2-10
食品事業を展開するJSホールディングスは東京都港区に本社を構えている。十三階建ての本社ビルの七階が経営戦略部のフロアだ。
経営戦略部所属の木村隼人はパソコンと向き合っていた顔を上げて軽く肩を回した。
『なぁなぁ、汐留の辺りが大騒ぎらしいぞ』
隣のデスクの中田が話しかけてきた。中田のパソコンはニュース画面になっていて彼の視線はニュースの動画に釘付けになっている。
『汐留? 何かあったのか?』
『元女優の沢木乃愛が脱獄して人質とって、汐留シティセンターで撮影してた本庄玲夏と一ノ瀬蓮を殺そうとしたって。そこからいきなり本庄玲夏と一ノ瀬蓮が抱き合って熱愛発覚かっ!? ってなってる。うわぁ……なんか今日は色々とヤバいな。この半日だけで三鷹で元議員の射殺があったり、渋谷の女子校でも脱獄犯が刃物振り回して暴れて怪我人多数……だってさ』
隼人は身体を傾けて中田のパソコン画面を覗き見た。
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三鷹市の三鷹市民センターにて元衆議院議員の竹本邦夫氏が射殺
東京拘置所と府中刑務所から受刑者二名が脱獄
俳優の一ノ瀬蓮、本庄玲夏に命懸けの告白!
汐留シティセンター前で繰り広げられた沢木乃愛の悲恋
白昼の女子校に切り裂き魔出現
私立聖蘭学園の惨劇、脱獄犯は再逮捕
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大袈裟なのか言い得て妙なのか不明な見出しが速報のニュース欄を埋めていた。
『聖蘭学園?』
『どうした?』
『いや……この聖蘭学園って知り合いが通ってた学校だから』
言葉を濁して隼人は席を立つ。給湯室のコーヒーサーバーでコーヒーを淹れた。このコーヒーは自社で販売している製品だ。
コーヒーの入るカップを持って給湯室のスツールに腰掛けた彼は先ほど目にしたニュースについて考え込む。
ニュースの見出しで気になるものが二つあった。三鷹の元衆議院議員の射殺と脱獄犯が現れた聖蘭学園のニュース。
(三鷹で射殺された竹本邦夫ってあの竹本の父親だよな?)
大学の後輩で3年前に佐藤瞬に殺された竹本晴也の顔がおぼろ気に浮かぶ。あの事件の後に息子の過去の悪行が明るみとなり、悪行の隠蔽を指示した父親は議員を辞職した。
竹本邦夫の秘書もあの事件後に自殺したと当時のニュースで話題になっていた。
(聖蘭学園は麻衣子が通ってた学校だ。それと香道さんと、寺沢莉央も……。3年前に殺された竹本の父親の射殺、寺沢莉央の母校……この気持ちの悪い感覚はなんだ?)
半年前の夕暮れの光景が甦る。暑い夏の始まりを予感させる夕陽を背にして去る彼女の後ろ姿と茜色の光を受けたラムネ味の青色の飴。
給湯室にある12月のカレンダーには28日の月曜日の欄に仕事納めの文字が赤ペンで記されていた。誰かが書き込んだものだろう。
もうすぐ今年が終わる。
歳を重ねるにつれて、時間の速度が速くなっていく。子供の頃は1ヶ月を長く感じたのに、大人になると1ヶ月が過ぎるのは一瞬だ。
(あれから半年か)
恋人の浅丘美月と共に巻き込まれた明鏡大学准教授殺人事件とそれに伴って隼人の身に起きた出来事から半年が経つ。半年前に負傷した腹部の傷はすっかり完治しているが、傷痕は残っていた。
寺沢莉央にもあの夕暮れの別れ以来、会ってはいない。彼女とは二度と会うことはないのかもしれない。
給湯室を出ると何やらフロアが騒々しかった。
『とにかくデータを一時保存しろ! 全員だ! 今すぐ作業途中のものも含めてバックアップしろ!』
部長の怒声がフロア中に響き渡る。何が起きたのか近くにいた同僚に事情を尋ねると、一部の社員のパソコンにバグが発生してデータが消えてしまったようだ。
隼人も慌てて自分のデスクに戻り、パソコンに触れる。異変はすぐに現れた。
操作をした覚えもないのにパソコン内のデータが意味不明な数字と英語の羅列に書き換えられていく。どのキーを押してもその現象は止まらず、最後はerrorの文字が現れた。
『これハッキングですよ! ハッキングされてます!』
「エラーになってバックアップとれません!」
困惑と悲鳴の声が四方八方から聞こえた。突如発生した非常事態に隼人も動揺している。
ハッキングで思い出すのはまたしても半年前の明鏡大学の殺人事件。
あの殺人事件の被害者だった准教授の携帯電話のデータがハッキングによって
青木は犯罪組織カオスに所属していた。
(これもカオスの仕業じゃねぇよな?)
騒然となるフロアでは部長や次長が内線で重役と話をしている。他の社員達は呆然として動きを止めていた。
『うちの会社がハッキングされたって、やっぱり今日は厄日? 東京中でこんな立て続けに事件が起きるって異常だろ』
中田の独り言に隼人も同感だった。受刑者の脱獄、元議員の射殺、大手企業を狙ったハッキング……今日の昼前だけで東京で事件が多発している。
いくら常に事件が起きている大都会でもこの事態は異常に思えた。
そこから数分後に何かが爆発した破裂音が轟いて人々の混乱をさらに煽る。
『今の音なんだ?』
「なんか焦げ臭くない?」
『火事かっ?』
天井に設置されたスピーカーから社内放送が流れた。
{緊急事態が発生しました。六階備品庫及び、十二階会議室から煙が上がっています。全社員は
「煙っ?」
『やっぱり火事だ!』
「六階の備品庫って真下じゃない!」
経営戦略部のフロアはハッキング騒ぎどころではなくなっていた。緊急避難の訓練は受けていても切羽詰まった者達が我先にと廊下を走っていく。
外部からのハッキングによって使い物にならなくなったパソコンが並ぶ経営戦略部の室内もあっという間に人の気配が消え失せた。
避難の列の最後尾に並んでいた隼人はふと足を止めて無人のフロアを振り返る。
何かが起きている。得体の知れないものが蠢いている予感。同じ種類の胸騒ぎを3年前の事件の前にも感じたことがある。
静岡に到着したバスを降りた瞬間に感じた胸騒ぎと今の感覚はよく似ていた。
『木村っ! 何してるんだ、早く逃げるぞ』
『……はい!』
上司に促された隼人は後ろ髪を引かれながら非常階段を降り、隣接する芝公園に向かった。消防車のサイレンの音が近付いて来る。
避難場所となった芝公園の野球場にはJSホールディングスの社員で埋め尽くされていた。何事かと騒ぎを見物する野次馬もいる。
「火事じゃなくて爆弾の爆発だって総務の人が言ってた」
「爆弾が仕掛けられていたの?」
『どうしてそんなものがうちに?』
辺りでは爆弾と爆発と言う物騒な単語が飛び交っている。
「……えっ! ねぇねぇ、爆発したのうちだけじゃないよ。大学も爆発したってニュースでやってる!」
隼人の近くにいた女性社員が携帯電話の画面を見て声を上げた。皆が一斉に自分の携帯を取り出してインターネットのニュースに接続する。
隼人も自分の携帯をネットニュースに接続した。女性社員の言う通り、画面上部に速報で大学の爆破騒ぎが報じられていた。
記事に書かれた大学名に隼人は愕然とする。
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速報! 今日午前11時頃東京都渋谷区の明鏡大学構内で爆破事件、怪我人の詳細は不明
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(嘘だろ……明鏡大って美月の……)
隼人はニュース画面を閉じて着信履歴から美月の携帯番号を呼び出した。当然呼び出し音が鳴るものだと思っていた隼人の耳に聞こえてきたのは機械的なアナウンス。
{……電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない為……}
何度かけ直しても美月の携帯のコール音は響かなかった。
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