6-8

 早河の拳が貴嶋の頬をかすめ、よろめいた貴嶋は段差に足をとられてゆるやかな階段を転がり落ちた。


「キング!」


砂浜に落下した貴嶋に駆け寄ろうとする美月の腕を佐藤が掴んで止める。


「佐藤さん、なんで……」

『あの二人の気が済むまで手出ししてはいけないよ』


佐藤に優しく諭された美月はそれでも不安げな視線を貴嶋と早河に送る。早河が階段を降りて砂浜に伏せる貴嶋の隣に立った。


『もう終わりか?』

『まだまだ……このままじゃ終わらないよ』


 咳き込みながら立ち上がった貴嶋は服や手についた砂と雪を払った。この海岸にも関東地方を直撃した寒波の名残があり、砂浜は白く雪化粧している。

早河の攻撃を避けた貴嶋が、渾身の一撃を早河に打ち込んだ。今度は早河が腹部を押さえて咳き込んで雪の砂浜に膝をついた。


 息を荒くした二人の男は粉砂糖がまぶされた砂浜に大の字に寝そべった。雪の冷たさが背中に伝わる。


『君には負けた。降参だ』


白い月が浮かぶ夜空を貴嶋は見上げた。こうしていると優しく気高い月に見守られている気がする。


『私のしたことは許されることではない。この手で多くの人間を殺した。父も母も、君の家族も、莉央も……』


 王の独白は言えなかった本音。血塗られたこの手は呪われている。体内を巡るこの血も呪われている。そもそもが生まれた瞬間から呪いを受けた人生だった。


『今なら莉央が私を裏切った理由がわかる。私はキングを辞めたかった。ずっと……この世に生まれた時に定められたカオスのキングの呪いから解放されたかったんだ。父親の呪縛からも』


凶悪犯罪者、辰巳たつみ佑吾ゆうごの遺伝子を引き継いで生を受けた男は犯罪組織カオスのキングとして生きることを宿命付けられた。

父親の呪い、世襲という血の呪いから彼は逃れようとした。


『四十路の男がずいぶん遅い反抗期だな。お前と辰巳たつみの盛大な親子喧嘩に巻き込まれた気分だ』

『まったくね。自分でも呆れるよ。今更キングの立場を捨てたくなるとは思わなかった。だが私の周りに集まる人間は私をキングとして求めている。私を“貴嶋佑聖”としては見てくれない。カオスのキングなんて神でもなんでもない肩書きだけを彼らは信じていたんだ』


 犯罪組織カオスのキング。その肩書きだけで近付いてくる人間は数多あまたといた。

彼らはキングの肩書きしか見ていない。

貴嶋がキングではなくなった時にそれでも側にいてくれる者がどれだけいる?

キングではない彼に、会いに来てくれる者がどれだけいる?

今ここに集まる者達がその答えだ。


 二人の男の側に美月が並んだ。彼女を見上げた貴嶋は上半身を起こして片手を差し出す。


『美月も巻き込んでしまったね。君はいつも真っ直ぐ私と向き合ってくれる子だった。美月の前では私はキングの立場から解放されていたんだ。でも辛い思いをさせてしまってごめんね』

「……ううん。いいの。私も早河さんと同じだよ」


貴嶋が差し出した片手を美月は握り締めた。彼女は貴嶋の傍らにしゃがみ、彼と目線を合わせる。


「あなたを救いたかったの。ひとりで死んでしまうんじゃないかって心配で……」

『さっきも言っていたね。美月の心配も的外れではない。莉央のいない世界に生きている意味はないと……莉央を失って初めて気付いたんだ。滑稽だろう?』


 進化を極めれば衰退するだけとアフタヌーンティーの最中に彼は言った。始まりがあればいずれは終わりがやって来る。

貴嶋は自らの終わりを悟っていた。犯罪組織カオスの終焉を。これが彼の最後の舞台だった。


瞳を潤ませる貴嶋を美月は抱き締める。その隣では早河と佐藤が世話の焼ける友人を見守っていた。

審判の時。罪人を裁くのは勇者と女神。罪人を許すのもまた、勇者と女神。


 美月と身体を離した貴嶋は照れ臭そうに涙が滲む目元を隠して呟いた。


『拳で勝負しろね。青春漫画の臭い台詞だなぁ。あー、クサイクサイ』

『しょうがねぇだろ。今の俺は探偵だ。持ってる武器はこの拳しかない。でも高校の時に殴り合いしてたら確実に俺の方が負けてたな』


早河の右手に巻かれた包帯には血が滲んでいる。貴嶋との殴り合いの衝撃で負傷していた手の甲の傷口が開いてしまったらしい。


『君との出会いは5月だったね』

『季節外れの変な転校生が来たなって思った。転校早々、お前が中間テストで学年トップなんかになるからヤベェ連中に目をつけられてさ』

『ああ、あの雑魚ね。いつだったかな。ハタチくらいの頃か。あの時の連中のひとりがヤクザの三次団体にいたんだ。速攻でその組は潰したよ』

『さらっと潰したとか言うな』


 花開く昔話は少々おっかない。美月も加わってしばらくは早河と貴嶋の高校時代の思い出話が披露された。


 上野警視と石川警視正が近付いて来た。石川に手錠をかけられる時も貴嶋は抵抗しなかった。

遊歩道に続く階段の途中で貴嶋が振り返った。彼の視線は砂浜にいる美月に注がれる。


『美月。最後にあの質問の答えを聞かせてくれるかな。君の赤い糸の相手は誰?』


出題された質問の答えを彼女は手に入れていた。赤い糸の赤色は血の色。命と命の強い結び付き。

 ――“君の赤い糸は誰に繋がっている?”――


「赤い糸の相手がひとりじゃないといけないなんて、誰が決めたの?」


微笑む美月に貴嶋も微笑み返す。


『うん、確かにその通りだ』

「これでいいのかな?」

『いいんだよ。君の答えが私は気に入った。美月らしく、悔いのないようにね』


 美月と貴嶋のみが意味を知るやりとり。周囲の者達の困惑をよそに、二人は視線で最後の別れを交わした。


 クライマックスの第一部の幕は閉じ、第二部の幕が上がる。パトカーのサイレンの音が閉幕と開幕の合図。

たった今、早河の腕時計が午後8時を示した。

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