第16話幸福を求める獣
他の多くの人と同じように、幸せとは何だろうかと、想苗も考えたことがある。
幼い頃は、正月の雑煮がそれだった。
少し大きくなって、家業の手伝いを褒められた時にも感じた。
もう少し大きくなった時、
それから、子を成すまでの間。
ふと目覚めた夜中の縁側から月を見上げた時、或いは子授け祈願の旅の途中、或いは日中ぼんやりと畳の縁を眺めながら、想苗は何度か、何度も考えた。
嫁ぎ、子を授かり、育て上げるのが幸せと教えられた。
では子を持てずにいる今、己は不幸せか?
道場の片隅で若者に稽古をつける
冷たい布団の中で、温かい腕に優しく柔らかく抱き締められる時は、不幸せか?
子どもが加わるだけで、自分は幸せになるのか?
そうではないと思うし、そうかもしれないとも思った。
『難しく、考えることはないよ』
誰かが言う、聞き覚えのある声で。『大事なのはね、想苗。幸せを求めることなんだ』
――求めること、ですか?
『そうだよ。幸せは常にある、僕たちの傍らに、不幸と同じようにね』
――不幸もあるのですか……?
『勿論、ある。大概の場合それらはどちらも、同じ種から育つ実なんだ』
――それは、何やら物悲しい気もしますが……。
『そうかもしれないね。けど、そうでもないんだよ。だって、どちらもあるんだから、どちらにも成れるんだよ』
――幸せにも、不幸せにも、成れるのですか?
『成れる。そしてだからこそ、幸せを追い求めなくてはいけないんだよ。何せ、どちらにも成るのだからね。放っておいて幸せに転がれば良いが、部屋は放っておいても片付かない、ただ汚れ続けるばかりだ。幸せになるためには、先ず、幸せになろうとしなくては駄目なんだ』
――幸せに、なろうとする……。
『そうだよ。だから――』
『だから――死に物狂いで幸せになるんだ。何がなんでも、何をしてでも』
【
取り込み続けた瘴気の量によって出来映えこそピンからキリまでだが、上級下級問わず、奴等は等しく顔を盗む。
相対した者の心を探り、記憶を探り、手頃な人物の姿を真似るのである。
選ぶ姿に拘りはないようで、十年会っていない友人になる場合もあれば、思い続けた恋人、すれ違っただけの隣人になる場合さえある。
霊魔の質が上がれば、姿ばかりか声を真似たり、立ち居振舞いを再演することさえある。中には、父そのものの姿と太刀筋で斬りかかられた、という話さえある。
これが更に濃くなると、記憶そのものを封じられてしまう。盗られた相手のことを、思い出すことが出来なくなるのだ。
さてはこやつもその類いだろうと、【金宝】は分析した。姿はぼやけ、顔形も定かではないが、あの声は間違いなく祐一郎のものだったからだ。
問題は、その質である。
声の正確さに似合わず、姿の造形は正しく御粗末の一言だ。瘴気の霧に覆われた案山子のように、ヒトの輪郭をぼかした人形でしかない。
人形を出来損なう程度だろう。纏う瘴気から見ても、さして強力な霊魔とは思えない。
ならば――あの声はどうしたことか?
『幸せに、なるんだよ』
「ぁ、ぁぁぁ……」
「……成る程、想苗殿か……」
未だ霊魔の腕に抱かれたままの彼女の、その頭の周りの瘴気は全体から比するとあり得ぬほど濃い。
その瘴気が蠢き、想苗殿が喘ぐ度、霊魔は濃さを増しているようだ。
「記憶の暴走が、彼女の幻覚であった筈。格好の位置に、記憶が野ざらしにされているというわけであったか」
『僕たちは、ここに居るんだ……ここに居れば、無事なんだ……想苗……』
「……汚らわしい舌でその名を呼ぶな」
【金宝】の翼が、輝きを増す。
それが攻撃の予兆だと、流石に霊魔は予見したようだった――周囲から瘴気を吸い上げると、全身を覆い込ませた。
受けるつもりか、受けられるつもりなのか。
馬鹿にするように、【金宝】は一際強く翼を鳴らす。
たかが下級霊魔の分際で、大きく出たものだ。その傲りの始末、思い知るが良い。
輝く【金宝】の翼から、羽根が矢のように放たれる――何本も、何本も。
【金宝】は刀霊であり、姿こそ鳥を模してはいるが、その実神気と霊力の化身である。肉体も仮初めの器であるし、その成分は高密度の霊力そのものである。
そして刀霊の霊力は、霊魔にとっては猛毒に等しい――例え羽根の一本であろうとも。
「【
霊魔を葬る霊力の矢が、その名の通り、嵐の如く降り注ぐ。
後にはただ、想苗殿だけが残された。
『――あぁ。ここはもう駄目だ』
悲壮な声、悲哀の聲。
想苗などより多くの死線を潜り抜けた
そもそも。
想苗にだって、解っていた。信じたくはなかったが、解ってはいたのだ。
墜ちた霊脈から溢れ出た瘴気の波、霊魔の群れ。それに呑まれて堕ちた花守たち。
正しく百鬼夜行。諸々の穢れが荒れ狂った柊橋区は瞬く間に壊滅し、戸上の家も勿論御多分には漏れなかったのだ。
見慣れた細身の身体が、その半分を瓦礫に埋めているのを、あの日の想苗は為す術もなく見下ろしている。
顔を上げた彼は、微笑んだ。
『やあ、無事だったか、想苗』
――えぇ、えぇ。私は無事です。
『……すまないね。蛍は、僕の後ろにいた』
――あぁ、そんな。
『僕は、運が良かった』
冗談みたいな事を、死にかけの男は囁いた。
これを、こんな絶望を、幸運と呼べというのだろうか。
『幸運だよ、だって――これを、君に渡せる』
そう言って、男は右腕を伸ばした。
血にまみれた大太刀を、想苗の方へと押し付けている。
『君に、託す』
『君しか、いない』
『君にしか出来ない』
『君だけにしか、頼めないんだ、想苗……』
頼むよ、と男は言って、鈴蘭のように静かに微笑んだ。そうして、鈴蘭のように静かに死んでいった。
悲劇の情景はそこで停止し、うずくまり泣き続ける想苗の耳に、新たな声が響いてきた。
『……これが、真実。これが顛末。これが――世間が貴女に押し付けようとする事実ですよ』
言外に、声は問うている。
それで良いのか。
それが良いのか。
『御覧なさい』
あの日の、ヒトの営みが閉ざされた晩の冷たい夜闇。
そこに、苛烈な黄金の光が降り注いでくる。
光に触れた悲劇の記憶が、微かな霧を残して消滅するのを見たとき、想苗は悲鳴を上げた。
『気遣いの光は容赦なく、貴女の居場所を焼き尽くすでしょう。正しくあれ、間違いなくあれと、強く諭してくるでしょう。さて』
西洋風の、奇妙に着飾った姿の影が、淡々と告げている。『不幸な現実と、幸福な幻想。貴女はどちらを選びますか?』
悲劇は、欠片だけが残されていた。
それを消し去ろうと、黄金の光が。
「――待って!!」
手を伸ばす、首に、すがるように抱き付く。「行かないで、消えないで下さい、祐一郎様ぁぁぁぁぁぁっ!!」
首がにやりと笑った。
それは直ぐにほどけて黒い霧になると、想苗の耳から滑るように入り込んでいった。
…………
………………
……………………
「想苗殿、大丈夫ですか?」
「……えぇ、大丈夫ですよ、【金宝】」
「そうですか。全く、油断が過ぎるというものですよ、あわやという状態でした」
「すみません、【金宝】」
「……自分で歩けますか。流石に、我も少々疲れました」
「勿論です。戻ってください、【金宝】」
相当、疲弊していたのだろう。
【金宝】は直ぐ様実体化を解くと、刀へと戻っていった。
それを無表情のまま見下ろしながら。
想苗は太刀を拾い上げ、腰に差し直して。
そして静かに、微笑んだ。
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