第154話 いつか繰り返す運命
ある男は黄昏の中を彷徨っていた。
もう結界都市に帰ることなど叶わない。それはもう、とっくに分かりきっていた。対魔師として優秀だった彼はその命を犠牲にしてまでも、仲間を助けようとした。もうあの時に死ぬ覚悟はとっくにできていた。
だが彼は生きていた。
何の因果かはわからない。しかし、死んだと思っていた彼は生き延びていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
――今はどこにいるのだろうか。
そんなことを考えたのは、もう何度目かわからない。結界都市から離れてもうどれだけの時間が経過したかわからない。何時間、何日、何十日、何百日……彼にはもうそんな感覚は喪失していた。
ただ生きることにしがみ付いていた。
そこらへんにいる魔物、それに黄昏に汚染された植物、あらゆるものを摂取した。生きるためにはそれだけのことが必要だった。いやもはやそれは必要などと考えての行動ではない。本能が促していたのだ。
――死にたくはない。俺は……まだ、まだ生きたい……。
20代前半の若者とは思えないほどに彼はやつれていた。頬はこけ、ヒゲは無造作なままに伸びきっている。
その双眸はどこを見ているのか。
もはや彼にはわからない。
ただ生きることに執着していた。それだけだった。
そんな彼なのだが、心にはある懸念があった。
「……どうしているのだろうか、あいつは」
ボソッと呟く。焚き火をして、その近くに座っている男。彼は空を見上げながら、そんなことを言ってみる。
あいつとは、妹のことである。彼には妹がいた。最愛の妹だ。ずっと近くにいて、可愛がってきた。いつかは兄離れしてしまうことを悲しみながらも、彼はずっと妹と過ごしてきた。
だがそんな妹に会えることは、もう叶わないのだろう。
それは予感ではない。純然たる事実だ。
結界都市に戻ることが叶わないのは分かりきっている。自分はきっと、この黄昏で朽ちるようにして死んでいくのはもはや自明だろう。でもここで魔物に殺されて死ぬような結末を許容できるわけもなかった。
彼は対魔師であり、人類を救ってみせるという意志を持った気高い人間だった。
でもそんな彼であっても、もう……諦めようか。そんなことを考え始めていた。
「いや……俺はまだ……まだ、やることがあるんだ」
生きたい。
まだ死ぬわけにはいかない。
結界都市に帰って、また妹に会いたい。きっと妹は美しい女性に成長するはずだ。そんな彼女の生き様を、そばで見たい。
そんなちっぽけな欲から彼は決めた。
この黄昏での大地で、自分は生き続けるのだと。
◇
「よし。こんなものかな」
荷物を整理し直して、それをまとめる。あれから数年。彼は黄昏の大地で朽ちることなく、生きていたのだ。始めはただ戸惑うばかりであった。だが次第に慣れてきたのか、この黄昏の世界で生きる術を学んできた。
飲める水、食べられるもの、それに野宿できる場所。生きるために必要なものを全て揃えて、彼は移動しながら生活をなしていた。
いつか結界都市に戻るために、彼はただこの世界を生きていた。
でもいつからか、この世界に関心を持つようになった。
それは心の余裕の表れだろうか。
「この黄昏はどうなっているのだろうか……」
ぼそりと呟いて、彼は思ったことを紙に書き続ける。
これはすでに習慣になっている。ペンと紙は何の因果か元より持っていたので、それに思ったことを書き続ける。始めは自分の不安を吐露して、それを客観的に見るためにしていたことだった。
でもいつからかそれは、自分の思った疑問をまとめることになっていた。
この黄昏はどうして生まれて、どうして人間は黄昏に侵されて、魔族は強化されるのか。それは、そんな疑問など自分が気がついたことをまとめる資料と化した。
そうして彼は進み続けると……ある場所にたどり着いた。
「これは、村か?」
男は村のようなものを発見した。周囲にある結界を破るようにして、半ば強引に入ってきたのだが、そこに広がっているのは何かの集落のようなものだった。
「誰だ!?」
「人間か!?」
「どうしてこんなところに……!?」
ぞろぞろと奥からやってきたのはオーガだった。
もちろんその存在自体は知っていた。
過去の文献によって、亜人の中にはオーガという戦闘に長けている種族がいることは把握していた。
大きな体躯に頭にある角が特徴的な種族。好戦的とは聞いていたものの、彼が見る限りそんな様子はなかった。
高圧的に話しかけてくるものの、それは決して敵意の表れではなかった。ただ奇妙な存在として訝しい目で見られているだけだった。
「御仁、もしや人間か?」
「はい。名前はラウル・ブレイディと言います」
「そうか……人間がここまでくるとは……」
「ここはどこなのですか?」
「ここは大陸の東の果て、人間のいる場所とは真逆なはずだ……」
「そう、ですか……まさか東の果てまで来ているとは……」
ラウルはずっと結界都市を目指して来たつもりだったが、まさか真逆にここ数年間も進んでいるとは……夢にも思って見なかった。
それから先は、オーガの村で色々と歓迎してもらえた。村長の名前はエドガーといい、彼はエドガーに世話になった。
そうして1ヶ月ぐらい滞在した頃だろうか。ラウルはこの村から出て行くことに決めた。
「エドガーさん。お世話になりました」
「こちらこそ。君がこの村にいた日々は非常に楽しいものだった」
「いえ。あ、そういえば……」
「何かあるのか?」
「自分でまとめた資料を忘れていましたが……ここに置いて行くことにします」
「いいのか? 大切なものではないのか?」
「もしここに人間が来るようでしたら、その人に渡してあげてください」
「承知した」
「それでは、また会いましょう」
「あぁ。達者で」
ラウルはそのまま村を去って行った。
絶対に結界都市に戻るという意志を抱いて彼は進む。
それこそ、ユリアが数年後にこの場にたどり着き、同じような軌跡を辿ることになるのだが……ラウルはユリアとは違う道を進むことになるのだった。
◇
「はぁ……はぁ……はぁ……」
最近、目がかすむようになってきた。オーガの村を出てはや数ヶ月。
一向に結界都市は見えない。だというのに彼にはあるものが進行していた。
それは人間の避けられない運命。
人間はその病からは決して逃れることはできない。始めは体の一部にあった紫黒の刻印だが、それはもう手首まで伸びきっていた。いや手首だけではない。それは身体中に広がり、彼を確実に侵していた。
でもラウルは耐えていた。
耐えて、耐えて、耐えて、耐えていたのだ。
だがもう……終わりの時は来るのかもしれない。彼にはそんな予感があった。
「う……あぁ……うわぁあ……あああ……」
その場に倒れこむ。もう声も霞んで来た。とっくに視力は失われた。今あるのは微かな聴覚だけ。でも聞こえるのは木々のざわめきだけで、他には何もない。
――あぁ。自分はこんなところで終わるのか。
この数年間。死に物狂いで生きてきた。
生きて、生きて、生きて、この黄昏の大地で生き残るだけの技量は身につけた。だというのに最期は
彼はそう思ういながら天を仰いだ。
黄昏の空が広がっている。今日も今日とて、その空に変化はない。
「ねぇ、何か感じないミリア?」
「トリアもそう思う?」
「うん……あ!? これって、人間……?」
「そうみたいね……」
その声は幼い少女のものだった。だがそんなことがわかっても今更だ。今更だと、彼は思っていた。
だがラウル・ブレイディの生はまだ続くことになる。
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