第29話 力の秘密(その1)

 パジャマ姿の時田翠子は満足げな笑みで上体を後ろに傾ける。ベッドの縁に背を預けると縮こまっていた両脚を伸ばした。吐く息に合わせて顔が仰け反り、敷布団の上に後頭部を載せた。

 弱々しい手で腹部のボタンを外す。役目を終えた手はパタリと落ちて全身の力が抜けた。

 洗い物をしていた時田赤子が戻ってきた。身に纏う着物には暖色系の菊が咲き誇る。炊事に邪魔なたもと襷掛たすきがけによってすっきりと纏められていた。

「姉様、味はどうです?」

「美味し過ぎた結果が、この姿……まさか朝食に肉厚のステーキが出るなんて、予想もしなかったよ……」

「満足していただけて赤子も嬉しいのです。食べたあとは外に出て適度な運動が欠かせないのです。姉様がいない間に赤子が部屋の掃除をしておくのです」

 赤子は口角を上げた。艶やかなおかっぱ頭を僅かに傾げて言葉を待つ。

「今は動く気になれないよ。休日なんだし、家でゆっくりしたい気分なのよねぇ」

「赤子の予定と違うのです。姉様がいると大々的な掃除ができないのです」

「そこまで、しなくていいよ。お姉ちゃん、今のままで……大満足だから……」

 話ながら瞼が下がってきた。赤子は見咎めるように目を細くして、一気に開く。その場でくるりと回った。

「姉様の銀行口座に謝礼金を振り込んでおいたのです」

 その一言に翠子の瞼がこじ開けられた。

「掌に目がある妖怪の件だよね?」

「そうなのです。『手の目』の懸賞金、200万の中から諸経費を引いた額の50万を入れたのです」

「50万も!?」

 頭が撥ね上がる。平然とした様子で立っていた赤子に目をやる。

「なんで、そんな大金を。いくらなんでも」

「姉様が一人で捕まえたのです。少ないくらいなのです」

「そ、そうかなぁ。なんか、悪いね。目も覚めたし、少し出ようかな」

 翠子は立ち上がると出掛ける用意を始めた。赤子の口角が釣り上がる。

 余所行よそゆきに着替えた翠子を赤子は玄関でうやうやしく送り出す。

「充実した休日を過ごしてくださいなのです」

「お姉ちゃんがいなくて寂しいと思うけど、留守番をよろしくね。それと掃除は程々でいいよ」

「赤子は手を抜かないのです。姉様も目一杯、一日を謳歌おうかして欲しいのです」

「ありがとう、赤ちゃん!」

 翠子は鋭い踏み込みで瞬時に赤子を抱き上げる。両腕は封じられ、摩擦熱で火が出そうな程の頬擦りをした。

「過剰な抱擁は手加減して欲しいのです」

 激しく揺さ振られる頭で赤子は言った。


 閑散とした電車内に仙石竜司の姿があった。乗降ドアの側に立ち、流れる景色を漫然と眺めている。詰め込まれたような家々を通り過ぎ、左手から駅が滑り込む。

 ドアが開く前に竜司は一歩を踏み出す。半透明の身体は易々と通り抜けてホームに降り立った。

「行くか」

 白い特攻服の裾を翻す大股で歩いた。自動改札を通過して通い慣れた道をゆく。

 住宅街の一角にあるワンルームマンションが見えてきた。竜司は急ぎ足で敷地に踏み込んだ。整然と並ぶドアの一つに立ち、呼び鈴に指を伸ばして途中で止めた。

「……前に怒られたよな」

 竜司は姿勢を正した。黙って一礼してドアを通過する。

「これは」

 部屋の床には衣服が無造作に投げ出され、下着類も含まれていた。竜司は武者震いを起こし、奥へと駆け込んだ。

「空き巣野郎は俺がぶちのめしてやる!」

「トサカ頭、うるさいのです」

 ベッドを横向きにした赤子が冷静に返す。

「おかっぱあああ、おまえの仕業かああああ!」

「うるさいのです。大掃除の邪魔なのです」

 赤子は白いハンカチを額に当てる。頬や首筋にも同様に押し当てた。

 冷静な態度に竜司の沸騰した頭が冷やされる。

「どう見ても物取りの類いだろ、これは」

「見えているところだけを綺麗に掃除しても意味はないのです。隙間にある塵を取り除かないと何かの拍子に現れて元に戻ってしまうのです」

「一理はあるか。しかし、ここまでするか?」

 顔を方々に向けた。押入れは全開で中身は床に引っ張り出されていた。収納用の箱は全て開けられ、周囲に散乱している。小さな箱も見逃さず、例外なく周囲にぶちまけていた。

 赤子はすっと両腕を下ろした。竜司を静かに睨み据える。黒目勝ちの目に冷気が宿り、黒さを増してゆく。

「な、なんだよ。そんな顔して俺を責めるのはおかしいだろ」

「赤子は姉様の為に掃除をしているのです。その途中で何かを見つけたとしても故意ではないのです」

「おかっぱ、おまえの目的は」

「トサカ頭、姉様の力の秘密を教えるのです」

 赤子は言葉を遮って強い一言を発した。感情が乏しいせいで黒目は深い洞を彷彿とさせた。見ていた竜司に身震いを引き起こす。

「……やっぱり、姉御の妹なんだな」

「話をはぐらかそうとしても無駄なのです。賞金首の『手の目』を捕まえた時、道全体が凹んでいたのです。理由を教えるのです」

「そうなのか? のしいかみたいな老人の姿は見たが、道までは覚えてないな。今から一っ走りして見てくるか」

 踵を返したところで赤子が言った。

「手遅れなのです。処理班に賞金首が渡った時に復元されて、痕跡は残っていないのです」

「そっちの処理もするのか。道全体に凹みねぇ。姉御の図抜けた力で、どうにでもなるような気もするが」

「賞金首の『手の目』は最初、複数の目で姉様の攻撃を躱していたのです。赤子達が現場を離れた数分で倒されて道全体が凹んでいたのです。どのようにしたのです?」

 黒々とした双眸で赤子は首を傾げた。その姿で音もなく竜司に迫る。不可視の圧力に押され、後退を余儀なくされた。

「そんなこと、俺にもわからねぇよ」

 竜司は壁に身体を減り込ませた。顔だけの存在となって赤子を不満げに見下ろす。

「赤子は大掃除を続けるのです」

 視線を逸らして手付かずのところに移動する。そっと半身を出した竜司が眉間に皺を寄せた。

「姉妹であっても秘密はあるだろ。無理に暴くのはよくないと思うぞ」

「跡目を継ぐ為に必要なことなのです。姉様の真の力を父様ととさまに悟られないように見極めて、その上を赤子がいくのです」

「おまえが姉御を超えられるのか?」

 竜司は口にした直後に壁の中に押しやられた。赤子は首を傾げた状態で突っ込んできたのだ。追い込んだあと、瞬きを忘れた黒い双眸で睨み続ける。

「赤子の治癒能力は姉様を超えているはずなのです。秘められた能力も開花して威力を高めている最中なのです。腕力だけで強さは決まらないのです」

「わかった、わかったから落ち着けって」

 竜司は顔と両手を出して必死になだめた。赤子はおちょぼ口を硬くして、ふん、と鼻息を漏らす。目を皿にして掃除を再開させた。

「どうしたもんかねぇ」

 竜司は壁を背にして腕を組む。赤子を止める手立てがない。必死になる事情も聞かされた。

「姉御の強さの秘密か……」

「赤子は気になるのです」

 竜司の何気ない呟きに赤子が答える。本人は手を休めず、梱包された物に巻かれた紐を解いていた。

「……俺も探してみるか」

 半透明の身体は物体を易々と通り抜ける。その性質を存分に活かし、至るところに頭を突っ込んだ。

「意外と使えるのです」

 赤子の集中が途切れ、手が止まってしまった。眉尻がピクリと動いて、生意気なのです、と怒りを口にして作業に戻っていった。

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