのなかったクローゼットに潜り込んで、夜になるにつれて待ち切れないと言わんばかりにじくじく疼いてきていた歯を自らの手に噛み付くことでなだめすかした。

 何かを摂取しているわけでもない。ただ自分の手に噛み付いているだけだったが御気に召したらしい。稀は壁に縋るように凭れ掛かって、いつ満足してくれるかも分からない欲を必死に発散させ続けた。


 いつまで……一体いつまでこうしていればいいの。終わりが見えない。


 歯の疼きは噛むことで治り例えるならば快感へと変わってくれたが、今度はそれとは別の問題が浮上してきた。


 さっき食欲の方は満たしたはずだった。

 なのに腹の、胃のあたりが静かな唸り声をあげてそれじゃあ足りないと稀には分からない先を求めてきたのだ。

 地味だが内側からの衝動は抑えられるものではない。どうにかして鎮めようと思っても、彼女はその方法を知らない。


 だからどうすることもできない代わりに、思い起こされる潮の香りを感じながらやってくる睡魔に呑まれるまで、歯の疼きを治めることに熱中した。


 稀は今、途方もない幸せを感じていた。

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