7-4
情交の目的で作られた空間で男と女の間に本当は何があったのか、真実を知るのはそこにいる二人だけ。
タブーの境界線を越えた? 越えてない?
それは二人にしかわからない。
バスローブを羽織った佐藤は真っ赤なソファーに腰掛けた。アジアン雑貨にありそうな何柄なのか不明なクッションに背中を預けて一服する。
バスルームの方からドライヤーの音が聞こえた。
止まらない男の欲を体外に放出した佐藤の身体には鬱々としたけだるさが残留していた。
言い訳はしない。盛りを過ぎた男も好きな女の前では思春期の雄だ。
後に残るのは倦怠感と罪悪感。
ドライヤーの音が聞こえなくなり、静寂の部屋に美月が現れた。
佐藤と同じくバスローブを纏う彼女は彼の隣に腰を降ろす。洗い立ての長い髪が佐藤の指に絡まった。
テーブルの上には灰皿、煙草のケース、眼鏡、エメラルドグリーンの液体が入る香水瓶があった。
「いつもの香水、持ってきてたんだね」
『ああ。これを使うのも今日が最後だな』
佐藤が持ち上げた香水瓶は美月の手に渡って彼女はシュッとひとふき、佐藤と自分の手首に香水を吹き掛けた。
トップノートのツンとくる柑橘系の香りはやがて体温と溶け合ってサンダルウッドとムスクの温かな甘さに変わる。
「ふふっ。またお揃いの匂いだね」
『相変わらず可愛いことするなぁ』
苦笑いした佐藤は灰皿の横の眼鏡に手を伸ばす。コンタクトを外した目に眼鏡を装着した。
「そうやって眼鏡かけてるとやっぱり“三浦先生”っぽいよね」
『顔は違うよ』
「ね。ほんと騙された。佐藤さんもキングも私を騙して。酷いっ」
9年前の美月が大学生の時、佐藤は貴嶋の命令で架空の人物に成り済まして教員として大学に潜入していた。その際に使用した偽名が三浦英司だ。
『だけど美月は三浦が嫌いだっただろ?』
「嫌いって言うか……近付くのが怖かった。“三浦先生”の正体が佐藤さんだって知った今はそれも納得できる」
特殊なマスクで三浦に変装した佐藤の正体が美月に知られることはなかった。だが美月は三浦から佐藤瞬の気配を感じ取っていた。
あの時、美月が三浦に感じた佐藤の気配は勘違いではなかった。
近付きたくないのに“三浦英司”に惹かれていた理由も説明がつく。
『俺も三浦の時は授業以外ではなるべく美月に近付かないようにしてたんだ』
「どうして?」
『近付いたら触れたくなるから。抱き締めたくなるしキスもしたくなる。……こうやって』
煙草を手放した佐藤の指が美月の血色のいい唇をなぞる。この小さな口の中にさっきまで佐藤の分身が入っていた。
初めて美月と身体を重ねた12年前、彼女の身体は男を知らない処女だった。思春期特有の性への好奇心は持ち合わせていても女性的に成熟しているとは言えなかった。
風呂場で躊躇いなく佐藤の一部を口に含んだ美月は佐藤の知らない女性に映った。
佐藤が美月の口内で絶頂を迎えたのは今夜が初めてだ。どろっとした白濁の体液で乳房を汚す美月の姿には退廃的な美しさを感じた。
美月をここまで性的に成熟した女にしたのは彼女の夫、木村隼人だろう。
『正直こんなに悔しいとは思わなかった。俺が知らない間に男を喜ばせる方法を仕込まれたんだと思うと木村くんへの嫉妬が止まらない。嫉妬で気が狂いそうだ』
寄り添う彼女を抱き抱えて隣のベッドに移動した。柔らかなベッドに美月の身体が着地してその上に佐藤が跨がる。男と女の重みでベッドが軋んだ。
『男は馬鹿な生き物だよ。どんな綺麗事並べても結局は好きな女を自分の所有物にしたいと思ってる。美月の最初の男だって自負もある。馬鹿だろ?』
はだけたバスローブから露になった美月の胸の膨らみを佐藤の手のひらが覆った。きめ細かな柔らかい肌が手に吸い付いて離れない。
美月が佐藤の眼鏡を外す。主の側を離れた眼鏡はサイドテーブルの上に。眼鏡のレンズが照明の明かりをキラキラと反射していた。
「私だって佐藤さんを私だけのモノにしたいと思ってるよ。ずっと独り占めしていたい。あなたの最後の女になりたいの……」
数えきれないキスを重ねても、どれだけ触れ合っても、まだ相手を欲している。
ただ一度だけ会いたくて、何度も夢の中で会いたいと叫んだ恋焦がれた人。
あなたが欲しい。君が欲しい。側にいたい。
一緒に居たい。心が痛い。
「でも私は隼人を裏切れない。今だって裏切ってるのにこれ以上、隼人を傷付けたくない。子ども達のことも裏切れない」
『わかってる。だから俺達は越えちゃいけないんだ』
バスローブの紐がほどかれて、素肌を晒して抱き締め合った。
『愛してるよ』
「私も……愛してるよ」
未来のない誓いのキスは涙の味。
肌と肌のぬくもりを直に感じる。乳輪をなぞっていた佐藤の舌が美月の胸の突起を転がし、
佐藤の舌先はウエストラインから下腹部を這って、恥骨まで侵略する。またしてもじゅわりと漏れる蜜の感覚が美月を淫らにさせた。
むわっとした雌の匂いが濃く薫る部分に佐藤の顔が沈む。
二人の子どもがこの世に現れた場所が今は女の臭気を放って
バスルームで散々犯された後でも美月のソコはとろみを帯びて濡れていく。茂みの奥から現れた女の実を佐藤は上唇と下唇で挟んだ。
唾液と愛液が交ざる佐藤の口の中に赤く熟した実が含まれて、実を吸われた美月は
蜜が溢れるソコには本当は舌でも指でもない違うものが欲しい。佐藤自身が欲しい。入ってきて欲しい。ひとつになりたい。
けれどそれ以上の行為は望めず、あと一歩の越えられない境界線がもどかしくて、焦れったくて、だけどこれでいい。
プラトニックとオーガズムの狭間でぐらぐら、ぐらぐら、揺れている。
決定的な交わりがなければいいの?
これはプラトニックなの?
決定的な交わりをしなくても大事な人を傷付けていることに変わりはない。
こんな時でも浮かんでしまう隼人と子ども達の顔。どこまでも彼女は妻であり母親だった。
笑ってまた彼らのもとに戻れるだろうか。戻っていいのだろうか。戻れる資格があるのだろうか。
側にいたい人と今すぐ会いたい人は別の人。
あの人の側に居たいのに、あの人に会いに行きたくて
あの人を愛しているのに、あの人が恋しい。
こんなことを考えている彼女はずるい女?
ずるい女になりたがっている女?
何もかもいらないと放り出せたら楽になれる。だけど何もかも放り出せない。
大切なものしか人生にはないから、この手の中にあるものは全部手離せない。
もうすぐ午前零時の魔法が解ける。硝子の靴も綺麗なドレスもかぼちゃの馬車も幻想の海に流されて沈んでしまう。
夢も未来も永遠もない。あるのは愛だけの逃避行。
今は、今だけはまだ、このままで……。
テーブルに置かれたエメラルドグリーンの液体が入る香水瓶。
12年前と同じ、永遠と絶望のお揃いの香りが二人の身体を包んでいた。
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