第3話 きっかけ

 やんわりとクーラーの効いた店内には、まばらではあったが昼飯を食べている客がぽつぽつと見受けられた。客の入りはそれなりにあるようだが、釣り人が主な客だからだろうか。何となく閑散としていて漂う空気は静かだった。

 唯一の活気は子連れがいることだろう。


 稀と優花はとりあえず窓際の席に腰を下ろした。

 田舎にあるショッピングモールのフードコートといったところか。レジ上に目立つよう飾られている電飾看板には、定番中の定番、粉物から丼物それにデザートにアイスクリームまであり申し分ない充実したメニューが並んでいた。


「どれ食べよっかな…――ああ、たこ焼きがある。食べたいけど、でもたこ焼きじゃちょっと物足りない…う~ん」


 稀が美味しそうなたこ焼きの写真を見て唸る。それを聞いた優花はにこりと笑った。


「私はしらす丼にするけど、刺身の盛り合わせ頼むから一緒に食べない?」

「ええ、いのの?」

「稀も知ってるでしょ、私食べるのは嫌いってわけじゃないけど量は――」

「そっか、食べられないんだった。そうだった」

「子どもの頃と比べたら食べられるようになったんだけどね」


 稀は優花の提案をありがたく受け取ることにした。




 ***




「はあ、たこ焼きも刺身も美味しかった」

「うん、私もうお腹いっぱい」


 時刻はそろそろ午後二時になるところだ。なんだかんだとのんびりしていたせいか思った以上に長居してしまったらしい。


「途中でどっかに寄るのも良いけど、早いとこ帰って魚の下ごしらえしないといけないし」


 稀の提案に優花も頷いた。


 二人は食器を返却口に戻すと、駐車場に向かう。空は快晴で海は太陽の光を反射しきらきらと輝いている。しつこかった稀の嫌いな梅雨も流石に終わったようだ。

 そうして気分良く車に乗り込もうとしたところではたと気付いた。


「?…どうしたの?」

「あー、ごめん、ちょっと待ってて。まだ完全に手の臭いが取れてなくて。ハンドルが臭くなるのは困るからもう一回洗ってくる」


「車の中もちょっと暑くなってるし、換気してる間に」と稀が断ると、優花は「まだ臭ってるんだ。私も落とすのに苦労したけど」と笑いながら了承した。


 良い香りのするたこ焼きやジンジャーエールを口にしたので一旦はリフレッシュ出来ていたが、石鹸程度ではなかなか落ちないこのにおいと車の中で一時間も二時間も付き合える自信は稀になかった。

 嗅げるならまだしも助手席には友人が乗るのだ。嗅ぎたいのに嗅げないという状況は稀を悶々とさせ着実に追い込んでいくだろう。

 大体だ、嗅ぐのに夢中になって運転が疎かになったらどうする。そもそも、においが付いたままの手で車を運転するという選択肢なんてあってはならないのだ。


「………」


 それにハンドルが臭くなって困るのは―――紛れもない事実だ。




 ***




 ここから一番近いのは釣っている最中に一度利用した、防波堤近くにある人気のないトイレだった。


「すぅ……ふぅ~」


 ……はあー、堪んない。ずっと嗅いでいたら中毒になりそうだけど、この癖になるにおいが分からない人が多数派なんてなあ。


 手を洗う前にあともうちょっとだけ、ということで稀はまだまだ手にこびりついているにおいを嗅ぎながらトイレに向かっていた。浅ましいというか意地汚いというか、その自覚はあったしそんな自分に嫌悪感を抱いたりもするが、このにおいを楽しんでいる時点でどれだけ意地汚くしようが悪趣味なのは間違いない。

 他人ならまだしも今更自分に対して取り繕ったところで何の意味もないのだ。だったら今のうちに出来るだけ楽しんでおくに限る。



「すう――っう……ふ…ぅ?」


 …ん?なんか…変だ―――ちょっと…


 惜しむようににおいを堪能しながら建物の近くに来た時だった。においにてられて頭がぼんやりとしていたのは分かっていたが、ここにきて歩くのが面倒になるほど嗅ぐことに没頭している自分に気が付く。


「ふぅふう…」


 これ以上嗅ぎ続けるのは…よくないかも。なんか、息が荒くなってきた…


 昔に嗅いだ時はここまでにはならなかった。


 そういえば、さっき防波堤で嗅いだ時も反応が酷かったような。昔はちょっと癖になる匂い程度にしか感じなかったはずで、ここまでの中毒性はなかった。


 稀はもう目前に迫ったトイレには入らず、手前にあった木製のベンチにふらふらと吸い込まれるように歩いて行った。

 稀自身も分かっていない一線を越えてしまう前にやめなければと頭の片隅で分かってはいても、どうしようもなく嗅いでいたいのだ。


「はあ、はあ」


 駄目だ、自制しないと…早く抜け出さないと……でも、止まらない。


 息が荒いことを丁度口元を覆っている手で誤魔化して、気付けば辿り着いていたベンチ。

 脚が筋肉痛になって動作が鈍くなった人間のようにゆっくりと、と思えば投げやりともいえる雑な動きでどさりと腰掛けた稀は、体を捻って道側から顔を背けるよう後ろの草木に目をやった。


「はあっ…」


 …ベンチがあって良かった。立っているのは億劫だったから…。


 視界いっぱいに植木の緑が広がりちょっぴり、ほんのちょっぴりだけ現実に戻れそうな気がした。


 が、残念なことにそんなまともな思考は本能を揺さぶってくるようなにおいを前に一秒と持ってくれなかった。


「……は、ふぅ――………うっ、ふ、ううっ!?」


 やばいやばいやばい!


 上半身を襲ってきた衝撃に耐え切れず前のめりになる。


「は…う――う、うっ!」


 一瞬でも気を抜いたからか、それとも座って体の力を抜いたからか。きっと両方だ。稀にとっては不意打ちのような反動からくる衝撃に、息を荒げるどころか声さえ我慢出来ず呻く他なくなった。

 厄介なのは呻いた後、息を吸おうにも体が硬直して一呼吸するのさえ苦労するということだ。


 中毒性があるにおいだとは思ってたけど、こんなの…こんなの予想してない!


 霧の中にいるような良い心地でどこかぼんやりとした感覚だったものが、ちょっとしたきっかけで急に牙を剥いてくる。胸から頭の天辺まで、ぞわぞわした感覚があり自分の体が興奮しているのが分かった。


 待ってよ…こんなの…。好きな匂いは人それぞれだけど、こんなの違う!

 これじゃ、変態って言われても文句言えない――!

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