5-8

 赤坂ロイヤルホテル三十四階。展望ラウンジのカウンターでは昨夜と同じ席で佐藤瞬とスパイダーが背中を並べていた。


『スコーピオンが配置についたようだ』


スパイダーのノートパソコンにはスコーピオンのGPS情報が表示されている。彼のパソコンには他のメンバーのGPS情報も逐一届く。


『ファントムも目的地に到着する。ここから四谷は近いからね』

『そうか』


 懐に忍ばせた拳銃の存在を確かめて佐藤が席を立つ。佐藤の素顔を覆う三浦英司のマスクも今では見慣れたものだ。


『一応聞くけど君はどちら側?』

『何の事だ?』


煙草の吸殻を佐藤はテーブルの灰皿ではなく自身の持つ携帯灰皿に捨てた。

スパイダーはガラス張りの窓の向こうに視線をやる。冬晴れの下に沈殿する灰色の建造物は今日も変わらず無表情だ。


『パンドラの箱。僕が何も知らないとでも思ってる?』


席を離れかけた佐藤はひっそり笑った。彼はスパイダーに背を向けたまま答える。


『いや? 想定内だ』

『そう。……JSホールディングス爆破の件で気になることがあったから成田空港の入国記録を調べてみた。12月7日の記録に見知った名前を見つけたよ』

『それが?』

『これも想定内?』


 数秒間の沈黙の後に佐藤は胸ポケットから取り出したカードをスパイダーの前に置いた。


『頼む』


カードを一瞥したスパイダーは溜息をついてカードを手にする。佐藤の眼鏡の奥の双眸に彼の意図が読み取れた。


『早く行きなよ。早河探偵と刑事がこっちに向かってる』


 広い背中がラウンジを出るのを見届けたスパイダーは手元のカードを指で弾いた。佐藤から受け取ったカードはホテルのカードキー。ナンバーは3003。


『頼むって言われてもねぇ。自分で迎えに行けばいいのに』


キーを二度押すとノートパソコンの画面が切り替わった。ホテルに設置された監視カメラの映像が流れ、ロビーを横切る早河仁と小山真紀の姿が映し出される。

すべてスパイダーの思惑通りだった。


         *


 赤坂ロイヤルホテルに到着した早河と真紀はロビーを横切ってエレベーターホールに向かった。スパイダーのパソコンの発信地はこのホテルの三十四階展望ラウンジ。


『他のカオスの人間もいるかもしれない。ここには一般客も多くいる。人質を取られたら終わりだ』

「逮捕の時は慎重に……」

『だが迅速に』

「香道先輩の口癖でしたよね」


三十四階でエレベーターを降りた二人はスーツを着た長身の男とすれ違った。


「どうしました?」

『今の男……』


 男はこちらを振り向かずに下りのエレベーターの中に消えた。すれ違い様に一瞬しか見えなかったが早河の知らない顔だ。

長身に眼鏡、年齢は三十代から四十代、サラリーマンにしてはスーツの仕立てがいい。企業の重役並みの身なりだ。


瞬時に人を観察する癖は刑事時代から抜けない。あの男は宿泊客か、ラウンジで打ち合わせを終えたどこかの社長か、それにしては手荷物を所持していなかった。

もしも今、早河に警察の身分があったのなら追いかけて職務質問していたかもしれない。


『怪しい人間って言うのは一見怪しくなさそうな人間のことでもある』

「気になるなら追いましょうか? まだホテルを出ていないでしょうし」

『今はスパイダー逮捕が先決だ。行こう』


 ラウンジの入り口にはコーヒーの香りが立ち込めている。

ウェイターにラウンジの責任者を呼んでもらうと、ウェイターの上位職であるキャプテンの役職の男が応対に出た。真紀の掲げる警察手帳を見たキャプテンは困惑げにラウンジを見渡した。


『パソコンをお使いのお客様は大勢いらっしゃいますが……』

「この場にいることは確かです。こちらでひとりひとり確認していきますので、念のためガードマンを待機させてください」


真紀はキャプテンに指示を出した後、先にラウンジを徘徊していた早河と合流する。


『コーヒー飲みながらみんなパソコン見てカタカタやってるぞ』


 早河やキャプテンの言う通り、ラウンジに集まるかなりの人間が席でノートパソコンを開いていた。優雅にお喋りを楽しむ者達もいるが、カフェではなく高級ホテルのラウンジにも関わらず誰もが無言でパソコンに向き合っている光景はある種の異様さがある。


早河は携帯電話の画像データを表示した。画面にはスパイダーと思われる男の大学時代の写真が現れる。この男と同じ大学に通っていた女性から入手した写真だ。


『スパイダー、本名は山内やまうち慎也しんや。今の年齢は29歳』

「この写真から9年は経っていますけど、整形でもしない限り大幅な顔の変化はないでしょうね。今は眼鏡をかけているかはわかりませんが……」


二人は女性と老人、パソコンを所有していない人間は省いて30歳前後のパソコンを開いている男を限定して捜した。


『あいつじゃないか? 眼鏡をかけてる、パソコンもある、年齢も30前後に見える』


 早河が窓際のカウンター席の男を指差した。真紀はカウンターの隅にいる男に焦点を合わせる。

眼鏡をかけた横顔に大学時代の面影が残っていた。


「山内慎也さんですね?」


男の側に寄って声をかける。彼はキーに触れていた手を止めて真紀を見上げた。警察手帳を見ても彼は怯まない。


『やっと来た。待っていましたよ、小山刑事。それと早河探偵』

「あなたがスパイダー?」

『そうです。僕がスパイダーです。初めまして』


 ラウンジには窓から明るい日差しがたっぷりと差し込んで暖房と相まって暑いくらいだ。カオスの幹部とようやく対面した。

緊張と逮捕をはやる気持ちから、真紀の額は汗ばんでいる。彼女は警察手帳を懐に戻した。


「カオスのスパイダーであると認めるのね?」

『認めますよ。逃げも隠れもしません。逮捕するならお好きにどうぞ。でもその前にこれを渡しておかないとね』


 スパイダーはカードをテーブルに置いた。赤坂ロイヤルホテルのロゴが入るカードキーだ。

真紀はスパイダーの動きに注意を払いつつ、カードキーを手にした。表面に3003と印字されている。


「部屋のカードキー?」

『その部屋に浅丘美月がいます。3003号室』

『やはり貴嶋に連れ去られていたのか』

『彼女はずっと部屋に軟禁状態でね。さすがに可哀想になってきたので、そろそろ逃がしてあげてもいいかなと思って』


真紀の隣の早河を一瞥してスパイダーは口元を上げた。

この男は早河と真紀がここに来るのをあらかじめわかっていた。だから刑事が現れても落ち着き払っていられるのだ。


真紀はカードキーも懐に入れ、代わりに手錠を取り出した。


「両手を出しなさい」

『はいはい』


 素直に両手を差し出したスパイダーは手錠をかけられても平然としている。こちらが拍子抜けするほど、やけにあっさりした逮捕だった。


「早河さん、この男をお願いします。私は美月ちゃんを……」

『ああ。早く保護しに行け』


早河にスパイダーの監視を任せた真紀は足早にラウンジを出ていった。

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