ラベンダー畑で約束を

齊藤 紅人

 時間を止めてしまう光景、というものがある。

 青年にとってそのラベンダー畑はまさしくそういうものだった。

 黄昏たそがれ色の空の下、薄紫の花の絨毯が風に揺れ、蠱惑的な花の香りが辺りを包む。

 織りなす色の揺蕩たゆたいは、美しいという言葉では表しきれない程の鮮やかさを醸しており、魔法の時間マジックアワーと呼ぶに相応しい優しい煌めきを持ち合わせていた。

 その中に一人佇む少女の姿があった。

 印象的な白のワンピースは、ラベンダーの紫にも黄昏の淡い橙にも決して染まること無く、切り抜かれたかのようにくっきりと白く、まるで輝きを放つかのように青年の瞼に焼き付いている。

 目深に被った麦わら帽子は、少女の存在をよりミステリアスなものにしていた。

 不意に風向きが変わり、麦わら帽子が舞い上がった。

 ふわりと風に乗り飛んできたそれを青年が両手で受け止める。

 帽子の行方を追う少女の視線が、青年と交錯する。

 少女と目が合った瞬間、青年は心を射貫かれていた。

 風を孕んで舞う黒く艶やかな髪。印象的なアーモンド型の大きな目。蒼い瞳は吸い込まれそうなほどに澄んでいる。ぽってりとした厚めの唇が紅く潤み、その美しさはまるで精巧な人形のようでさえあった。

 不思議そうに青年を見つめる少女の表情が、微笑みに変わる。

 美しい光景と少女の微笑みに青年はあっさりと目を奪われ、ここにやって来た目的を容易く喪失した。


       * * *


 ベッドが揺れた。

 まだまどろみの中にいる青年を、その揺れが現実へと連れ戻す。

 唇に柔らかい感触。

 それは少女の小さな唇によるものだった。

「……もう朝よ。起きて」

 朝の接吻モーニングキスのあと、少女は青年の眠るベッドから降りて、寝室のカーテンを開いた。朝日の暖かさが皮膚を撫でる。まだ眠いのか、青年は閉じたままの瞼を手の甲で擦った。

「早く遊びに行きましょう」

 嬉しそうにはしゃぐ少女の声を聞きながら、青年はチェアーにかけておいた服をたぐり寄せ、いそいそと着替え始めた。

 シャツのボタンを留め、ズボンを引き上げる。

「今日もとっても良い天気よ。私、行きたいところがあるの」

 急かすようにそう言って、少女の小さな手が青年を引っ張る。 

 青年はバランスを崩して前のめりに突っ伏し、反対の手を床につく。

「早く早く」

「ちょっと待ってよ。そんなに引っ張ったら転んじゃうよ」

 少女は青年の訴えに構うこと無く、ようやく立ち上がった青年を再び引っ張る。 

「早く、早く遊ぼ」

 青年は少女に追い立てられるようにして洋館の外へと連れ出された。


       * * *


 絶対に行ってはいけないと言われている村はずれの洋館で、三日目の朝を迎えた。

 僕は今、可憐な少女と一つ屋根の下で暮らしている。

 朝は彼女のキスで目覚め、彼女とともに一日中遊んで過ごす。

 彼女を喜ばせることが今の僕のすべてだ。


       * * *


「ほら見て、白いお花が眩しいぐらいにたくさん」

「はは、そうだね」

 洋館の近くにあるシロツメクサの群生地に二人はいた。

 噎せ返るような草木の蒼い香りに青年が少し咳き込む。 

 少女は花を一つ摘み、青年に手渡す。

「これで花冠を編んで欲しいの」

 青年は感触を確かめるようにシロツメクサの花弁を撫でながら、もちろんだよと返事をした。

 少女が摘んできた白い花を、青年がひとつひとつ丁寧に編んでゆく。子供の頃に編んで以来だったが、指先が編み方を覚えていてくれた。おかげで何とか形になりそうだった。

「あーもう、ここほつれちゃってるじゃない!」

「え? どこ?」

「ここと、ここよ」

 さすがにブランクを埋めるのは難しかったようで、いくつか綻びがあったものの、少女と協力して一点の花冠を仕上げることができた。

「私の頭に乗せて」

 少女の言葉を受け、青年は彼女の髪を撫でながら少女に花冠を授ける。

 少女は嬉しそうに微笑みながら、青年に尋ねる。

「似合ってる?」

「うん、とてもよく似合っているよ」

 ありがとう。少女はそう言って青年の頬にキスの雨を降らせた。


 シロツメクサの冠でひとしきりお姫様を演じ終えると、少女は青年に「お馬さんになって」と言った。

 青年は服が汚れるのも気にせずすぐに四つん這いになり、ひひんと鳴いてみせる。

「あは、お馬さんだあ」

 少女はワンピースの裾をつまむようにして青年の背中に跨がる。

「はいよー! はいよー!」

 少女の右手が青年のお尻をぺしぺしと叩く。

 青年が一歩踏み出すたびに少女はきゃはきゃはと笑う。

 少女の喜ぶ姿に、青年を表情を緩めた。


          * * *


 あの館には魔物がいる。決して近づいてはいけないよ。

 父も母も、村の人達みんなもそう言っていた。

 僕はその言いつけを破り、自分の度胸を試すために洋館へとやって来たのだが、結局のところ、その目論見を遂行することはできなかった。

 何故なら、この館にいたのは、可憐な少女ただ一人だったのだから。


          * * *


 鼻孔を擽るその甘い香りに、青年は心当たりがあった。

 ツバキモモだ。

 村にもツバキモモの木が何本かあって、子供の頃からよく登っておやつ代わりに囓っていた。

「綺麗な色。ルビーみたいね」

 少女は手にしたツバキモモの実を撫でながら言った。

「そうだね。ツバキモモは僕の村にもあるよ」

 少女がその実を青年に手渡す。

 青年はつるりとした質感の皮を服の袖で擦ってから齧りついた。

 果実の汁気が青年の喉を潤す。

 その甘みと酸味が青年には懐かく思えた。

 ツバキモモは青年の幼少期の記憶そのままの味だった。紫にピンクを混ぜたようなここのラベンダー畑は、青みがかった村のものと印象がずいぶんと違うのだけれど。

「ねえ? 美味しい?」

 少女の問いに、青年が「うん、美味しいよ」と答える。

 嬉しそうに笑う少女の声が辺りにころころと響く。

 じゃあもっと取ってくるね、という少女の手を青年は握った。

「いや、ひとつでいいよ。昨日も食べたから」


 カラスの鳴く声がした。

 風も肌寒くなり、日が陰りだしたことを明確に告げている。

「そろそろ帰ろうか」

 と、青年は言った。

「嫌」

 と、少女は言った。

「もっと遊びたいの。遊ぼう」

「風邪を引いたら大変だよ」

「嫌ったら嫌!」

 困った表情で「また明日にしようよ」という青年に、「だったら」と言って少女は微笑んだ。

「バッタを一匹捕まえられたら帰ってあげる」

 少女の言葉に青年は顔をしかめた。俯いて頭を掻く。

「ほらほら、いま貴方の右足の上に乗っているわ」

 青年は慌てて右足を両手で押さえるのだが、その手はバッタの羽根に掠りもしなかった。

「早く捕まえて。早く早く」

 少女はそう言って無邪気に笑った。


          * * *


 その夜、僕はベッドで声を殺して泣いた。

 お父さんに会いたい。お母さんに会いたい。

 温かいポトフが食べたい。

 家に……家に帰りたい。


          * * *


 次の日の朝。

 少女はまた青年のベッドに飛び乗り、キスをした。

「おはよう。よく眠れた?」

 少女の問いかけに青年は返事をしなかった。

「カーテン開けてくるね。今日も良い天気よ」

 青年はベッドから降りようとする少女の腕を掴んで言った。


「もううんざりだ!」


 青年の叫びが、静寂をもたらす。

 静寂を破ったのは少女の笑い声だった。

 その響きは、ある種の侮蔑のようなものを伴っていた。

「どうしたの? そんな大きな声だして」

 微笑みとともに少女は言った。

 青年は肩をふるわせていた。

「……もういいだろ、返してくれよ」

 青年は少女の腕を掴んだまま懇願した。

「嫌」

 少女は青年の願いを拒否し、掴まれた腕を振りほどく。

「だってまだお約束が残っているもの」

「もう十分だろ! 君を楽しませたら返してくれるって約束だったじゃないか!」

「私はまだ楽しみ足りないの。もっともっと貴方と遊びたいの。もし返しちゃったら……逃げちゃうでしょ。だからこれは――もう返さない」

 出会ったあの日、少女は青年の

 少女は椅子に掛かった青年の服を乱暴に払いのけ、腰をかけた。

 握っている二つの眼球を手の中で転がす。

「そんな……」

「だからずっと一緒に遊ぼ」

 少女は軽く首を傾げて微笑んだ。

 もし青年に目があったなら、その美しさに魅了されていたことだろう。

 だが今の青年は少女の美しさを視覚として捉えることができない。

 青年はベッドの上で頭を抱えてうずくまる。

「お願いだよ……返してくれよ。この三日間、君を楽しませるために僕は必死で頑張ったよ……目が見えないのに外で君と遊んで、一緒に笑って、君を喜ばせようと僕はずっと……」

「うん。おかげで毎日楽しいわ」

「こっちはもう限界だよ! 毎日毎日君の機嫌を取って、食べるものはモモしかなくて! もう無理だよ! 助けてくれよ!」

 ひとしきり叫んだあと、青年はもう無理だと助けてを何度も何度も繰り返した。口からはよだれが零れ、眼球の無い目からは止めどなく涙が溢れてシーツを濡らしている。

 その姿を見ても、少女は微笑んだままだ。

「……なーんだ、もう壊れちゃったの?」

 嘲るようにそう言って、少女は笑った。

「あーあ、せっかくいい玩具おもちゃを拾ったと思ったのになあ。壊れちゃったのなら……もういらないや」

 不意に、青年の耳に音が飛び込んできた。

 それはまるで、果実を囓るような音。

 果実からこぼれ落ちた汁が床を叩くような音。

 数度の咀嚼音の後、少女のかわいらしい舌先が、小さな赤い唇をペロリと這う。

「美味しい。――貴方の目」

 その台詞に、青年は声にならない声を上げた。

 少女は指先に付いた汁をちゅぱちゅぱと舐めている。

「来年もきっといい色のラベンダーが咲くわ」

 呟くような少女の言葉に、青年は村とは違う薄紫の花畑を思い出す。

 きっと村のものとは肥料が違うのだ。その肥料とは……。

 もう一度、咀嚼音がした。

 目は二つとも奪われている。

「ふふ、やっぱり美味しい」

 少女が微笑む。

 汁が滴り、また床を叩いた。

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