春の静寂に花の散るらむ

 鬱蒼と茂る森の中。刻々と更けていく夜闇の静寂しじまを裂くように、二つの影が木々の狭間はざまを飛び回る。

 片や漆黒の装束を身に纏い、疾風しっぷうの如き駿足で前方を駆ける影を追った。生い茂る大木の隙間を縫って逃げる背中に狙いを定め、男は懐から引き抜いた苦無くないを華奢なその背に向かって投げ込む。すると前方の影は即座に身をひるがえし、素早く抜刀ばっとうしたやいばで襲い来るそれを弾き落とした。しかし背後からの奇襲に反応した事で体勢を崩したのか、枝葉に足を取られて大きく傾いたその体が急降下する。


「くっ……」


 細い体は地面に落下する直前で受け身を取って衝撃を受け流し、瞬時に体勢を整えると再び刀の柄を握り込んで身構えた。その際目深まぶかに被っていた笠が吹き飛び、隠されていた濡羽ぬれば色の長い髪が外気に触れる。

 淡雪さながらの白い肌に切れ長の瞳。静かに睨み付ける黒い双眸と視線が交わり、とうとう追い付いた男はくつくつと喉を鳴らした。


「おいおい、そんなもんか姫様。とんだ期待外れだなァ、もう少し腕が立つと思ったんだが」

「……黙れ、この裏切り者!」


 姫と呼ばれた女は声を張り上げ、刀の柄を強く握って素早く地面を蹴った。銀のやいばくうを裂き、男に向かって振り下ろされる。男は冷静にそれを避け、後方に転回しながら飛び退くと女に向かって無数の手裏剣を投げ放った。鈍く風を切って向かって来るそれらを構えた刀で残さず切り落とし、彼女は更に距離を詰めて猛攻する。

 しかし男を斬り裂かんとする一閃は当然の如く見きられ、鞘から引き抜かれた短刀に容易く防がれて刃同士が交わった。ぎりぎりと音を立てて重なり合う刃の隙間から彼を睨み、女は苦々しく口を開く。


「何故……っ、何故父上を殺した! 私は……! 私はお前を、信じていたのに……!」

「ああ、そりゃ残念だったな。あんたの見てた過去の俺は全部偽物だ。俺は隣国の密偵、あんたの敵」


 飄々と吐き捨て、彼は女の腹部を蹴り飛ばす。微かな苦鳴と共に怯んだ彼女の胸ぐらを掴み上げた男は、華奢なその体を背後の巨木の幹に躊躇なく叩き付けた。後頭部と背中を強打し、女は息を詰まらせながら腐葉土の上で膝を付く。ぐらぐらと視界が揺れる中、忌々しげに睨み上げた先で男の口元がいびつな笑みを描いた。


「哀れだな姫様、あんたも此処で終いだ。まんまと敵を信じて騙された、愚かな自分を恨んで死にな」


 冷たい刃が突き付けられ、鋭利な切っ先が白い喉元を伝う。女は奥歯を軋ませ、眉根を寄せて表情を歪めた。


「……全部、嘘か……」

「あ?」

「……あの時、私に告げた言葉も……全部嘘かと聞いている……!」


 泣き出しそうな程に潤んだ切れ長の双眸が揺らぎ、震える声が問う。男は一瞬言葉を詰まらせ──ややあって渇いた笑みをこぼした後、低い声が答えた。


「……ああ。嘘だ」

「……っ」

「何だ? あんな薄ら寒い詭弁きべんを信じたのか、あんた。笑えるね」


 男はあざけるように笑い、短刀を白い喉元に押し付ける。冷たい銀のに伝うぬくい赤が、湿り気を帯びた土の上にしたたり落ちた。


「俺はしのびだ。任務であれば『友』にも成れるし、『愛』だってかたれる」

「……っ……私、は……!」

うるさいな。そろそろ死んでくれ」


 耳障りなんだよ、と続けて、男は冷ややかに彼女を見下ろす。

 そうして振り上げた短刀は、とうとう女の纏う上等な布を容易く裂き、これまで幾度と無く触れたぬくい柔肌を一閃した。声にならない悲鳴が上がり、美しく赤が散る。花弁の様に、はらはらと。


 ──どさり。


 か細い体は大きく傾き、雪解けを終えて間もない土の上へと倒れた。もはやぴくりとも動かない彼女を黙って見下ろし、男は短刀を鞘に納める。

 やがて彼はその場にしゃがみ込み、広がる濡羽色の髪をおもむろに掬い上げ──そっと、それを手放した。


「……全部、詭弁だ」


 ぼそりと告げて、濡れた地面に膝を付く。色を失くした薄い唇を指先で静かになぞり、目尻からつうと伝った透明な雫を拭い取って、開いたままのまぶたをゆっくりと落とした。


「……だから、この先の言葉も忘れてくれ」


 長い睫毛が蓋をした双眸は、もうぴくりとも動かない。男は未だに温もりの残る頬を優しく撫で、言葉を続ける。


「……叶う事なら、あんたと共に、」


 ──この先の未来を、歩んでみたかった。


 消え去りそうな声がそう紡いで、彼の手は触れていた彼女の肌から静かに離れる。

 雪解けから間も無い、春を迎えたばかりの夜の森。闇に満ちる静寂が耳を貫き、ある筈もない痛みすら錯覚してしまう。


 ふと、夜闇に慣れた視界の端で、おそらく花開いたばかりであろう桜の花弁がはらりと散り落ちて行く様子が目に入った。──まだ、散るには早いのではないだろうか。薄桃色の花弁を見上げ、男は目を細める。


 ──春の静寂しじまはこうも穏やかなのに、美しい花は、散り行くばかりだ。


 脳裏に浮かぶのは、昨晩まで己の腕に抱かれていた彼女の柔らかな微笑み。自ら散らした、もう二度と咲く事の無い、過去の一部と成った淡い花。


「……」


 男は俯き、長い前髪で目元を隠して彼女のむくろに背を向けると、一度たりと振り返る事なくその場を後にする。


 最後まで本心を隠してうそぶいた彼の寂しげな背中は、痛々しい程に満ちる冷たい静寂の奥へと、消えて行った。

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