第2話 におい

「やっぱり、もう人がいる。みんな早いよね~」

「こんなもんでしょ。まだ場所は空いてるから」


 二人がやってきたのは、海釣りが楽しめるように整備された、大きな橋の下にある防波堤だった。

 高速道路を走ること一時間半、商業施設と連なるようにしてあるこの釣り場は釣り人達にとって天国のような場所だった。

 なんせ釣りが一段落すればそのまま飲食店で腹を満たすことが出来るし、釣り場近くにはどうぞご自由にと言わんばかりのトイレもある。釣りを目的とする人達が集まるのは必然だった。


「釣りなんて久しぶりだから、今日は楽しみだったんだよね~。う~ん、海の匂いも久しぶり」


 まれが海面を眺めながら、周りの静けさを壊さない程度の音量でそっと呟いた。


「そんなに?…まあ私も釣りが得意だから楽しみにしてたんだけどね。ねえ、勝負しようよ!どっちが多く釣れるか」

「いいね~、っていうか釣り竿選んでる時点でそのつもりだったけどね。うちだって上手い方だと思うし。――あっ、フグはノーカンね」


 小説家になったばかりのかい まれは、買ったばかりの釣り竿を手に、友人の持田もちだ 優花ゆうかとドライブがてら釣りに来ていた。

 釣りは久しぶりだったのでかなり楽しみだ。


 今は午前五時半を過ぎた頃、稀は昼前まで粘るつもりでいるが、日が昇ればそれに比例して魚は釣れなくなっていく。自分より先に優花がやめようと言い始めるだろうことは予測済みだ。


 稀は魚が食いついた―――経験したことのあるものなら分かるだろう、あのビビッ!ドドドッ!とくる瞬間が大好きだった。

 久しぶりだから出来れば時間の許す限り釣っていきたい。

 なので優花が三回、三回やめようと言ったら切り上げると勝手に決めている。三度目の正直というやつだ。

 しつこく続けたところで魚が釣れなくなっていく事実は否定できないし、また来れば良いのだからそれぐらいの我慢はしなければならないだろう。


 ……今日は晴れるって言ってたし、良い一日になりそう!


 そう、ここ数週間は夏が来たと思ったら梅雨に逆戻りするなど、一向に季節が進まなかった。なので四季のうち夏が一番好きな稀としてはやきもきしていたのだ。今日は夏らしい暑さに見舞われるらしくTシャツ一枚で大丈夫そうだ。

 海風を凌ぐ為に薄手の長袖を持ってきているが、日が昇り暖かくなるにつれて必要はなくなるだろう。脱いだ長袖は腰に巻けば良い。稀はこの気軽なスタイルが気に入っていた。




 ***




 なんだかんだで楽しい時間はあっという間に過ぎるものだ。気が付けば日がすっかり昇ってから大分経っているらしい。腕時計の針は昼前の十一時半を指していたし、優花も呆れながら付き合ってはいたがもう三回以上は切り上げようと訴えていたような気がする。


 二人合わせてカサゴやマアジなど稀でも見たことのある釣りの定番らしい魚が十匹ほど釣れた。フグを計算に入れればもうちょっと記録が伸びるのだが、リリースしてもまた懲りずに喰い付いてくる魚で水増しても虚しくなるだけだ。


「稀、私お腹減った。餌もなくなったし…あそこの店でなんか食べよう」

「……うん。そうだね」


 稀自身もお腹が減っていたし、魚も二人で食べる分には十分な量が取れた。第一に餌がなくなったのではどうしようもない。

 ここが潮時だろう。稀は海面に釣り糸を垂らして魚を待ち続けていたが、一時間前からはフグさえ釣れていなかったのだから。


 大人しく切り上げることにした稀は、オモリを回収するべくやっとリールを回し始めた。


「じゃあ、私、先に荷物を車に置いてくるね」

「うん、分かった」


 既に片付けを終えていた優花は、魚が詰まったクーラーボックスを担ぐとさっさと駐車場の方へ歩いて行った。


「………」


 急ぐ用事があるわけでもないので片付けながらのんびりと周りを見渡せば、釣り人の姿はまだぽつぽつと見られた。


 …昼でも釣れるもんなのかな。


 それか、地元の人が暇を潰しにきているのかもしれない。

 稀は自分の存在を誰も気にしていないことを知っていながらわざわざ確認すると、海を眺めながらゆるく握った左手を鼻先に持っていった。


「すぅ―――…」


 何時間もの間、釣り針に餌のオキアミを引っ掛け続け、釣れれば針を外す為に何回も魚を触り続け少し荒れてしまった稀の手。

 釣りをするなら避けることの出来ない、釣り人には馴染み深いであろう強烈な臭いが稀の鼻腔を無遠慮にくすぐった。


「すう~、…う、ふぅー……」


 久しぶりに嗅いだからか、稀は一瞬だけ我を忘れそうになる。


 エビのような形をしているが実はプランクトンの仲間らしいオキアミの腐った臭いか、はたまた魚の腐敗臭か、どちらかは知らないがそんなことはどうでも良かった。

 稀の知る限りではこのにおいは釣りの時しか嗅げない。ずっと嗅いでいたいとさえ思わせるこの癖になるにおいを稀は初めて嗅いだ時から気に入っていた。

 しかし付き合いの長い友人の前で嗅ぐのは嫌だったのでずっと悶々としながら過ごさなければならなかったのだ。わざわざ自分からドン引きされにいく奴なんていない。


 稀は一人になったのをこれ幸いと、何度も鼻と口の両方で深呼吸を繰り返し久しぶりの臭いと味を堪能した。



 …もう少しここでぼーっとしていたいけど、そういうわけにもいかないし、さっさと後を追いかけないと駄目だな。


 優花は駐車場で自分が来るのを待っている。

 稀は気持ちを切り替えて釣り竿をさっさとたたむと、荷物を纏めて駐車場を目指した。

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