5-7

 冬の木漏れ日が揺れている。どこまでも高く青い空を木々に潜んでいた鳥の群れが羽ばたいていく様子が廊下の窓から見えた。


 矢野一輝は頭に包帯を巻いて車椅子に乗っている。彼の車椅子を小山真紀が押していた。彼女は日の降り注ぐ渡り廊下の隅に矢野を乗せた車椅子を寄せて立ち止まる。


矢野の意識が戻ったと連絡が入ったのは午前3時頃。殺人事件の取り調べを終えて彼女が病院に駆け付けた時、矢野はいつも通りの飄々とした顔で真紀を出迎えた。


「一輝が石頭で良かったよね。普通の人なら命も危なかったって先生が言ってた」

『ね。丈夫に産んでくれた母さんに感謝しないと』

「そうだよ。今度、お父さんとお母さんのお墓参りに行った時にお礼言うんだよ」


 身を屈めて真紀は矢野と目線を合わせる。頭に巻いた包帯と林田に殴られた顔の傷が痛々しいが本人は元気そうで安堵した。


『真紀との結婚報告の時にちゃんと父さんと母さんに礼言うよ』

「改めて結婚って言われると照れるね」


赤くなる頬を押さえて狼狽える真紀を見て矢野が面白がっている。


『照れてる真紀ちゃん、世界で一番かーわいいー』

「バカ! からかうなっ! 今さら真紀ちゃんって呼ぶなっ!」

『前は呼び捨てて呼ぶとあんなに怒ってたのにぃー。でも本当に本気で真紀が世界一可愛い』


矢野が真紀の腕を引いて抱き締める。温かな触れ合いは生きている証。真紀は彼が生きていることを何度も確かめるように、彼の胸元に頬を寄せた。ドクン、ドクンと聞こえる矢野の命の鼓動。


『世界一可愛い好きな女を残して死ねるかよ。まだ真紀に俺の子孫残してないし。退院したら子作りに励まなければ』

「アホ。変態!」


 矢野の胸元から顔を上げた真紀が彼の頬を軽くつねる。苦笑いする矢野の背後に彼の伯父の武田財務大臣と早河の姿が見えた。二人並んでこちらに歩いてくる。


『一輝、真紀さんとそれだけいちゃつけるなら今から仕事できるだろう?』

『幸いなことに両手は自由に動くからねー。点滴はちょっと邪魔だけど』


 意地悪くニヤリと微笑む伯父に向けて矢野は両手をグーパーして見せる。矢野の握りこぶしに早河が自分の拳をつけた。


『ゆっくり休めって言ってやりたいがそうもいかない。悪いな』

『なんのこれしき。スーパーハードな展開にゾクゾクするね』


早河の拳が開かれて握っていた紙切れを矢野に渡す。紙切れに目を通した矢野は悠長に口笛を吹いた。

紙切れにはある政治家の名前とその政治家の個人用携帯電話のメールアドレスが記載されていた。


 武田は先に病院を去り、矢野と早河、真紀は病室に戻った。

病室のテレビでは日米首脳会談に関するニュースが流れている。早河はベッドの傍らの椅子に座ってテレビを眺めた。


来日中のアメリカの新大統領との初の日米首脳会談が今日、首相官邸で行われる。首脳会談の後は大統領を交えた食事会が予定されていた。


『思えば、2年前の門倉かどくら元総監と寺町てらまち法務大臣の殺害から事は始まっていたんだな』

『門倉の後釜は笹本に、寺町大臣の後は岩波大臣に、駒のすげ替えってわけだ』


 ベッドテーブルに載る愛用のノートパソコンのキーの上を矢野の指が忙しなく動く。パソコン画面には数字と文字の羅列が並び、矢野の手によって画面が次々と切り替わる。


 武田の計らいで矢野の病室は個室の特別室。広い部屋にはソファーがあり、真紀がそこで眠っていた。昨夜から別件の事件の捜査を行っていた彼女はほとんど寝ていない。

意識を取り戻した矢野の側に寝る暇も惜しんで駆け付けた真紀を今は少しでも寝かしてやりたいと矢野と早河は思っていた。


『……なんだろうな』


独り言を呟いた矢野は指の動きを止めて神妙に画面を見つめる。


『どうした?』

『今回のJSホールディングスのハッキングパターンが何か変な感じがして』


 9日に発生したJSホールディングス経営戦略部のデータがハッキングされた事件で、矢野はハッキングの解析を行っている。


『ハッキングの犯人はスパイダーでしょ? 俺はあいつがハッキングした後のデータ解析を何度もしています。いつもスパイダーは完璧だった。どこにも足跡や抜けを作らない、スパイダーの形跡はどこにもない。いつもそうだった』

『今回は違うのか?』

『んー……俺のところに回ってきたデータは科捜研が解析した後だからこその綻びはありますけど……』


再び指を動かして矢野が最後の処理のキーを押した。


『いくつかトラップもあったし、科捜研はこれ以上は先に行けないと判断したんだと思います。でもトラップを潜り抜ければその綻びから先に行けた。そして……奴に辿り着いた。JSホールディングスをハッキングしたPC発信地はここ』


画面に東京都内の地図が表示され、都内のある場所に赤ピンのマークが出ている。その場所の名前を早河が読み上げた。


『赤坂ロイヤルホテル?』

『9日にスパイダーはこのホテルに居た。奴は今もここに居ます』


 二人は顔を見合わせる。早河は携帯を取り出し、ベッドを降りた矢野は点滴台を押してソファーまで歩いて、眠る真紀に声をかけた。


「真紀、起きろ。仕事だよ」


矢野に身体を揺さぶられた真紀は目を開けた。まだ眠気の余韻の残る目元をこすって彼女は身体を起こす。


『身体大丈夫?』

「うん。少し眠れたから……何かわかったの?」


早河が険しい顔で誰かと電話をしている。矢野は真紀にコートを渡した。


『スパイダーの居場所がわかったよ』


 瞬時に真紀の顔が刑事の顔つきに切り替わった。彼女は寝起きの頭を振ってコートを羽織る。早河もちょうど電話を終えた。


『小山。栗山さんと上野警部は別件ですぐには動けない。スパイダー確保はお前に一任すると阿部警視からの伝言だ』

「はい」


公安部の栗山も上野警部も今日は別の重要な仕事がある。現時点で自由に動ける警察関係者は真紀だけだ。


『気を付けろよ』

「わかってる。いってきます」


 真紀と早河は足早に病室を出ていった。病室に残った矢野は一息ついてベッドに戻り、意味深な表示を続けるパソコン画面を睨んだ。

画面上に表示された地図の四角い図形は赤坂ロイヤルホテルを表している。


『トラップをクリアすればここに辿り着く。わざとなのか、おびき寄せているのか……』

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