春の静寂に花の散るらむ
鬱蒼と茂る森の中。刻々と更けていく夜闇の
片や漆黒の装束を身に纏い、
「くっ……」
細い体は地面に落下する直前で受け身を取って衝撃を受け流し、瞬時に体勢を整えると再び刀の柄を握り込んで身構えた。その際
淡雪さながらの白い肌に切れ長の瞳。静かに睨み付ける黒い双眸と視線が交わり、とうとう追い付いた男はくつくつと喉を鳴らした。
「おいおい、そんなもんか姫様。とんだ期待外れだなァ、もう少し腕が立つと思ったんだが」
「……黙れ、この裏切り者!」
姫と呼ばれた女は声を張り上げ、刀の柄を強く握って素早く地面を蹴った。銀の
しかし男を斬り裂かんとする一閃は当然の如く見きられ、鞘から引き抜かれた短刀に容易く防がれて刃同士が交わった。ぎりぎりと音を立てて重なり合う刃の隙間から彼を睨み、女は苦々しく口を開く。
「何故……っ、何故父上を殺した! 私は……! 私はお前を、信じていたのに……!」
「ああ、そりゃ残念だったな。あんたの見てた過去の俺は全部偽物だ。俺は隣国の密偵、あんたの敵」
飄々と吐き捨て、彼は女の腹部を蹴り飛ばす。微かな苦鳴と共に怯んだ彼女の胸ぐらを掴み上げた男は、華奢なその体を背後の巨木の幹に躊躇なく叩き付けた。後頭部と背中を強打し、女は息を詰まらせながら腐葉土の上で膝を付く。ぐらぐらと視界が揺れる中、忌々しげに睨み上げた先で男の口元が
「哀れだな姫様、あんたも此処で終いだ。まんまと敵を信じて騙された、愚かな自分を恨んで死にな」
冷たい刃が突き付けられ、鋭利な切っ先が白い喉元を伝う。女は奥歯を軋ませ、眉根を寄せて表情を歪めた。
「……全部、嘘か……」
「あ?」
「……あの時、私に告げた言葉も……全部嘘かと聞いている……!」
泣き出しそうな程に潤んだ切れ長の双眸が揺らぎ、震える声が問う。男は一瞬言葉を詰まらせ──ややあって渇いた笑みをこぼした後、低い声が答えた。
「……ああ。嘘だ」
「……っ」
「何だ? あんな薄ら寒い
男は
「俺は
「……っ……私、は……!」
「
耳障りなんだよ、と続けて、男は冷ややかに彼女を見下ろす。
そうして振り上げた短刀は、とうとう女の纏う上等な布を容易く裂き、これまで幾度と無く触れた
──どさり。
か細い体は大きく傾き、雪解けを終えて間もない土の上へと倒れた。もはやぴくりとも動かない彼女を黙って見下ろし、男は短刀を鞘に納める。
やがて彼はその場にしゃがみ込み、広がる濡羽色の髪を
「……全部、詭弁だ」
ぼそりと告げて、濡れた地面に膝を付く。色を失くした薄い唇を指先で静かになぞり、目尻からつうと伝った透明な雫を拭い取って、開いたままの
「……だから、この先の言葉も忘れてくれ」
長い睫毛が蓋をした双眸は、もうぴくりとも動かない。男は未だに温もりの残る頬を優しく撫で、言葉を続ける。
「……叶う事なら、あんたと共に、」
──この先の未来を、歩んでみたかった。
消え去りそうな声がそう紡いで、彼の手は触れていた彼女の肌から静かに離れる。
雪解けから間も無い、春を迎えたばかりの夜の森。闇に満ちる静寂が耳を貫き、ある筈もない痛みすら錯覚してしまう。
ふと、夜闇に慣れた視界の端で、おそらく花開いたばかりであろう桜の花弁がはらりと散り落ちて行く様子が目に入った。──まだ、散るには早いのではないだろうか。薄桃色の花弁を見上げ、男は目を細める。
──春の
脳裏に浮かぶのは、昨晩まで己の腕に抱かれていた彼女の柔らかな微笑み。自ら散らした、もう二度と咲く事の無い、過去の一部と成った淡い花。
「……」
男は俯き、長い前髪で目元を隠して彼女の
最後まで本心を隠して
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