第14話幻、置き去りの現実

『お母さん、おかああさん!』

「……何でしょう、いや、何かしら、蛍……?」

『あのねあのね!』

 言い直した想苗のことを、幻覚は気にも留めない。『何処か遊びにいこうよ!』

「遊びに……?」

『うん!!』


 藍染の、簡素な着物をまとった蛍は、生前と変わらぬ様子で想苗の足元をくるくると回る。

 ぱたぱたという足音さえ聞こえてくるようだが、勿論そんなことはない。どころか、埃の一つさえ立つことはないのである。


 あの子はもう死んで。

 この世にもう何も出来ないのだ。


 理性は正しくそれを理解している、だというのに、想苗の目も耳も脳も、家族の死を認めていないのだ。だから幻覚は消えず、幻聴は鳴り響いている。


 蛍の幻覚は、嬉しそうに窓の外を指差した。


『ほら、見てよお母さん!』

「な、何を見るの蛍……?」

!!』


 幻覚の言うことに頷き、幻覚の示す道を進む――石上医師の言うにある程度納得した想苗だが、流石にその言葉には何も言えなかった。

 霊境崩壊以来、日の国からは太陽が消えてしまった――分厚く重苦しい雲が空を覆い、熱と光を奪い去ったのだ。

 今は未だ、月は見えるが。もしかしたらやがて、それさえも瘴気に呑まれてしまうかもしれない。


「……蛍」

 言葉を選びながら、想苗は口を開いた。「あのね、その――空は、もう……」

!!』

「…………え?」


 そんな、馬鹿な。

 言葉を失くし、表情からは色を亡くし。

 何故だか開いていた障子窓の向こう、想苗は、愕然と空を見上げた。


 そこには、









「時として、貴女の記憶は


 診察の記憶、何時のものだか定かではないがその中で、石上医師はそんな風に語っていた。


 甘い香の匂いと、蝋燭の灯りが机に置かれた鏡に反射して随分眩しかった事を、何故だか強く覚えている。

 石上医師は静かな、淡々とした口調で想苗に語り掛けていた。


「幻覚は記憶の映像、幻聴は記憶の音楽。どちらも記憶である以上、

「幻覚が……記憶に……」

 心に響く言葉だ。「そして、記憶が幻覚を生む……」

「その通りです」

 石上医師は微笑んでいる。「私は、幻覚を肯定しろと言いました。そうすることで、現実との差異に気が付けば、幻覚そのものが成立しなくなると」


 ですが。

 石上医師は首を振った。動きが風を生み、甘い香りが更に鼻孔をくすぐる。


「幻覚が幻覚を生み出すようになってしまえば、事態は非常に不味いと言えます。もし、そうなってしまったら……」


 ……………。









 想苗は、素早く辺りを見回した。

 我が子の幻覚、窓から差し込む暖かな日差し。背筋を伸ばして書き物机に向かう祐一郎様の、着流しの柄。


 全ての幻を置き去りにして、探す、探す、探す、探す、探す――


「【金宝】っ……!」


 身に余る大太刀を、想苗は確りと掴む。彼の名を呼び、鯉口を切った。

 僅か、露出した刀身の黄金の輝きを、見詰める。


『……想苗殿? 如何なされました?』


 言葉が、耳に届く。理性に、届く。


 戸上家に伝わる霊刀、刀霊【金宝】。

 その人知を超えた神通力は、【輝きを見た者の意識を集中させる】ことだ。

 だからこそと、石上医師は言っていた。幻覚への対策として、正しく切り札と成り得ると。


「意識を、刀霊に集中するのです。彼は間違いなく現実ですからね、そこに意識の焦点を合わせれば、確実に現実へと復帰できます」


 そういうことだ、そういうわけだ。

 吸い込まれるような黄金の輝きに、想苗は、自らの意識が落ち着くのを感じていた――幻覚は消えず、幻聴も止まないが、それらを幻だと断ずる理性は取り戻すことができた。


 空には、曇天が戻ってくる――未だ未だ、何も取り戻していない灰色の世界が。


「……【金宝】、すみません。今日はどうも、調子が悪いようです」

『幻覚ですか』

【金宝】がため息を吐いた。『あの医者の処方、本当に当てになるのですか?』

「まだ、始めたばかりですよ」


 苦笑しながら、嗜める。

 医療は農業と同じだ、一朝一夕で実を結ぶものではない。


「言われた通り続ける事が、何より肝心なのです。途中で勝手に止めてしまっては、それこそ無意味になってしまうもの」

『それで貴女が死にかけるのは、どうかと思うのですがね』

『お母さんっ、早く早く!』

「……【金宝】、良いですか?」

『……貴女が出掛けるのなら、勿論お供しますよ。それで、何処に行くのです?』









『公園、ですか』

「そのようですね」


 蛍の幻覚に連いていった先は、桜路町区と柊橋区の境に程近い丘だった。

 丸太を一定の間隔で設置しただけの簡素な階段を、幻はとんととんとん、元気一杯、軽い調子で登っていく。


 幻といえども、流石は子供。年の差、大太刀という荷物を抱えた状態では、どんどん背は遠くなっていくばかりだ。


「…………」

『どうしました、想苗殿。もう、息が上がったのですか?』

「……いいえ。いや、えぇ、そうですね……」


 そういうことに、しておこう。

 はしゃぐように階段を跳ねていく幻影に、あぁ、などと。


 思ったより、吹き抜ける風が心地好い。


「この風は……本物でしょうか」

『お母さん、早く早く!』

「……行きましょうか」


 ――なに。

 これもまた、単なる人生と変わらない。ヒトは誰しも、こうして生きていく。

 身軽に先へと逝ってしまった過去を、懸命に追いかけ続ける。


 その幸せな部分だけを見て。

 想苗は、階段を登り始める――その眼がぼんやりと、何処にも焦点があっていないことに、気付かないまま。

 









『想苗殿、想苗殿!!』


 ふらふらと、仮初めの主が外出するのを【金宝】はただ見ていた訳ではない――何度も叫び掛けた。

 だが彼女は、戸上想苗は。


「……行きましょうか、【金宝】……」

『想苗殿、私を見て下さい! 私を、【視ろ】!!』


 叫び、刀身に霊力を通す。

 あらゆる視力を持つモノを引き寄せる黄金の輝きは、しかし、見なければ意味がない。


『くっ……』


 今の想苗殿は、現実を何一つとして見ていない――己の脳が造り出す、幸福な空想に支配されている。

 想苗殿が過去を見ている限り、【金宝】の黄金の輝きは、彼女にはけして届かない。


 となると、手段はひとつしかない。

 最早、直接手に持たせるしかあるまい。

 ある程度の力を持つ刀霊の、能力だ――必要な霊力を集め、固め。【金宝】は黄金の鳥として実体化する。


『あぁもう全く、世話が焼けるというものです……!』

「ほう、


 刀を掴み、今にも飛び立とうとしたその瞬間。

 聞きなれぬ声が、無人の家に響き渡った。

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