青春ヌーディスト

丸田信

第1話

 9月も終わりを迎えようというのに、照りつける太陽は一切容赦をしてくれない。火傷しそうな熱波を、これでもかと嫌がらせのように降りそそいでいた。

 せまい個室にこもっていると、一層熱気は際立った。せまい個室でいきんでいると、もう頭が沸騰しそうなくらい体温がグツグツと上がっていくのを感じる。


 全身に汗をびっしり滴らせて、溝口時弥トキヤは腹痛と戦っていた。

 連日つづく熱帯夜は、うすいタオルケットさえもわずらわしく、気づけば蹴っ飛ばしてしまう。元々腹を下しやすい体質ということもあって、その結果――下痢となって苦しむ、いつものパターンだ。


 時弥は汗だくになりながら、どうにかこうにかケリをつけて、ほうほうの体でトイレを出た。

 熱気の満ちた個室から解放されたことで、わずかに暑さがやわらいだ気がする。あくまで気がするだけ。そんなものはまやかしで、すぐに猛暑はぶり返した。


 けっして広いとはいえな公営住宅の、部屋をつなぐ短い廊下の奥にリビングがあり、そこから強風にした扇風機のうなるような羽根音が聞こえてくる。

 ふらふらと足を運ぶと、食卓に何やら紙を広げて書き物をする姉の後ろ姿があった。汗がまとわりつかないように高い位置で結わえた髪が、扇風機の風でくるくると揺れている。


「姉ちゃん、何してんだ?」


 億劫そうに振り返った姉の麻智マチが、メガネをずらして時弥をにらむ。


「あんたこそ、何してんだ、そんな恰好で」

「いや、暑いから……」


 時弥は、パンイチだった。汗まみれの体に、タータンチェック柄のボクサーブリーフだけを履いている。

 便意をもよおす前はTシャツも着ていたが、トイレに駆け込む際に脱ぎ捨てた。全裸のほうが、やりやすいタイプなのだ。


 呆れて鼻を鳴らした麻智の手元を覗き込む。記述項目の分けられた紙束が詰まれていた。

 目を凝らすと、責任者の欄に学年や部活名や個人名が書かれているのが見えた。その下には、出し物の欄と概要を記入する欄がある。


「学祭の出願書?」

「まあね。めんどくさいけど、早めに片づけないと後々しんどくなるのが目に見えてる。まかり間違ってバカのバカみたいなバカ企画を通しちゃうと、こじれてうっとうしいことになるから、適当にはできないし、ホント大変」


 できの悪い弟と違って優秀な年子の姉は、現在高校三年生で生徒会長だった。

 二人が通う高校では学園祭を期に生徒会は代替わりするのが通例となっているので、生徒会長として最後の仕事である。顔には出さないが、それなりに意気込んでいるのかもしれない。


「まっ、がんばってよ」


 無関係の時弥にとっては、しょせん他人事である。学園祭自体も、帰宅部なうえにクラスの出し物にもやる気がなく、他人事だった。

 キッチンに寄って冷蔵庫から、作り置きの冷えた麦茶ポッドを取り出す。


「トキー、わたしも一杯ちょうだい」


 コップに注ぎ、まず姉に持っていった。

 近づいてくる時弥の姿をまじまじと見て、麻智は心底不快そうに顔を歪める。


「あんたさ、いつもそんな恰好してるから、お腹冷えてウンコもらすんじゃない」

「いや、もらしてないし!」


 今回はギリギリ間に合った。パンツに染みていないことも確認済みだ。


「次はもらすかもしれないでしょ。服着ろ、服。いまどき小学生にも、こんなバカなこと注意しないぞ」そこで、はたと気づいてニンマリ笑う。「小学生のときに注意してたら、あんなことにはならなかったか」


 今度は時弥が顔を歪める番だった。小憎らしいニヤけ顔の姉に、飛沫をまき散らしながら麦茶を差し出した。


「いつまで、その話を引っ張るんだよ!」

「いやぁ、あれは強烈だったからね。忘れたくても忘れられない」


 時弥だって忘れていない。忘れたくても周りが忘れさせてくれない。

 ――それは時弥が小学五年生だったときの話だ。


 どんな事情であったか記憶がおぼろげだが、とにかく小学校で全校集会が開かれた。学年・クラスごとにずらりと整列して、体育館に生徒も教師も揃っていた。

 重なり合ったひそひそ話が起こすさざめきのなか、壇上に立った校長がマイクを手に朗々とスピーチをする。内容はまったくおぼえていないが、ひたすら長かったことはよくおぼえている。


 あのときの時弥は、友人と話すこともなく、ただぼんやりとしていた。何も考えていなかったと思う。

 ふいに痛みが走ったのは、スピーチがはじまりどれくらいたった頃だろうか。

 予兆もなく、唐突に腹が痛くなった。手を添えると、キュルルと腸が鳴く音を感じた。


 思わず前屈みになり――あっさりと決壊する。踏ん張ろうにも一気に押し寄せて、括約筋が活躍する間はなかった。


 怒号と悲鳴が鳴り響き、いっせいに周囲の同級生が逃げ出す。遠巻きから衆目にさらされる輪の中心で、時弥は呆然と立ち尽くしていた。

 この日から、地獄の日々がはじまった。小学生のバカな男子にとって、ウンコもらしほど絶好のいじりネタはない。断言してもいい。


 ウンコもらしとからかわれ、そのうちウンコと呼ばれるようになった。ウンコそのもののように扱われ、汚いと真っ向から罵られたこともある。いじりがすぎて殴り合いのケンカに発展したことも、仲の良かった友人と決別したことも――数え上げるとキリがない。


 それでも中学に上がれば、子供じみたウンコネタから離れてくれると信じていた。甘かった。

 話を聞いた他校出身の生徒まで加わり、ウンコは時弥について回った。


 それでもそれでも高校に上がれば……甘かった。

 さすがに頻度は減っていったが、時々思い出したようにウンコは投げかけられた。

 いまでは、もう慣れっことなって、ウンコ呼ばわりも笑って受け流せる。でも、傷ついていないわけじゃない。あの日からずっと、時弥はウンコを払しょくする方法を探し求めていた。


「ホント、あれは最悪だった。わたしが姉弟だと知って、からかってくるバカもいたからね。まあ、力で黙らせてやったけど」


 いまでこそ多少は女らしくなりはしたが、当時の姉は怪力メスゴリラの異名を持つ腕白少女で、しょっちゅう男子を泣かせていた。返り討ちは想像にかたくない。

 時弥にその何分の一かでもゴリラのようなパワーが宿っていたなら、こんなにも苦しまずに済んだことだろう。


「もういいだろ。その話」

「とにかく服着ろ。年頃の女の前で、パンイチは失礼だろ。わたしに言わせたら、ウンコもらしたことより裸でうろついてるほうがよっぽど恥ずかしい」

「年頃って、家族なんだからどうでもいい……」


 ふと姉の言葉が引っかかり、声は途中で散り散りになる。

 不可解な様子に首をかしげたが、麻智はさして気にすることなく出願書に視線を落とした。


「……そうだ、そうだよな」

「何が?」

「裸って恥ずかしいんだよな」

「わかってんなら服を着ろ」


 ずっと考えていた。どうすればウンコの汚名を払しょくできるか。そのヒントを、偶然にも姉が教えてくれた。

 煮詰まった思考はあらぬ方向に飛躍して、とんでもない結論に達する。


 ――そうだ、裸になればいいんだ!

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