しあわせストーカー日記
塚本オルガ
1.すべてが嘘でありますように
タクシーの中での私はおしゃべり。だって会話の相手とは、もう二度と会うことがないから。一期一会の運転手、もしくは隣に座っている男の人との目的地に着くまでのやり取りは、降車の瞬間に夜の空気の中に消えてしまう。掃除機のコードを収納するボタンを押したみたいに。
星の見えない繁華街や自分のヒールの音だけが聞こえる住宅街で、深い夜の中に吸い込まれていった私の話は、もうどれくらいあるんだろう。最近あったかくなってきた、とか、ビールが値上がりするらしい、とか、明け方に流星群が来るそうですよ、だとか、どれも取るに足らない世間話ばかりだ。
そういう他愛ないやりとりを、私はタクシーの中でしかできない。とりとめのないおしゃべりの中に気恥ずかしさなく身を置くことができるのは、酔っているときか相手との関係の継続を意識していない場合のどちらかだけだった。
今年は桜の開花が遅くて、世間ではみんな、そのことばかり口にしている。
「このまま咲かないで終わるんじゃないの」
昨日、バイト先の店長もそんな軽口を叩いてきたけど、タクシーの中にいない私は調子良く切り返すこともできない。せめて愛想笑いでもしておけばいいのに。
「はあ、そうですね」
発した言葉は相手に届く前に、どこかに消えたみたいだ。店長はスマホの画面に目を落として会話はそれ以上続かなかった。
タクシーの中でなら、私はどんな風に対応しただろう。「そんなわけないじゃないですか!」とか「えー、そうなったら困りますぅ」とか、軽い調子で返せそうだ。そういう風にいつでもできれば、私はもっと健やかな人生を歩めているのかもしれない。そう立ち止まって考えてみることもあるけれど、空気を悪くしないように気を遣うばかりでいるのも息が詰まりそうだな。くだらない世間話の展開なんて本当はどうでもいい。桜は咲くんだ、なんとしてでも。
スープの中にずっと浮かべていたパンみたいに脳みそはふやけきっていた。起きてから時間はずいぶん経っている。惰性でつけた昼のワイドショーを流し見しているものの、それ以外まだ何もする気になれない。
画面では桜の様子が中継されていた。例年なら、もう見頃を迎えていてもおかしくないのに、花見客の頭上にはまだ空の色ばかりが広がっている。その映像を見ていたら、急に、テレビが嘘をついているんじゃないかと疑いたくなった。
今映っているつぼみは、実はもう何日も前に撮影されたもので、本当はとっくに花は開いているのかもしれない。花見客たちが空を見上げれば、薄桃色の花は雲のようにたなびいているんじゃないだろうか。
昨日までは同じようなニュースを見てもそんな風に思いはしなかったのに突然そう考えたのは、今日が四月一日だからなのかもしれない。嘘なんて毎日のようについたりつかれたりしているはずなのに、エイプリルフールを意識して妙に疑り深くなっているなんておかしな話だ。一年の中のたった一日にだけ免罪なんてもらわなくても、私は三百六十四日間を日々悪びれることもなく過ごしているというのに。
ベッドに寝そべったまま、ペットボトルの水を喉に流し込む。頭はスープをすっかり吸いきったパンだ。ずっしりと重く、側頭部は軋むように痛んだ。左のこめかみあたりの血管では粘度の高い不健康な血が渋滞を起こしている。嗚呼、この二日酔いの不快感も嘘だったらどんなにいいだろうか。昨夜の自分の行いが悔やまれる。空になったペットボトルを床に放った。
もっと欲を言えば、昨夜の出来事そのものがまず嘘であればいい。私の隣ではまだ、大学三年生だというプロフィールしか記憶に残っていない男が寝息を立てていた。
顔が小さくて、体の線の細い、華奢な男だ。声をかけられたとき、わりと好みの外見だったから朝まで過ごしてしまったけれど、酒が入っていなければそこまで魅力は感じない相手だったかもしれない。
化粧も落とさず寝てしまった顔に再びファンデーションだけおざなりにのせてフロントに電話を掛けた。ひとりで出ていくと告げると、確認を取るために男性に代わって欲しいとフロント係は言った。布団にくるまっている男を軽く揺すって、押し付けるように受話器を渡す。男は寝惚けた声で「大丈夫です」と数回発して受話器を置いた。
「
「ごめんね。そろそろ仕事だから」
いい加減な嘘でいなしてベッドから立ち上がる。男は私の腕をつかんでそれを制止した。
「仕事って夜からなんじゃないの?」
「そうだけど、色々準備もあるし」
「でも、まだ昼過ぎでしょ。一緒にメシでも食おうよ」
「そんな時間ないかも」
「ちょっと待ってて。すぐ支度するから」
さっき電話に出させたせいで彼はすっかり目を覚ましてしまったみたいだった。早くひとりになりたかったのに、まだ一緒にいなきゃいけないなんてめんどくさい。
「急がせたら悪いし、いいよ」
顔面の筋肉運動にしか過ぎない笑顔を向けると、相手は私の腕を引いてこちらを見上げた。
「冷たいね」
男が腕に力を入れ、私の上体はベッドに引っ張られる。
「痛い」
小さな悲鳴は無視されている。上に倒れ込むかたちになった私の背中に腕をまわして、男は唇を寄せた。ごめん、彼の口からはそう漏れた気がしたけど、不明瞭な言葉は次に続いた長いキスの中に溶けてしまった。謝るくせに止める気配はない。抗うのもめんどうになり、私も無気力に受け入れる。
口腔内を犯されるようなキスの途中で、彼の舌が驚くほど柔らかいことに気付いた。嫌々されていたはずなのに、ばかみたいに浅ましくそんなことに気付く。昨夜は酔っていて分からなかったけれど、その瑞々しい肉質ははじめて味わう種類のものだった。
「舌、すごく柔らかいね」
唇を離した後でそう告げると、彼はきょとんとした。こんな感想を伝えられたことが今までなかったのかもしれない。
薄く開いたままの彼の唇に親指を引っかけるようにして軽く引っ張ってみる。少し紫がかった薄桃色の粘膜は、いかにも新鮮な色味だ。まだ生まれたてで産毛も生えていないツバメの赤ちゃんみたい。
「気持ちいい」
柔らかな肉質を求めて今度はこちらから舌を絡める。彼のほうはもう飽きてしまったのかおざなりに舌を動かしながら、私の服の下に手を入れていた。下着をずらされ指で乳首を弾かれると小さく声が漏れた。
男は上体を起こし、私を下に組み敷く。相手の目鼻立ちや、くっきりと浮き出た鎖骨、そこかしこにある美点に視線を這わせる。彼の整った容姿を冷静に認識し、データを記憶しようと努めた。その静かで冷たい情熱は、恋心とは別の性質のものにちがいなかった。容姿に優れた異性と交接するたび、私は決して少なくない優越感を覚えるけれど、それはいつも機微のない満足に終わる。
下半身へと伸ばされた男の指が私の中に抵抗もなく沈んでいく。行為に集中しているわけでもないのに刺激に律儀な反応をしている自分をいやしく感じた。男の下腹部に目を遣ると、ソフトビニール人形の質感に似た性器が直立している。いかにも二十歳そこそこの男に付いていそうな、元気でチープな生殖器。
「ゴム」
避妊を促すと、彼は目線をヘッドボード付近に向けた。
「もう、ないや」
「……フロントに電話しよっか」
「このままでいいじゃん」
「無理」
そう返しはしても、別に抵抗はしなかった。断片的にしか再生されない記憶ではあるけれど、昨夜だって私は自分のおへそのあたりに精液が溜まっているのを見た気がする。ちゃんと外に出してくれるのであれば、そこまで相手にうるさく言う必要もないと思った。
男の体が私の中に入ってくる。なんだか今日は気持ち良さよりも苦しさがまさった。喉のところでフローリング掃除用のコロコロをかけられているみたい。何度も同じところを行き来されるとたまに粘着テープが肌に張り付いて引っ張られるように痛くなったり喉をゴリッとつぶされたりして、だんだん腹が立ってくる。
ふいに、男の動きが止まった。
「中に出しちゃた」
相手は悪びれる様子もなく言った。最悪。
「最悪」
どうして簡単にこの男を信用してしまったのだろう。こんなことをして、笑って済まされるとでも思ったのだろうか。信じられない。
「信じられない。あり得ない」
行きずりの女なら何かあっても責任を取らずに逃げ切れるとでも思っているのかもしれないが、名前も住所も大学もすぐ特定してやる。少しでも隠れようとしたら実家の親を脅迫する。許さない。土下座しろ。家族全員で土下座しろ。そこにガソリンかけて燃やしたい。もう殺したい。死んでほしい。
「死んでほしい。てか、マジ死んで。燃えて」
冷静に処理できない感情のままに言葉が口をついて出た。男はばつが悪そうに言った。
「嘘だよ」
彼は私の顔から目を逸らしたまま言葉を続ける。
「ちょっと驚かせようと思っただけ。嘘だから、安心して」
今さらそう言われたところで、さっきまで彼に向けて発した言葉も「嘘だよ」と弁解できるわけでもない。男は、背を向けて枕に顔を埋めた私の耳元に口を寄せた。
「続き、していい?」
ひとりでシャワーを浴びて下腹部にかけられた精液を流し、やはりひとりでホテルを出た。彼は私を引き留めようとはしなかった。エントランスを出てしばらくすると、さっきまでの出来事に、もう実感がなかった。「嘘だ」私は口の中だけでつぶやく。少し気持ちが軽くなって、唇から笑いにも似た吐息が漏れた。
迷路のような渋谷のホテル街を抜け、大通りへとつながる横断歩道で信号待ちをしていると、街路に植えられた桜の木が目に入る。花はまだ開いていない。さっき見たテレビの情報はどうやら嘘ではなかったようだ。薄曇りの空を背に、くすんだ緑色の帽子をかぶったつぼみが頭を垂れて連なっていた。
春が来たというのに毎日は色褪せたままだ。時間だけがいたずらに流れ、自分は止まっているばかりで。泥沼にはまったみたいにみじめに立ち尽くしていることに焦りや罪悪感は覚えるけれど、そうだったところで、泥の中から足を引き抜くバイタリティはない。このまま頭の先まで沈んで窒息してしまえるなら、それでもいい。私が生きていることが嘘ならば、それがいちばんいい。
「嘘だ」
信号を渡ってセンター街を進んでいる間、目に入るものすべての「嘘」を暴きながら歩いていた。春は嘘、ドブネズミの大きさは嘘、人の群れも嘘、これはレミングの行進で、この先にある渋谷の海でみんな小さな青白い泡になる。
ファーストフード店のオーダー待ちの列で私の前には二人組の女子高生が並んでいた。少女たちは途切れることなくおしゃべりをしている。背の高いほうの少女が、手にしたスマホで彼氏とのやりとりを見せるたび、もうひとりの少女は笑い声をあげた。その笑顔も、嘘であればいい。
背が低いほうの少女は、のろけ話をしている友達の彼氏と密かに寝ていて、その男の汗の匂いも知っている。友達が目を細めて話す彼氏の癖やよく使う言い回しについても、頭の中でその様子をしっかり再生できるから、顔に浮かべている表情とは裏腹に、内心は冷や汗をかいていてくれればいい。そこに少しの優越感と、何も知らずに彼氏を共有されている友人への哀れみに浸って悦に入る気持ちがあれば、なおさらいい。
そんなくだらない「嘘」をいくつも勝手に暴いたところで少しも愉快な気分にはならなかったけれど、やめようとも思わなかった。手もとのスマホには客からの着信が何件もきているけど、これだって嘘。私にウザい連絡をしてくる電話の向こうの相手は本当はすでに死んでいて、今スマホが震えるのは霊障なんだ。
だから当然、彼を見つけた瞬間にも、これは嘘だと私は思った。
ハンバーガーの乗ったトレイを持った私の前でポップアップ式の絵本が前触れもなく開く。「彼」だけが目の前にぽんと飛び出してきて、その瞬間まわりのすべてがツルンとした背景になった。店内の雑音も、女子高生の群れも、よどんだ清潔感のない空気も、ぜんぶ一気に白くスパークして消え去って、世界には、私と彼のふたりだけになった。そんな気がした。
彼はふたり掛けのテーブル席にひとりで腰かけていた。少しだけ上げた顔の下に片手をついて、スマホの画面を眺めている。
「夢で一度、会ったことがありますよね」
「はあ?」
「ずっと夢に見ていたような理想のタイプの方だったので思わず声を掛けてしまいました。良かったら一緒にお茶でもどうですか?」
「うるせーよ、死ね!」
彼を視界に認めながら私は頭の片隅で、以前自分にばかばかしいナンパを仕掛けてきた男とのやり取りを思い出していた。あのくだらない冗談と同じことを今、そっくり彼に伝えてみたくなる。
一目惚れというのは、ずっと夢見てきた理想的な姿かたちにある日突然出逢ってしまうことなのかもしれない。
私は花に吸い寄せられる蜜蜂のように、空席だった彼の隣のテーブルに席を取った。
わずかな距離を隔てたところに彼がいる。自分の左半身だけ熱を帯びているように感じた。視界の端にいる彼はスマホで動画でも見ているみたいだった。
私の目は確かに彼の姿をとらえているはずなのに、やはり彼の存在を「本当」のものだと確信することはできなかった。なにも、世界一の美形を見たというわけではない。それどころか彼は抜きんでた美青年とも言えないかもしれなかった。むしろ、一般的な価値観で言えばどこにでもいる普通の男性と呼んで差し支えないのではないだろうか。それなのに、その目鼻立ちや彼を取り巻く雰囲気は、おそらくそのすべてが私の欲していたものに当てはまるように感じられた。どこにいてもおかしくないのに、今までどこにもいなかった。そんな人がどうして今、私の前に現われたんだろう。
バッグから鏡を取り出し、自分のメイクを確認するふりをして彼の姿が映るように左側にゆっくりと傾ける。丸い鏡面は月蝕のように少しずつ彼の姿を映していく。
年齢は私とそう変わらないように思えた。もしかしたら少し年上なのかもしれないけれど、色白の肌と細身の体つきからは少年を思わせる清潔さが感じられた。ラムネの瓶のように涼やかで、はじめて見るのにどこかなつかしさを覚える人だった。
鏡の中の彼の姿に右手を伸ばす。瓶の口をふさいでいたビー玉がラムネの中に落ちて、勢いよく泡を立てた。彼の頬に私の指先が重なった瞬間、これは嘘ではなく本当だということを、私はしっかりと信じた。今日見てきた他の何が嘘であっても、これだけは絶対に本当のことなのだと、そのときに私は、分かった。
魔法の鏡を眺める。いくら眺めていても飽きるということがないように思える彼の顔立ちや細い首筋をうっとりと眺めていると、不意にその姿が鏡の中から消えた。私はあわてて魔力を失った鏡を自分の顔に近づけ、目に入ったゴミを探すような仕草を始める。左側に座っていた彼がソファーから立ち上がる気配を感じた。私の行動に気が付いて席を離れようとしたのだろうか。びくびくしながら様子を伺っていると、彼は荷物をそのままにして私のテーブルの前を通り過ぎ、通路の奥へと進んで行った。そこには男女共用のお手洗いがひとつある。
顔を正面に向けたまま聴覚だけで彼の動向を追う。後方から、ドアの閉まるような音が聞こえた。どうやら警戒はされていなかったみたいだ。私はテーブルの上に置かれたままになっていた彼のスマホに手を伸ばした。
それはほとんど無意識の行動だった。私の心にいるはずの天使と悪魔は争いを好まない種族のようだ。スマホにロックはかかっていなかった。素早く画面を操作して、持ち主のプロフィールを表示させ、私は自分のスマホにデータを飛ばす。興奮している脳みそとは裏腹に、私の動作や表情筋はとても冷静だったようで、誰に不審がられる様子もなく素早くその作業を終えることができた。
お手洗いから戻った彼は、ソファーには腰を下ろさずにスマホとテーブルの上のトレイを持って店を去った。
遠ざかる彼の後ろ姿を食い入るように見つめながら、あの時ためらわずに行動しておいて良かった、と心の底から思った。彼が私の隣からいなくなってしまった寂しさを感じながらも、私の中にはこれがふたりの別れではないという確信めいた気持ちがあった。さっき私のスマホに送った十一の数字の羅列といくつかの英数字の組み合わせは、私と彼をつなぐラッキーコードだ。
空いた隣のテーブル席へ移動すると、ソファーにはまだ彼の体温が残っている。私はたまらない気持ちになって、彼のデータが表示された液晶画面に口付けをした。
あおいちゃんを待っている間、頭の中で何度も彼の姿を反芻していた。
短い記憶の中からその顔や身体の様々なパーツを選び取り、そのひとつひとつを脳内で優しく愛撫するように再生していく。切れ長の目元、筋の通った高めの鼻、口角のあがった薄い唇と、あくびをした時にのぞいたチャーミングな八重歯、なめらかで長い指、その爪の根元の半月がきれいなかたちであったことも思い出され、やがて私の心の目が彼のすべやかな肌の皮下組織にまで入り込もうとする頃、前方から私を現実に引き戻すあおいちゃんの声がした。
「りんちゃん、お待たせ」
シフォン素材のブラウスに身を包んだあおいちゃんが、私を見つけて向かいの席に腰を下ろす。
「ううん。急だったのに来てくれてありがとう」
「祐一の家にいたから渋谷近かったですし」
「彼氏さん、祐天寺だっけ」
「うん。もうずっと半同棲気味なんですけどね」
「そうなんだ。上手くいってていいなあ」
「うふふ、おかげさまで……」
久しぶりに会ったあおいちゃんの近況報告を聞きながら、私の心はここにあらずだった。他人の恋愛の状態なんて、どうでもいい。あおいちゃんが語るのろけ話に愛想良く相槌をはさみながら、私はずっとどのタイミングで「彼」のことを切り出すかを考えていた。恋に落ちたばかりの心音のビートに任せて話し始めたら、制御不能のマシンガントークにも陥りかねない。
話題のスタートを慎重に考えていると、祐一君の話をしていたあおいちゃんが急に話を止めた。
「そうだ、いいもの見せてあげます」
上の空で話を聞いていた私は、ハンドバッグの中をかき回しはじめたあおいちゃんに慌てて注意を向ける。彼女が取り出したのは、手のひらよりも小さなサイズのチャック付きポリ袋だった。割れものを扱うように静かにテーブルの上に置かれたその中には、根元から引っこ抜かれた人間の歯が一本入っていた。
「何これ、おもちゃ?」
「本物の歯ですよ。祐一の親知らずです。可愛いでしょ?」
あおいちゃんはピンと立てた右手の人差し指を顎に当てて、上目遣いで私に微笑みかける。
「今日、祐一が歯医者さんで抜いてきたんです。持って帰るかどうか聞かれてなんとなく持ち帰ったらしいんですけど、結局どうしていいか分からないから捨てるなんて言うので私がもらっちゃいました」
「持ってても仕方ないんじゃないの」
「祐一の口の中に二十六年も存在したパーツを簡単に廃棄処分するなんて、そんな残酷なこと私は絶対にできません」
「そう。でも、これどうするの?」
「大切に保管して、毎日眺めるとか、かな」
「ふーん」
「ちょっぴり血が付いてるところがいいんだなあ」
あおいちゃんはうっとりした表情でポリ袋の上から親知らずの根元をなぞっている。私はその様子を見つめながら、こんな風に好きな人の身体を持ち歩くことの出来るあおいちゃんに徐々に妬みに近いうらやましさを覚え始めていた。あおいちゃんの目には祐一くんの親知らずの少し虫歯が食っている部分でさえも、琥珀の美しさに映るのだろう。今の私にはそれがなんとなく分かる。
「あおいちゃん、私ね、好きな人が出来たの」
「そうなんですか」
「そうなんですか、って、それだけ?」
「うーん、だって、そもそも私そんなに他人の恋愛に興味ないですもん」
あおいちゃんがトレイの上のジュースにストローを差し込む。オレンジ色の液体が吸い込まれていくのを私は黙って眺めていた。
「運命だと思うの」
私はそうあおいちゃんに訴えかけた。
「はじめて彼を見た瞬間から、ずっと泣きそうなの。まだ出会ったばかりで、相手のことを何も知らないのに、こんなに思い詰めるなんて自分でもばからしいと思うんだけど、気持ちが溢れて止まらないの」
あおいちゃんはストローに口を付けたまま、こちらを見つめている。私の話を真剣に聞くべきなのか茶化すべきなのかを考えているのかもしれない。もう一押し、必要みたいだった。
「私の彼への想いはね、あおいちゃんの祐一君への気持ちと同じだよ」
女は、共感で動く生き物だ。自分の中に相手と共通するものを見出すことでその行動や感情を理解しようとする。女は自分のために泣き、自分のために怒る。私は自分のために、あおいちゃんの力を借りたかった。今日、彼女をここに呼び出した理由は、この恋の協力を頼みたかったからだった。
「……ガチってことですね。それで、相手はどんな人なんですか?」
あおいちゃんがはじめて質問を口にする。
「千塚さんていうの。千塚貴之さん。ついさっき、このお店の中で見掛けた人なの」
「……ついさっき? エイプリルフールか何かですか?」
「くだらないこと言わないで。今日、世界中の何が嘘だったとしてもこれだけは本当、私、千塚さんが好き!」
そう。私、好きな人が出来たの。今ここで出会った人。千塚さんていうの。ううん、まだ喋ってもないよ。なんで名前分かるのって? 相手のスマホからデータ盗んで知った。うん、そう、エイプリルフールってことにしておいて、その部分は。ねえ、そんなことよりも千塚さんのこと聞いて! 千塚さんてめっちゃ私のタイプで、すごくかっこいいの。あ、一般的に言ったらイケメン扱いされるかは分からないんだけどとにかく私の好きな顔なんだよね。右目の下に小さな涙ぼくろがあって、それがなんとも言えず可愛いんだ。あの小さなほくろは千塚さんの繊細な顔立ちを引き立てる最高のチャームポイントだと思う。千塚さんの目元にほくろを作るプログラムを組んであったDNAにマジ感謝! 嗚呼、千塚さんの涼しげな目元を思い出したらなんだかもう涙が出てきちゃった。それでね、千塚さんは八重歯もチャーミングで……。
千塚さんへの気持ちをオープンにしてしまうと、堰を切ったように言葉が溢れて止まらなかった。あおいちゃんは質問を交えながらも、カウンセラーのように冷静な態度でこちらの話を聞き続けてくれている。やはり、あおいちゃんに声をかけて良かった。私のこの様子を見てすぐに引いてしまったりお説教めいたことを口にしたりする人間を前にしていたら、千塚さんへの恋心に水を差された気分になって不条理にブチ切れてしまっていたかもしれない。
「それで、りんちゃんは千塚さんとどうなりたいんですか?」
私の冗長な説明が一通り終わるとあおいちゃんは尋ねた。こちらの目を射抜くような彼女の視線はすでに返ってくる答えを推定しているようでもあった。
「私ね、千塚さんが欲しいの」
あおいちゃんは短く「なるほど」と言ってうなずく。私は相手の予想通りの答えを返したのだろう。彼女は右手の人差し指を顎に当て、斜め上に目線を遣ったまま、言った。
「運命を仕掛けましょう」
祐一くんの親知らずは、あおいちゃんのオレンジジュースの隣に丁寧に並べられている。私の手にしたラッキーコードをもとに彼女はスマホで熱心に何か作業をしてくれていた。この頼もしい協力者が恋人の親知らずを手に入れたのと同じように自分もいつか、千塚さんの口内から抜かれた親知らずを所有することを想像する。
千塚さんの親知らずはきっと私の親指の先ほどの大きさで、生まれたての赤ん坊のように無垢な白さに輝いている。千塚さんの親知らずを手にした私はそれを手のひらの上で充分に愛でたあと、好奇心のままに自然と舌を這わせるだろう。彼の親知らずを口の中に入れて、飽きるほど舌で転がし、その触感を楽しんでいるうちに感極まって、私は、ごっくん! と喉を鳴らしてそれを飲み込んでしまう。食道は歓喜に満ちて躍動しながら千塚さんの親知らずを胃へと運び、妄想を繰り広げる脳みそはたちまちの内に千塚さんの親知らずを受け入れた胃の断面図に占拠される。淡い黄金色のシャンパンにきめ細やかな泡が立ち上るように千塚さんの親知らずは消化液でゆっくりと溶けていき、私の胃の中では、今まで自分の身体に入れたどんな食品とも比べ物にならない慈愛に満ちた消化が始まる。そして千塚さんの親知らずの成分を十二指腸はうきうきしながら分解し、小腸は最大限の歓迎を以て栄養素を吸収していく。
ついに千塚さんの親知らずが私の身体の一部になった瞬間に、もう私はほとばしるイメージを自分の内だけに秘めておくことが出来なくなって、あおいちゃんにこのキュートな心象風景をまくしたてるように話していた。一度、心音のビートのままに愛と欲情を語ることを己に許可した私は、きっともう自分を止めることが出来ない。
「素敵ですね」
あおいちゃんは作業の手をいったん休め、私の欲望に同調する言葉をくれた。
「私も祐一の親知らずごっくんしたいです。でも、飲み込んじゃったらもう眺めることは出来なくなるから、ちょっともったいないかもしれないですね」
「確かにそうだね。じゃあ私、千塚さんの親知らずを手に入れたら、しばらくはキャンディーみたいに毎日舐めたり口の中で転がしたりするだけにしよっと。うーん、だけど私、舐めるだけで我慢できるかな」
「たぶん、りんちゃんは出来ないと思いますよー」
想像力に欲望を刺激されるままに千塚さんの親知らずに想いを馳せる中で私の頭にある不安がよぎった。千塚さんの口の中には、果たしてまだ親知らずが抜かれずに生えているのだろうか。もしも、彼がすでにすべての親知らずを抜いてしまっていたら、私は湧きあがるこの衝動にどう始末をつけたらいいのだろう。どうか、千塚さんの親知らずがまだ彼の口の中にありますように、私に再び出逢う時まで無事でありますように、痛みに疼くことがありませんようにと、千塚さんの口腔内の健康を両手を組んで祈った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます