2-11

 隼人が芝公園に避難する少し前、午前10時50分過ぎ。渋谷駅で電車を降りた浅丘美月は明鏡大学に通じる青山通りを歩いていた。

今日の講義は午後からだ。早めに行って学食で時間を潰していよう。


 紅葉を終えて葉が落ちた街路樹のケヤキ並木は夜になるとイルミネーションが灯る。

25日のクリスマス当日には人気ロックバンドUN-SWAYEDの初の武道館ライブに行く予定があり、今からとても楽しみだった。


(今日パトカー多くない? 何かあったのかな?)


 渋谷駅を出てからの数分間で何台ものパトカーとすれ違った。怪訝に思いつつ通りを進み、宮益坂みやますざか上交差点を過ぎた辺りで美月は足を止める。

三浦英司が歩道に立っていた。


「三浦先生……」

『おはよう』

「……おはようございます。どうして先生がここにいるんですか? 先生の授業はもう終わりましたけど……」


三浦英司は月曜日の講義を担当している非常勤講師だ。彼が担当していたギリシャ神話と人間心理学の講義は一昨日にすべての授業内容が終了している。

水曜日のこの時間に明鏡大学に用がないはずの三浦がなぜ大学近辺にいる?


『今日は学校には行かない方がいい』

「行かない方がいいってどういうことですか?」


低音で囁かれた三浦の言葉に美月は眉をひそめた。


『行ったとしても授業どころではなくなる』

「あのっ! いきなりなんなんですか。意味がわかりません! 仮にも先生ならもっと順序立てて分かりやすく説明してください」

『減らず口が上手くなったものだな』


こちらを睨み付ける美月を見て三浦は苦笑する。距離を詰めてくる彼に対して美月は後退した。


 細いフレームの眼鏡から覗く瞳を見るのが怖い。“あの人”と同じ瞳を直視できない。

三浦英司はあの人ではないのに。では誰? この男は……誰?


「あなた……何者なの?」


美月の問いかけに三浦の動きが止まる。彼は美月をしばらく見据えた後に背後を振り返った。


『迎えが来た。一緒に来てもらおう』


 黒塗りの乗用車が美月と三浦の側に停車した。後部座席のスモークガラスの窓がゆっくり開く。開かれた窓から見えた顔に美月は息を呑んだ。


『やぁ美月。ご機嫌いかがかな?』

「……キング」


スモークガラスの先に現れた犯罪組織カオスのキング、貴嶋佑聖が美月に向けて微笑んでいる。

美月は貴嶋を見て、それから三浦を見た。彼女の瞳に戸惑いと怒りが宿る。


「三浦先生はカオスの人間なの? 最初から……このつもりで?」

『美月。は私の命令に従っていただけだ。言いたいことがあるのなら私が代わりに聞くよ』


後部座席の扉を三浦が開ける。長い脚を伸ばして歩道に降り立った貴嶋は美月の目の前に立った。


『食事でもしながらゆっくり話をしよう』

「あなたと話すことなんかないっ!」

『ほう。では、これを押してもいいのかな?』


 貴嶋は小さなリモコンを持っている。美月にも見えるようにリモコンを掲げた彼は透明なプラスチックの蓋に覆われた赤いボタンを指差した。


「何それ……」

『何だと思う?』


彼は美月をからかって面白がっていた。挑発的な態度にムッとした美月は彼の手元にあるリモコンを凝視する。


「何かのスイッチ?」

『ミステリーが好きな美月ならすぐにわかるものだよ。刑事ドラマを私は見たことはないが、そういうものにもよく出てくるのかな?』

「……ばく……だん……?」

『お見事。これは爆弾の起爆装置。私がこれを押せばある場所に仕掛けた爆弾が爆発する』


 美月は言葉を失った。爆弾の起爆装置なんて非現実的だ。嘘を言ってからかわれているのかもしれないと思った。

でも相手は貴嶋佑聖だ。この男は犯罪組織の帝王、彼の存在によって非現実的なものが現実的なものに変わってしまう。


「どこに仕掛けたのっ?」

『推理してごらん。三浦先生がヒントをくれただろう?』


貴嶋は隣に控える三浦を手のひらで示す。無表情な三浦は何を考えているのかまったく読めないが、先ほどの三浦とのやりとりにハッとした。


「大学に?」


絞り出した彼女の声は震えている。貴嶋は満足げに頷いた。


『爆発の規模は……そうだなぁ、死傷者は出ないまでも多少の負傷者は出るかもしれない』

「やだ……やめて!」


 無謀にも貴嶋の腕にしがみついた美月の肩を三浦が掴んで後ろに引く。よろめいた美月を三浦が支えた。触れられた部分から伝わる三浦の熱に心がおかしくなりそうだ。


『美月の友人の石川比奈……今は6号館の構内で自主勉強をしているようだ。彼女は将来は航空会社の就職を希望しているんだろう? 勉強熱心な子だね』

「比奈……? ねぇ! 比奈に何かしないで! お願い!」


美月の瞳に涙が滲む。貴嶋はそっと美月の髪に触れた。


『1分だけ時間をあげよう。お友達に連絡しなさい』


 貴嶋の言葉をどこまで信用すればいいかわからない。それでも美月はバッグから出した携帯電話を比奈の番号に繋げた。

通話が繋がるまでの間、コール音の代わりに比奈がメロディコールにしている男性歌手の歌が流れた。


(早く……比奈! 早く出て!)


携帯を握る手に力がこもる。前には貴嶋、後ろには三浦がいて二人の視線を痛いほど感じた。


{もしもーし}


 メロディコールが途切れて比奈の声が聞こえた。


「比奈っ! 今6号館にいる?」

{うん、そうだよ。どうしたの?}

「すぐにそこから逃げて! 学校に爆弾が仕掛けられているの!」

{……爆弾? ほんと?}


上ずった比奈の声の後ろで大きな破裂音と悲鳴が聞こえた。一時的に電波の調子が悪くなり、比奈の声も聞こえなくなる。


「比奈? どうしたの? 比奈……あっ!」


美月の手元から携帯を取り上げた貴嶋が通話を切った。


『時間切れ。1分過ぎてしまったよ』


 貴嶋はそのまま電源ボタンを長押しして美月の携帯電話の電源をオフにした。彼はショッキングピンク色の携帯についている大きなファーストラップを弄ぶ。


「大学の方向から大きな音が聞こえた。ねぇ……! 爆弾が爆発したの?」

『私がこれを押さなくても11時ジャストに爆発する設定になっていたからね。石川比奈のことは心配いらない。今の爆発は彼女がいる場所ではないよ』

「そういう問題じゃない。学校には沢山の人がいるの! 比奈が怪我しなくても他の人達が……」


ファーのストラップが美月の前で揺れた。取り上げられた携帯に彼女が手を伸ばそうとすると貴嶋は携帯を高く持ち上げてそれを制す。


「携帯返して!」

『ダーメ。携帯は私が預かっておくよ。さて、美月。友人の他にも多くの人間が集う大学をこれ以上危険に晒したくないだろ?』


貴嶋は美月の携帯電話を三浦に手渡した。三浦は渡された携帯を当然のようにジャケットのポケットにしまう。


『大学にはどれほどの人がいるかな? 学生だけでなく教師も含めるとかなりの人数になる。美月の選択次第では今よりも規模の大きい爆発によって多くの人間が被害に遭う。キャンパスにいる人間、全員が人質だよ』


 キャンパスにいる全員が人質……

比奈の他にも多くの友人、同級生、先輩、後輩、教師、事務員や警備員……美月が知っている人間も知らない人間も、明鏡大学に集まるすべての者達が貴嶋によって命の手綱を握られている。


『すべては美月の選択にかかっている。君の答え次第ではこのボタンを押すことになるよ。私と一緒にこの車に乗るか、大学が爆発する瞬間を指を咥えて見ているか。どうする?』


パトカーと救急車がサイレンを鳴らして青山通りを通過した。

もはや選択の余地はない。この男の恐ろしさと非情さをまざまざと感じて寒気がした。


「何のためにこんなことするの?」

『そのことについてもゆっくり話そう。一緒に来てくれるね?』


yesしか用意されていない尋問だ。逆らえば貴嶋はリモコンのボタンを押す。その後に待つ惨事を想像して美月は目を伏せた。


「……わかった。一緒に行けばいいのね?」

『賢い選択だ。乗りなさい』


 抵抗を諦めて美月は後部座席に乗り込んだ。座席のシートは固めの座り心地で座るとバネのような弾みがある。

ハンドルが左側にある運転席には見知らぬ男がいた。


中央に美月が座り、彼女の左隣には貴嶋が、右側の扉が開いて右隣に三浦が座った。両側を貴嶋と三浦に挟まれて居心地はすこぶる悪い。


「三浦先生も一緒なの?」

『彼は私の側近だからね』


三浦の代わりに貴嶋が答えた。三浦は相変わらずの仏頂面に終始無言だ。

携帯もバッグも奪われた美月は膝の上で両手を握りしめて身を竦めた。


爆破された大学のこと、比奈の安否、貴嶋が側近と称した三浦英司の素性、貴嶋の目的、これから何が待っている?


 底知れない恐怖に怯える美月を眺めて貴嶋は含み笑いをしていた。


この街は巨大なドールハウス。君達はドールハウスの中のお人形さんだ。

すべてが彼の思うがまま。彼の操る糸の先で右往左往と足掻くがいい。


巨大なドールハウスと化した12月の東京は暗く混沌とした闇に包まれていた。



第二章 END

→第三章 Bisque doll に続く

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