猫の日

「にゃあ」


 もっふりと毛に覆われた仏頂面の三毛猫が俺に向かってふてぶてしく欠伸をこぼす。俺が幼い頃からこの駄菓子屋に積まれたダンボールをねぐらとし、数匹の子分を従えて堂々と居座っていやがるこの野良猫。昔から猫より犬派である俺はその丸っこい背中に触れたことなど一度もないが、出会った頃からふてぶてしいそいつは俺の手元のスナック菓子を奪おうなどと考えているらしく虎視眈々と獲物を狙っている。ダメだダメだ、これは俺の。


「あらカンちゃん、こんにちは」

「あ、おばちゃん。こんちは」


 ふと、駄菓子屋のおばちゃんに声を掛けられて俺は顔を上げた。野良猫は「んなぁ~」と甘えた声を発しておばちゃんの足元に頬擦りする。「あらあら、ミーちゃん、お腹空いたの?」とおばちゃんは微笑んだ。ミーちゃんって名前だったのかこいつ。十年以上通って初めて知った。


「カンちゃん、四月から東京だっけ?」


 不意におばちゃんが優しく目を細めて俺を見る。俺は視線を落とし、少し間を置いて頷いた。


「そっかそっか、寂しくなるねえ」

「……別に、一生の別れとかじゃないんだし大袈裟だよ。帰ってきたらまた駄菓子買いに来るし」

「うふふ、そう言ってくれるのは嬉しいけどね」


 おばちゃんは少し寂しそうに笑って向かいのベンチに腰掛けた。すぐさま猫もベンチに上がり、おばちゃんの膝に乗ってゴロゴロと喉を鳴らす。「実はねえ、」と口を開いたおばちゃんに、俺は視線を向けた。


「お店、三月一杯で畳んじゃうのよ」

「……え!?」


 そうして放たれた衝撃的な言葉に俺は目を見開く。あんぐりと口を開けたまま固まった俺に、おばちゃんは「びっくりさせてごめんねぇ」と苦笑い。


「ここね、道を広くするために工事するんですって。だから立ち退かないといけないのよ」

「……そんな……」

「それに私ももう年だしね。ここらが引き際なんじゃないかしらって」


 おばちゃんは膝に乗った猫の丸い背中を優しく撫で、俺に向かって目を細めた。


「あんなに小さかったカンちゃんが、もう十八歳なんだものね。ここに来る子達が巣立って行くのをたくさん見れた。それだけで、私は幸せだわ」

「……」

「ああ、もちろんミーちゃんもね。元気で暮らすのよ」


 おばちゃんは首を傾げている猫に微笑み、ゴロゴロと気持ち良さそうに喉を鳴らしているそいつを撫でた。ふと、「おばちゃーん!ゼリーの飲み口開けてー!」と店内から叫ぶ子どもの声に呼び掛けられ、「はいはい」とおばちゃんは腰を上げる。猫は「ぎにゃー!」と悲鳴を上げて膝から滑り落ちた。


「じゃ、また後でね」

「……うん」


 おばちゃんは踵を返し、店内へと戻って行く。猫はにゃあにゃあと鳴いてそれを見送り、ややあって再び俺の元へと戻ってきた。


「にゃあ」

「……」


 ふてぶてしく欠伸をこぼし、猫はじっと俺を見つめてくる。俺は小さく溜息を吐き出して、スナック菓子の最後の一粒を口の中に放り込んだ。

 ちらりと顔を上げ、周囲を見渡す。ベタベタとシールが貼られた錆び付いたベンチ、積まれたダンボール、雨風に晒されて塗装の剥がれた看板、古いガチャガチャ。その全てに幼い自分の姿が重なって──その全ての思い出の中に、コイツがいた。


「……お前も、ここを巣立つんだな」

「んなぁ~」


 猫は呑気に毛繕いをして、地面にごろりと日向ぼっこ。ああそういえば、今日は二月二十二日か。世の中は〈猫の日〉。いつの間にか世に浸透してしまったそのイベントは、特に誰かに何かを贈るわけでもなく、ただ猫を敬う日? なのだとか。まあ、俺はコイツを敬ってなどやらないけれど。


「……元気で暮らせよ」


 俺は微笑み、呑気に丸くなるその背を撫でた。初めて触れたその背中は、暖かかった。

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