第5話朝食を食べよう。

 夜と朝との繋ぎ目の時間、戸上想苗は往来を走っていた。

 長革靴ブーツが砂利を踏み抜く度、想苗は顔をしかめる。まだまだ早い時間だ、騒がしくして人々の穏やかな眠りを妨げたくはなかった。


『戦いには、体力が欠かせません』

 腰の辺りで揺れながら、【金宝】は想苗に語りかける。『霊魔の瘴気に耐える精神力、祓う霊力、刀の扱い。どれも花守には必須ですが、それより何より。それらを十全に扱う為にはやはり基礎体力です』

「解って、います……」

『素振り、身体作り、そして走り込み。戦場でどれだけ長い間最高の動作を行えるかどうかは、そうした日々の鍛練の積み重ねです』

「だ、から……っ!! 解っていると……言って……」


 息を切らしながら、想苗は口煩い相棒に抗議する。

 鍛練の重要性など言われるまでもない、自分自身他の花守たちと比べて劣っていると思うからこそ、こうして毎日、


『ほら、足元』

「え? きゃあっ!?」


 小石を踏んだ右足が、反射的に逆へ逃げようとする。

 崩れた体勢を本能は左足で支えようとし、身体は右足を戻ろうとしてしまう。

 結果――足は見事にもつれて絡み。

 想苗は顔面から地面に突っ込んだ。









 朧に咲いた、夜の欠片。


 夜明け前の暮明、太陽が昇る前の名残月が照らすこの時間。

 強い陽射しに暖められる前の、非情な冷たさに満ちた空気。


 それに包まれるのが、戸上想苗は好きだった。走り込みで帯びた身体の熱が、融け合っていくかのようで。

 縁側に腰を下ろし、【金宝】を傍らに。

 鍛練の疲れが誘うまま、想苗は静かに休息していた。


「……痛っ」

『知っていますか想苗殿。転倒の際に顔を怪我するのは、運動神経の悪い者の特徴なのですよ』

「そ、そもそも! 貴方を差しているから走り辛いのです!」


 【金宝】の長さは凡そ五尺ほどもある。

 大太刀、と呼ばれる中でも際立って長く、長身瘦躯ちょうしんそうくな祐一郎様が携えてどうにか見映えがする、といった程度。想苗も、同年代の女性と比べれば背は高い方だが、【金宝】を差すとどうしても切っ先を引きずってしまう。


 そこで、腰に差した後で、想苗は【金宝】を回転させている。左手でぐっと落とし、切っ先を上に回すのだ。

 そうすれば、引きずらなくて済む。済むが、しかし――動きは、制限される。


「貴方がもっとな見た目だったら、良かったのです……」

『我がいなくては、貴女は霊魔を狩れない。我の扱いに早く慣れる方が、合理的というものですよ。文句を言う暇があるのなら』

「も、文句ではありません、これは愚痴です」

『貴女が走るべき時には、我を持つ必要があります。走り込み程度でしくじってどうするのですか』

「だから愚痴だと言っているではありませんか! 愚痴に正論で返さないで下さい!」


 会話を終わらせるべく、想苗は勢い良く立ち上がった。

 【金宝】の言うことはいちいちで、解りきっていることばかりだ。身体の火照りも収まったし、これ以上座っている必要もない。

 それに。


「朝食の用意をしなくてはなりませんしね……そろそろ、

『…………今日は、朝食は外で済ませた方が良さそうですね』

「え? 何故です【金宝】、

『二人はもう起きてきません』

「……………………ぁ」

『市へ出ます。想苗殿、支度を』

「わ、たし、わたし、は…………」

『想苗殿』


 有無を言わさぬ【金宝】の調子に、想苗は消え入りそうな声で応じた。


 空はまだ、夜明け前であった。









 桜路町区の中心は、霊魔の影響があるとはいえ比較的に賑やかである。


 和装と洋装の者が半々程度。長革靴に女袴、着物の上から外套インバネスを羽織った想苗のように、双方を交ぜ込んでいる者も多い。

 モダン、というやつだ。

 想苗自身は服装そのものに取り立ててこだわりは薄く、例えばこうして買い物に出て、変に見られなければ良いという程度だ。

 もっとも。

 行き交う人々は想苗の短すぎる髪型、いわゆる断髪に眉を寄せてばかりだったが。


『やはり、切り過ぎなのでは?』

 【金宝】が淡々と言う。『動くのに邪魔だとか言うのであれば、それこそ昨今の女史に倣い、束ねて上げるなり帽子に突っ込むなりすれば良かったでしょう』

「いえ。もう慣れてしまいましたしね」


 想苗が髪を切ったのは、六年前、廣永元年のことだ。

 流行りに乗ったわけではない。

 寧ろその逆――古臭い慣習に、眉唾と知りながらも想苗はすがったのだ。

 ――嗚呼、どうか。やっと授かったこの子を、どうか無事に産ませたまえ。代わりに――


 それ以来、想苗は髪を伸ばしていない。


「まあ。【金宝】を差して居る限り、髪型程度で滅多な真似はされませんよ……さて。何にしましょうか」

『二丁目の彼処はどうですか想苗殿。鳥雑炊の美味い店』

「貴方が、鳥雑炊を……? 共食い……?」

『我は鳥の姿を選んでいるだけ。鳥そのものではないのです』


 そうだとしても、何やらもやもやとする。何というか、豚が笑顔で豚カツ最高、と言っているような違和感だ。

 まあ、と想苗は気持ちを切り替える。

 【金宝】は刀霊であり、鳥竹亭の主人には見ることも出来ないのだから、気にすることでもないか。


「では、そうしましょうか。ここからだと、彼方の方ですね……あら?」

『ん?』

「……せんだよっ!!」


 文明程度が著しく劣っているような粗暴な怒鳴り声に、想苗は眉を寄せた。

 喧嘩か何かだろうか。しかし、それにしては一人の声しか聞こえてこない――気分としては、の声としたいくらいだが。


「揉め事でしょうか」

『かもしれません。どうしますか、警羅でも呼びますか』

「そうですねぇ……」


 花守は基本的には巫子であり、警察組織でも軍人でもない。

 不埒な輩を逮捕する権限など、持ち合わせてはいないのだ。そして、その義務もない。


「様子だけ、見ておきましょう。霊魔の悪影響、という可能性も無しではありません」

『観測の状況的には無しですが。まあ、狡猾な霊魔も居ますからね』


 軽い争い程度ならば、想苗が【金宝】をちらつかせれば大体収まる――一般人に刀を抜くことなど花守としては無いが、それを向こうが知ることはない。


『危険と見たら、直ぐに逃げてください』

「えぇ、勿論」

 騒ぎの聞こえた路地の方へ静かに近付きながら、想苗は呼吸を整える。「……もし、どうかしましたか?」

「っ、あぁ?」


 そこに居たのは予想通り二人。着物をだらしなく着崩したがたいの良い男と、彼の前で踞る男だ。

 予想外だったのは、がたいの良い方の右手に刃物、いわゆるドスが握られていたことだ。


「なんだ、女ァ……」

「叫び声が聞こえましたもので」

 内心で舌打ちしつつ、想苗は余裕のある振りで微笑んだ。「何かあったものかと」

 【金宝】が呟く。『……往来にまで』

「往来にまで」

 想苗はその助け船にしがみついた。「響いておりましたよ。皆顔を見合わせ、通報すべきか否かと悩んでおられましたよ?」


 暗に、警官隊が向かっていると思わせつつ、想苗はわざとらしく【金宝】を擦った。


「……それで? どうかしたのでしょうか?」

「……何でもねぇよ、ちょっとした、揉め事だ。もう解決したさ」


 予想通り気が削がれたらしい男に、左様ですか、と想苗は頷いた。

 その場で腕を組み、路地の更に奥を視線で示す。男も察したのだろう、舌打ちして、それから路地裏へと足早に去っていった――寸前、男は踞る相手をじろりと、物凄い目付きで睨み付けていったが。


「……ふう」

『見事にあしらいましたね、想苗殿』

「いえ。助力をありがとう【金宝】。お陰で、すんなりと事が運びました。さて」

 一息つくと、想苗は被害者の方へと駆け寄る。「もう大丈夫、お怪我はありませんか?」

「え、えぇ……」


 かなり痛め付けられたのだろう、よろよろと身体を起こしたのは、随分と身なりの良い格好の、若い紳士だった。


 いや、良すぎる。


 西洋の正装、いわゆる夜会服に身を包み、側には山高帽まで転がっている。

 新聞や雑誌の挿し絵なんかで見掛けるような、典型的な洋服姿の男だ。どこぞの、御坊っちゃんじみた服装である。


 成る程、と想苗は納得した。

 こんな服装で町の路地裏をうろうろしていたら、それは粗暴な連中に絡まれるだろう。


「助かりました、えっと……」

「……想苗と申します。戸上想苗」

「想苗殿、素敵な名です。僕は――」

「とにかく」

 深く関わるつもりもない。想苗は彼を立ち上がらせると、一歩身を引いた。「歩けるのでしたら、その服を着替えて来られた方が良いでしょうね。そのままでは、良い的です」


 では、と想苗は路地を出ると、そのまま早足で立ち去った。

 面倒事は御免、ということも勿論あるが、それよりも。


 ――あの、眼。


 助け上げ、男に見上げられたその瞬間。

 想苗は、心の何処かが悲鳴を上げたような、そんな感覚に襲われていた。

 この男は。きっと、良くないことが起きる。


 嫌な予感に追い立てられるように、想苗は鳥竹亭の方へと駆け始める。

 その背中を、若い紳士はじっと見詰めていた――。

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