第9話 生家(その3)

 風呂から上がると時田翠子は離れの一室で豪勢な膳を振る舞われた。薄っすらと微笑み、慎ましい所作で食べ進めた。徳利の酒にはあまり手を付けなかった。

 五十畳の部屋の中央には小鬼の手によって布団が敷かれた。翠子は浴衣姿で横になる。目を閉じて数分後には安らかな寝息を立て始めた。

 瞬間、瞼を開けた。目だけで様子を窺う。終わらない夕暮れの影響で部屋は茜色に染まったままであった。

 ずらりと並んだ障子に人影は見えない。控えている者もいなかった。

 翠子は掛布団を撥ね除けた。枕元に折り畳まれた自身のスーツを小脇に抱えると障子に忍び寄る。縦桟たてざんに指を掛けた。すると遠慮がちな咳払いが聞こえてきた。

「翠子様、どちらに行かれるのですか」

「……この声は影女ね」

 声の出所に行くと一枚の障子に長い髪をした女の影が映し出されていた。隣の一枚を開けて裏を見たが姿はなかった。

「翠子様、部屋にお戻りください」

「なんでよ。広くて落ち着かないし、いつまでも暗くならないし、仕事も気になって寝てられないわ」

「向こうの世界に毒されてしまわれたのですね。おいたわしや」

 しくしくと泣く影女に翠子は歯軋りをした。その状態で頬を盛り上げて無理矢理に笑みを作った。

「それは誤解よ。ほら、久しぶりに帰ってきたから懐かしくなって。そこら辺を散歩したい気分になったのよ」

「衣服はこちらでお預かりします。散策には不要となるでしょう」

「……どうしても行かせないつもりのようね」

 翠子は開けた障子から一歩を踏み出した。

「酒呑童子様の命により監視役を仰せつかりました」

 影女の一言は翠子の動きを封じた。

「私が勝手なことをしたら、お父様に告げ口するって意味よね」

 相手の沈黙に翠子は溜息を吐いた。

「お父様に真っ向から逆らうつもりはないわ。私は能力に目覚めていないだからね」

 開いていた障子を乱暴に閉めた。足音を立てて戻り、布団の上にどかっと胡坐を掻いた。

「翠子様、私も心苦しいのです」

「はいはい、わかってますよー。300万なんて端金はしたがねよねー」

 不貞腐れた態度で言葉を返し、片膝を平手で何度も叩いた。その都度、影女は身を震わせた。

 音もなく、障子が開かれた。黒々としたおかっぱ頭の少女が晴れやかな着物姿で現れた。

姉様ねえさま、お久しぶりなのです」

 目にした瞬間、翠子は笑顔で立ち上がる。駆け寄って少女の頭を胸に抱いた。

「私の赤ちゃん」

「その発言は危ういのです。私は赤子あかこなのです」

「私の赤ちゃん、お姉ちゃんがいなくて寂しかったよね。一人にしてごめんね」

 翠子は赤子の頭を摩りながら胸に押し付けた。

「赤子ちゃんでお願いします。薄い胸にグリグリされてかなり痛いのです」

「怒る気持ちもわかるわ。いいのよ、今はお姉ちゃんの胸に甘えても」

「甘くないのです。目を開けていても彼岸が微かに見えるのです」

 赤子は長い睫毛を震わせた。黒目勝ちな瞳に感情は乏しいものの、白い頬は力んだような色合いに変わってきた。

「美しい姉妹愛に心が震えます」

 影女は感極まった声を漏らした。

 気が済んだのか。翠子は赤子を解放した。顔を近づけてにっこりと笑う。

「熱い抱擁ほうようはこれくらいにして、向こうのお話をしてあげるね」

「姉様、少しお待ちください」

 赤子は乱れた髪を手で整えた。僅かに細めた目を影女に向ける。やや頬を膨らませてゆらりと揺れた。ゆらゆらと全身が不規則に揺れ動き、微妙な強弱を付けた。

 影女は釣られたように揺れて障子の中でくずおれた。

「影女は眠らせたのです。次は姉様の番なのです」

「赤ちゃんはお話よりも、お姉ちゃんに遊んで貰いたいんだね。仕方ないなー」

「今度こそ、姉様から一勝をもぎ取るのです」

 先程と同様に赤子は揺れた。大きく目を見開き、おちょぼ口を小刻みに動かした。別人のように低い声が部屋を隅々まで満たしていく。

 翠子は優しい目となって見詰めた。控え目な拍手まで送った。

 赤子はぴたりと動きを止めた。

「姉様、眠くはないのですか」

「寝たら赤ちゃんの踊りが見られなくなるよ。そんな失礼なこと、お姉ちゃんは絶対にしないし」

「すでに失礼なのです。奥の手を使うしかないのです」

 赤子は下ろしていた両腕を僅かに開いた。全身から清水のような物が滾々こんこんと湧き出す。意志があるかのように翠子を目指し、足先を呑み込んだ。

「濡れた感じがしないから、ただの水ではないよね」

「姉様、見えるのですか」

「え、もしかして見えたらダメなの? じゃあ、見えないことにしていいよ」

「失礼を極めているのです。でも、これで逃げられないのです」

 流れ出た清水は土気色となった。翠子は初めて表情を変えた。

「足首を掴まれたみたい。赤ちゃん、やるね」

「今頃、気付いても遅いのです」

 赤子は両腕を後ろに引いて滑るように間合いを詰めた。翠子の無防備な腹部に左右の手刀を突き入れようとした。

「信じられないのです」

 手刀を突き出した姿で赤子は立ち尽くす。翠子は後方に跳んで易々と攻撃を回避した。

「見えない水で相手の足の自由を奪って攻撃する。繋ぎ方は良いんだけど、拘束する力がちょっと弱いかな」

「……父様ととさまに褒められた技なのです。小鬼には通用したのです。姉様は反則の塊なのです」

 無表情のまま、涙声に変わる。翠子は慌ててすっ飛んできた。中腰となって赤子の頭を優しく撫でる。

「良い攻撃なんだから、落ち込むことなんてないよ。ほら、手順が面倒なら新しい腕とかを出して相手を殴り飛ばせばいいじゃない」

「簡単ではないのです。父様は出来ても、赤子には無理なのです」

「お、お父様は出来るのね。逆らわなくて良かったよ」

 翠子の笑顔が硬くなる。未だ眠りこけている影女をちらりと見て軽く頭を下げた。

「姉様は戻ってくる度に強くなっているのです。どうしてなのですか」

「そんな気はないんだけど、なんだろう。向こうの世界でヘンな連中と出くわすせいなのかな」

「羨ましい才能なのです。赤子も強敵と出会って、もっと強くなりたいのです」

 決意と等しく、おちょぼ口を固くする。翠子は赤子の頭をゆっくりと撫でた。

「こっちとしては迷惑だけどね。それと過去に何回も言ってるけど、私はお父様の跡目を継ぐつもりはないよ」

「そうであっても赤子は実力で姉様を越えたいのです。父様も姉様の力を知れば強引な手に出るかもしれないのです」

 確信があるのか。赤子は言葉を強めた。

「赤ちゃんが黙っていてくれるから心配してないわ」

「赤子は跡目を狙っているので口に出せないのです」

「赤ちゃんは正直者だね」

 翠子は赤子を包み込むように抱き締めた。

「姉様、いつもこのくらいでお願いしたいのです」

「可愛らしい赤ちゃんのせいよ。正直者で頑張り屋さん。今日の技は本当に驚いたわ。コツでもあるの?」

「修練の賜物なのです。あとは五感を末端まで広げる感じなのです。この技は精神と肉体に負担を掛けるので、今の赤子には少しの時間しか使えないのです」

 赤子はもぞもぞと動いて顔を上げた。

「姉様は使えるのですか」

「ま、まさか、そこまでは無理よ」

「安心したのです。父様は大きさまで自由に変えられるのです。の巨大な腕を初めて見た時、赤子は怖くて泣きそうになりました」

 言葉に反して笑顔を見せる。翠子の表情は強張り、激しく目が泳ぐ。

「赤銅色の腕なのね。そ、それはなんとも」

 姉妹は茜色に染まる部屋で延々と語り合った。


 その後、無事に帰宅を果たした翠子は二十人殺しと出会った現場に急行した。血眼になってナイフを探すが見つからない。酷い豪雨に見舞われたのか。山肌の一部が崩れ、道は半ばまで崩壊していた。

「私の300万はどこだああああ!」

 鬼の咆哮ほうこうが山中に木霊した。

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