第4話 認知症ケア

「おはようございます」


 事務所のドアを開け、その場にいる職員に挨拶する。常勤が2人しかいないこの事業所では、僕も含めて出勤時間はまちまちだ。


「お、築島くんじゃない。久しぶり」


 関さん以外の唯一の常勤である大関文子さんが声をかける。看護師経験30年を超えるベテラン看護師だ。僕も週2回は出勤しているが全員出払っていることが多いため、顔を合わせるのは久しぶりだ。


「お久しぶりです。関さんはまだですか?」


「ん?なんか、朝方に呼ばれたみたいで、まだ対応中」


 昨日の夜、帰ってから呼び出しがあったのか。なんだか申し訳ない気持ちになる。

 訪問看護が敬遠される理由の一つなのが、夜間・休日の呼び出しがあるからかもしれない。常勤だけで夜間の対応をしているため、どのくらいの頻度で呼ばれるのかは僕にはわからない。


「今日の訪問スケジュール入ってるから確認しておいてね」


「はい」


 僕はタブレットを起動させスケジュールを確認する。今日は午前2件、午後3件の合計5件だった。杉並方面からスタートして最後は新宿といったなかなかの移動距離のスケジュールだ。5件も訪問すれば今日だけで約2万円の収入になる。お金のことを考えると移動距離のことはすっかり頭から消えてしまった。

 すでに9時を過ぎているため、10時からの訪問に間に合うように、そそくさと準備を始める。


 血圧計、体温計、聴診器、SAT《サチュレーション》モニター、処置道具などをバッグに詰め込み、充電が完了した自転車のバッテリーを持ったら準備完了。


「では、行ってきます!」


「はいよー。気を付けてねー」


 6月の、まだ午前中にもかかわらず容赦なく照りつける太陽。時折、通り過ぎるラーメン屋の前とエアコンの室外機の熱風は地獄だ。

 早稲田通りを自転車で走りながらニヤつく。こんな日は奴等がいる。

 ゾンビ映画を観たことがあれば、誰しも思うだろう光景が都会のあちこちに見られる。主人公が路地に入ると、薄暗い建物の間にウジャウジャとゾンビがたむろっている光景だ。

 自転車を走らせながら路地を覗き見る。大通りには人がいないのに、狭い路地に十数人の信号待ちをするOLとサラリーマンが。これを見ると「うおっ!」ってなってしまう。曲がる時は要注意なのだ。

 くだらない考えをしながら環七を横切り、杉並区へと入る。環七を渡っただけなのに景色がガラリと変わる。建物や電柱への落書きが中野区より少ない。中野はアーティストが多いのだろうか?

 圧倒的にサラリーマンやOLが減った早稲田通りを快調に飛ばし1件目の利用者宅に到着する。駐車場には高級外車が並ぶ、なかなかの豪邸だ。


 チャイムを押すと若い女性の声で応答があり、重厚な門を開けて中に入る。

 玄関扉もこれまた重厚で高級感たっぷりであるが、自分で開ける前に静かに扉が開き、中から若い女性が顔を覗かせる。


「あ、築島さん。こんにちは!」


「こんにちは。今日は暑いですねー」


「そうなんですか?外に出ないからわからなかった。どうぞ、中に」


「はい。それでは、失礼します」


 この家の利用者は目の前の女性ではない。彼女は利用者である長友トクエさんの孫である長友有希さんで、この家の主である有希さんのご両親は会社経営が忙しく、ほとんど家にいることがない。そのため、まだ25歳の有希さんがトクエさんの介護を任されている。遊びたい年頃だろうけど、よくやっている。


「トクエさんの様子はどうですか?」


「日中は落ち着いてるけど、やっぱり夜になると家の中を徘徊しちゃって……」


「そうですか。それだと見守るのも大変でしょう?」


「ほんっと!もう、あたしも全然眠れないし、施設にでも入ってくれたら助かるんですけど」


 トクエさんは要介護3で、歩行などはしっかりしているが認知症状が強く、便いじり・夜間せん妄による徘徊・暴言などがある。ほとんどの時間を一緒に過ごしている有希さんの介護疲労は相当なものなのだが、ご両親が施設に入れることを頑なに拒否しているのだ。この家の礎を築いてきた亡くなったおじいさんやトクエさんを施設に入れでもしたら親戚一同が黙っていないだろうという、社会的な問題らしい。


「朝ごはんは用意してます。あたしは出かけてくるので、その間よろしくお願いします」


「わかりました。行ってらっしゃい」


 そんなやりとりをすると、有希さんは家を出て何処かへ出かけていく。

 僕は洋風の大きな家に似つかわしくない襖を開けてトクエさんの部屋に入る。綺麗な豪邸とは思えないほどに荒れた和室は、障子は破れ、壁には穴も空いている。尿と便の臭いが充満する部屋の小さな椅子にニコニコと笑顔を浮かべた小さな老婆がチョコンと座っている。別に家族やヘルパーさんが掃除をサボっているわけではなく、あまり綺麗にしてしまうとトクエさんが落ち着かなくなってしまうため、手を加えないようにしている。


「トクエさん、お久しぶりです。看護師の築島です」


「おやおや?かん?なんですか?お手伝いさんはどこに行ったの?」


 トクエさんは息子さんの事は理解しているが、孫の事はお手伝いさんだと思っている。これで介護をしなければならないのだから有希さんとしては精神的に辛いだろう。ここで「あの人は孫ですよ」などと修正はかけない。そんな事を言ったら混乱して夜間せん妄の原因となってしまう。


「今日は僕がお手伝いさんですよ」


 ゆっくりとトクエさんに近づいて目線を合わせる。さぁ、ここからが大変だ。




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