第2話 訪問看護という仕事

 東中野駅にほど近い事務所に戻った頃には、すでに19時半を過ぎていた。1日数件の訪問だが、中野はもちろんだが、新宿・渋谷・杉並までも移動が必要な場合があるため、1日の移動距離は50キロを優に超える。


 重い足取りで事務所への階段を上り、事務所の前までやって来た。誰もいないのかドアは閉まり、セキュリティロックがかかっている。

 僕は大きく溜息を吐きながら暗証番号を入力し、中へと入る。

 訪問看護の非常勤は基本的に直行直帰が多い。そして、常勤の看護師は少ないのだ。少ないというか、いないと言ってもいい。だから、事務所はいつも空っぽだ。

 訪問看護ステーションを立ち上げるには常勤換算で2.5人の看護師を配置しなければならないのだが、週数回しか出勤しないアルバイトでも0.1〜0.9人分に数えることができる。つまり、社長である管理者は地域によって違うが0.5から0.9人換算であり、残りは常勤1人くらに数名のアルバイトを雇えば開業できてしまう。


「はぁ。ビール呑みてぇ」


 誰もいない事務所でタブレットに看護記録を打ち込みながら独りごちる。

 記録なら患者さんの家で入力してしまえばいいのだが、僕にはそれができない。タブレットを見ながら話を聴くなんて、口にはしないが患者さんはどう思うか考えると申し訳なくてできないのだ。

 自宅療養が必要な患者であると同時に、お金を払ってくれるお客様でもあるのだ。給料に直結する訪問看護という仕事をするようになって看護師としての意識は大分変わった。

 今年で29歳になって、訪問看護の仕事は3年目だ。バイトをしていない日は総合病院の病棟で働いている。彼女いない歴も3年だった……。


 ガンッ!!!


 事務所のドアが勢いよく開く。というより蹴り開かれた。事務所破りか!?


「なんだよ!あのタコオヤジ!ヤブのくせに調子こいてんじゃねぇっていうの!お前何様だよ!偉そうにしやがって!」


 大声で叫びながら1人の女性が事務所に入ってくる。長い髪を後ろで1本束ねた女性は清潔感もあり、容姿端麗だ。この可愛さでも35歳になるのだから、看護師の年齢不詳具合は半端じゃない。この人がこの訪看の管理者で社長でもある関さんだ。


「あ……、お疲れ……」


「お疲れ様っす」


 気まずそうに声をかけてくる女性に対し、知らないフリを決め込んでいつも通りの挨拶を返す。


「築島くん。いつもわるいね。遅い時間の訪問任せちゃって」


「いえいえ。その分頂いてますから気にしないでください」


「そっか……、築島くんみたいな子が……」


 子が?なんだ?途中で話を切るなよー。


「今日はあがってもいいよ。記録なら次に来た時でもいいから」


 ドアを蹴破ったとは思えないほど淑やかに話しかけられる。

 僕らのようなアルバイトは時給ではないのだ。訪問件数で収入が決まる。事務所に何時間いて記録を書いても給料には反映されない仕組みなのだ。


「あのー……」


「どうかした?誰か具合わるい人でもいた?」


「いえ、そうではないのですが、もしよかったら一緒に呑みに行きませんか?」


 まるで告白でもするように緊張してしまい、なんとも言えない微妙な空気がながれる。僕は何を言っているんだろう。


「いいわよ!ちょっと待って!すぐに終わらせるから」


 そんな空気なんて御構い無しに、軽く了承の返事が返される。好きだからとかそういうのじゃなかったのだが、僕の心臓はバクバクだ。


 5分ほど待つと「よし!これでOK」と関さんが言って立ち上がる。僕は知っている。これでOKではないのだ。恐らくこの人は家に帰っても仕事の続きをするのだろう。


「店は決まってるの?」


「いえ……、全然考えてなかったです」


「そっか、じゃぁ私の行きつけでいい?」


 咄嗟に出た言葉だったため、店のことなんて考えてなかった。少し恥ずかしい想いをしながら関さんと事務所を後にした。


 東中野から歩いて坂上方面へと向かう。中野坂上周辺は巨大なビルが建ち並ぶオフィス街ではあるが、1本道を外れると新大久保から溢れてきたのか、中国系や東南アジア系の人々とその人達が営む店が多い。


「ここよ!ここ!」


 20分ほども歩いて辿り着いたのは、青梅街道の路地を入った小さく古ぼけた居酒屋だった。『郷土料理ゆきぐに』という看板が、東北地方か北海道をイメージさせる。


 関さんに続き、店の中へと入った。


「イラッシャイ!ナンメサマデスカ!?コチラニドゾ!テンチョ!ニメサマハイリマス!」


 思わず吹き出してしまった。郷土料理なのに、なんで店員がインド人なんだよ!どこの郷土料理なんだよ!


「こら!」


 吹き出した僕を関さんが半笑いでたしなめる。これ、狙ってたでしょ!?


「お!みさおちゃん!久しぶりだね!なんだ?男連れてんのか?みさおちゃん、再婚すんの?」


 奥から出てきた店長と思わしき泉谷しげる風の男に軽口を叩かれる。


「ちがうわよっ!無駄な事言ってないで適当に出して!」


「おー。こわっ」


 しげる風はワザとらしく肩をすくめながら、奥に引っ込んでいった。

 僕たちはインド人に案内された席につき、ビールを注文する。



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