第4話 悪魔祈祷書

4 悪魔祈祷書




「言わなくてもわかってると思うけどここがわたしの家」


「本当に愛さんの家に住んでるんだ。しかも全然リフォームとかしてないんだね」


「車がないからまだパパとママ帰ってきてないみたい。とりあえず入ろっか。


 久子には見えるか見えないかわからないけど一応心の準備しといてね」


「どういうことだし」


「その、愛さんの幽霊いつも人を驚かせようとしてるのよ」


「フーン、ま、でも久子ちゃんそんなの余裕だし?昨日もゾンビを虐殺ジェノサイドかましてやったばっかりだし!ゲームで!」


「モヨコ、先に開けて」


「は?いい加減慣れなさいよ…」


「あのさ、例えば映画とか花火とか絶対大きな音がするってわかっててもビクってなる、そんなことあるでしょ。


 わたしにとってあの幽霊がそうなの」


「でも家主はあなたでしょ」


「なに、モヨコ、怖かったりするのかな?ならわたし、手伝ってあげてもいいし」


 モヨコは肩を震わせる。気軽に話しかけられてもそれは絢香のおまけだからそう声をかけられているだけ、目を合わせられるときゅっと胸がつまる。


「…そんなことはないわ、大丈夫、手伝いは必要ない」


 そっとモヨコは目を逸らす。


「…なんでだし」


 膝を折りそうになる久子。その肩にどんまいと絢香の手が置かれるわけだがそれはすべてモヨコの背後で行われている光景だ。


「おじゃまします」


 玄関の引き戸を開ける。


「ドーン!!」


 逆さまになった血だらけ半透明の幽霊がモヨコの目の前にぶら下がる。


「こんばんは」


「モヨコちゃん全然びっくりしないから面白くなーい」


 口をとがらせながら薄水色の幽霊、若林愛はぐるりと反転して血を消す。淡い緑色をした人魂がいくつか、その身体の周りを舞う。


「そう、こんなのに何回もリアクションなんてできないわ。


 だから井ノ口さんの生命力、無駄遣いするのはやめてほしいわね」


「そーだそーだ!わかってんの?こっちはあんたを手伝ってあげてるんだからそっちも少しは協力してくれないと困るんだけど」


「ん、アレーいつもいない子がいるねー」


「スルーすんな!」


「え、ちょっと一つ聞いていいかな?


 もう、いるわけ?そこに?愛さんが?


 マジで?」


 その言葉に誘われるようにふよふよと愛は久子に近づくと耳元に顔を寄せてニコッと笑う。なんか企んでる。


「ここにぃぃぃぃいるよおぉおおおおおおおおお!!!」


「うるさい」


「うわっ」


 二人は思わず耳をふさぐわけだがそんな二人を不思議そうに眺めるのが久子なのだった。


「そのリアクション一体なんなんだし…え、もしかして見えてないのわたしだけっていうわけ?」


「久子には幽霊見えないのか…」


「井ノ口さんのご家族にも見えてないみたいだしなにか条件があるのかしら」


「つらいなーさみしいなーせっかくわたしに会いに来てくれたのに見てもらえないなんて」


「全然そんな風に見えないのだけど」


「あーもーっ!久子ちゃんぬきで話すの禁止!のけものにされるつらさ、ご存じ?」


「それは久子には特大ブーメランだよね」


「うぐっ」


 言葉に詰まった久子をモヨコは居心地悪そうに眼を逸らす。


「とりあえずここにいてもしょうがないわ、豆腐を見てもらうにしてもおうちの中に入れてもらえないかしら」


「え、なんで豆腐?あーわたし、湯豆腐好きなの知っててくれたの?お供え物かー!うれしー!うれしーよー!


 でもお供えされたところでおいしくいただけないのがこの身体のつらいところだよね」


「能天気になにを言ってるのかしら。お供えなんてそんなわけないでしょう。豆腐があなたを死に至らしめた凶器かもしれないのだからわざわざ買ってきたに決まってるじゃない…?」


「おっととそうだった」


「いっつもこんな感じなんだよ…疲れる…とりあえず二人とも入って」


「まー実際絢香ちゃんはわたしに憑かれているんだけれども!も!」


「そういう余計なことは言わない方がいいと思うわ」


「いっつもこんな感じって言われてこっちはも見えないし聞こえてないっつの!なんかついていけないのがむかつくけどお邪魔するし」




 そして通されたのは前回と同じ客間だ。3人家族の井ノ口家なので座椅子も三つしかない。モヨコ、絢香、久子がそれぞれ座るとなると。


「え、あやかちゃん!わたしの分の席がないよあやかちゃん!これはいじめだよくないよあやかちゃん!聞いておくれよあやかちゃん!無視はつらいよあやかちゃん!わたしの特別あやかちゃん!」


「あーもううざいうざいうざい、どうせスケスケなんだから椅子なんてあってもなくても変わらないじゃん!何ならその辺浮いてくれてればいいから!」


「悪いわね、愛さん、このテーブル、三人用なのよ」


「めーっちゃどんな会話してるか気になる…もーっいい加減ちょっとぐらい解説してほしいし!」


「幽霊が席ないってごねてる」


「もー席が無いならいいもーん!勝手に座るんだから」


「ちなみに愛さんって今どの辺に浮いているわけ?」


「え、席がないのがむかつくって今久子の膝の上に乗っかったよ」


「ほんとにっ?うわっったたたた」


 思わずのけぞった久子はそのまま座椅子ごと後ろに転がって頭を打ち付ける。


 ふわっと浮き上がった愛は久子をのぞき込む。


「あー大丈夫かなーねー?」


「愛さんが心配しているわ」


「原因はその愛さんなんだけど…見えない!見えないけどやっぱり膝の上とかはやめてほしいし!せめて隣とかに来てほしいんだけど、だめかな、どうだし!」


 足の反動を使って座椅子ごと起き上がった久子は右隣に向かって話しかける。


「わたし反対側だよー、はたから見てるとすっごい間抜けに見えちゃうからこっちこっちー」


「これはさすがに伝えてあげるのはかわいそうだと思うのだけれど」


「久子、幽霊、隣に座るって」


「ちょっと待って愛さん、なんか変なこと言ってウチを煽ってたよね?久子ちゃんそのへんピンとくるってわけ」


「気にしない方がいいと思うわ…」


「久子ちゃん、ちょっと見ない間にケバくなったよね…なんで田舎の自称ハイカースト女子グループってこうなっちゃうんだろう。そのうち盗んだスクーターで走り出すのかなぁ。校舎の窓ガラスも叩き割ったろって言いだすのも時間の問題かも。


 なんていうか見た目が14歳どころかもう」


「幽霊それ以上はいけない」


「え、ええ…さすがに」


「ほんとうにまって!?わたしどんだけディスられてるし!チョー気になる!!」


「明日はかわいいお化粧しようね、久子。大丈夫、素材は良いんだよ」


 ポン、と優しく肩に置かれる絢香の手。


「う、そ、そんなにウチのメイク変なの…?」


 すがるようにモヨコに向けられる久子の目。


「ごめんなさい…わたし、そういのあまり詳しくなくて…化粧水ぐらいはこっそりつけてはいるのだけれど」


「もーっなんなのー!!」


「久子落ち着いて、幽霊もあんまり煽らないでよね」


「そうね。それより本題にうつりましょう。愛さんたちと違ってわたしたちはあまり遅くなるわけにもいかないわけだし」


「じゃあ単刀直入に、幽霊、この豆腐、見覚えある?」


 がさがさと買い物袋から取り出した二つの豆腐。一つは普通の豆腐、もう一つはチューブ状に充填されたモヨコ曰くの栄養豆腐。どちらもこの町で生産されている『用津姫豆腐』だ。


 いつもならテーブルに置かれたものにはぐっと顔を近づけて見る愛なのだが今回は久子の隣でゆらゆらしているだけだ。というのも。


「えーと、パッケージに入ってない状態だったんだよ?中身だけ見てこのお豆腐に間違いない!って断言できるほどのお豆腐ソムリエにはまだわたしは遠いんだよー。お豆腐は好きなんだけど」


「さっきあれだけ豆腐でテンション上がってたのに雑になったわね」


「だってよく考えられたら食べられないんだよーっ!目の前にあるのに絶対手が届かないってつらいんだよ…叶わない初恋みたいなものなんだよ…」


「愛さんのの初恋はワンコインで買えちゃうのね。とんだ売女だわ。でも栄養豆腐か普通の豆腐だったかぐらいはわかるのではないかしら?」


「ひどい!それだけお豆腐を愛してるってことなのに!ちなみに落ちてたのは四角い普通のお豆腐だよ、間違いない」


「絹とか木綿とかはどうなの?」


「今豆腐の種類当てクイズでもやってるってわけ?だいたい豆腐で死ぬっていったいどういう状況だし…」


「それがわかんないから今こうやって幽霊に少しでも思い出そうとしてもらってるんじゃん」


「お料理のプロだって見た目だけでどこの豆腐なんて区別着くわけないし。さすがにそれは無茶ぶりだって久子ちゃんは思うな。そもそも絹とか木綿とか分かったからってそれが一体どうなるって感じだし。両方ともパイナリーで買えちゃうんだから何も絞れないって思うってわけ」


「じゃあ久子はこれからどうしたらいいっていうの?なんかアイデアあるなら聞くけどそうじゃないならとりあえずこの豆腐調べるしかないじゃん」


「いや調べる場所なんていくらでもあるし。むしろ豆腐からなぜ調べに行ったのかな」


「は?どういう意味?そこまで言うならいったいどこが調べられるっていうのか教えてよ」


「え?本当に?この久子ちゃんにおたずね?本当に?ど忘れしてるってわけじゃなくて?


 ここがどこだかご存じ?△△町女子高生殺人事件。それがどこで起きたか…


 ここまで言ったらおわかりだよね?それはここ!


 こここそが犯行現場なんだしそのあとリフォームもされてないみたいだからまずはこの家をちゃんと調べてみるべきだって思うな!」


「「「あ」」」


 久子以外の三人の声が見事にハモった。まさに灯台下暗しってやつである。


「そうね、探偵の基本、それは現場検証だものね。愛さんにとりあえず犯行があった当時の『自室』に連れていってもらいましょう。事件が2年前でまだ何か残っている可能性は低いかもしれないけれど豆腐を調べるよりはましだわ」


「まぁ確かに豆腐よりはそっちのほうがいいか」


「これは久子ちゃんのお手柄ってわけ、感謝すること!」


「ん、いいよー、わたしの部屋だよね、こっちついてきて」


 そう言って立ち上がった幽霊は普通の人間のように歩き出す。なんか足がないというイメージが定着してるものだが目の前の幽霊はちゃんと足があって歩き出すだけに感じる違和感が半端ない。


 でもやっぱり足音はしない。そう言えばイギリスだかどこだかの外国の幽霊には足が普通にあるって何かできいたことがある。そう思うとエルラヴリという名前といい実は国際派の幽霊かもしれない。国際派の幽霊って何よっていうツッコミをすかさず入れるのだけど。


 階段を先に行く幽霊。そのあとを家人である絢香、そして久子、モヨコと続く。さすがにここでは幽霊は幽霊らしく、階段を登ってキシキシと音を鳴らすのは3人の足音だけだ。


 一階に比べれば二階の間取りは一回り小さい。寝室と思われる部屋が3つ廊下でつながれているだけだ。その中の一番手前の部屋が若林愛の元自室だという。簡素な木製の扉にスチールのノブが付いたとてもありふれた扉だ。だがこの奥では2年前に人が殺されている。そう思うとなんてことない扉でもどことなく異様さを醸しだしてくる。


「ちなみに井ノ口さんの部屋は?」


「隣だよ、ここはまだ空き部屋、そのうち物置にしようかってパパが言ってた。んで一番奥がパパとママの部屋ね」


「ひゃーやっぱりあやかちゃんって外人さんだね!パパママ呼ぶ人初めて見たよー」


「うっさいっ!べ、別にいいでしょ!なんと呼ぼうが!」


 絢香は顔を真赤にする。モヨコに言われてもスルー出来るが幽霊に言われるのはままならないらしい。


「とりあえず開けてみてもいいかしら?」


「あ、あわたし掃除してない…」


 見当違いなことを言う幽霊だがモヨコにばっさり切り捨てられる。


「業者の人がしてくれてるから関係ないとおもうのだけれど」


「愛さんが見えないし聞こえないから久子ちゃんには会話の流れが不自然なんだけど」


「それは慣れてもらうしかなくない?いちいち全部伝えるのはきついよ。まぁ大事なことはちゃんと言うから」


「まぁそうなんだけどさ、で、それよりここで愛さんが殺されたってことだよね」


「やめてよ久子、そう言われるとちょっと怖くなってきた…」


「わたしとしてはそんな家を買うあなたのご両親のほうが怖いんだけど」


「う、わたしの親全然そんな事言ってなかったもん!知らなかったんじゃないの?」


「物件にはね、心理的瑕疵物件っていうのがあって自殺や殺人事件があった部屋は一定年数人が住んだという実績がなければそういうことがあったって申告する義務があるのよ。そしてこの愛さん一家が引っ越してから誰も入居してない。つまりあなたのご両親はこの家で殺人があったって聞いているはずなの」


「なんかモヨコって色々物知りね」


「友達がいないと本でも読むしか無いでしょう」


「モヨコちゃんやっぱネクラ…」


「ネクラじゃない!!いいわ、もう開けるわよ!井ノ口さんいいでしょ?」


 モヨコは返事を待たずにノブへと手を伸ばした。


 開かれた部屋には何もなかった。びっくりするぐらいにそう何も。ただ板張りの床がむき出しで家の外側の壁にはリフォームの時についでにあしらえたのであろう備え付けの本棚があるだけだがそれも空っぽである。


 薄くホコリが積もってるものの綺麗に清掃されているといっていいだろう。


「綺麗に片付けるもなにも片付けるものがなかったー…実はこの部屋にはいるの幽霊なってはじめてだけどやっぱりもうわたしの部屋じゃないんだねー…」


「なにもなさすぎて拍子抜けじゃん…やっぱりこれじゃあ事件の手がかりなんて何一つないんじゃないの?」


 と絢香はほっと一息つく。モヨコは厳しい表情でこめかみを抑えていた。


「モヨコどうしたし?なんかきつそうだけど」


 久子が気遣う。モヨコはこめかみを抑えたまま問いかける。


「確認するけど…二人にはこの部屋はなにもない、ただの西日が強いだけの部屋に見えるのかしら?」


 言ってる意味がわからない、怪訝な表情をするものの絢香と幽霊はそのとおりだ、というように頷いた。


「そう」


 この部屋には黒い煙が渦巻いて見えるのがモヨコだけらしい。そしてそれはモヨコが今まで何度となく目にしたヨクナイモノなのだ。今までそれは誰かの身体にくっついているものしか見たことがなかった。


 ここにあるそれは人体にくっついているものと比べれば薄いし量も少ない。それでも線香から煙が立ち上るがごとくこの部屋に渦巻いている。


 しかしこれは事件と関係があるのだろうか。今まで殺人現場に立ち会ったことはない。だからこの煙がすべての殺人現場に存在するかどうかをモヨコが確かめるすべはない。それでもこの煙はすべての人の死についてまわるものではない事をモヨコは知っている。モヨコの祖母が亡くなったのはモヨコが靄を見始めて人に言うのはやめようと思った小学4年生の時だ。


 祖母は自室でそれこそ眠るように息を引き取ったがその部屋にも、ましてや火葬場にもこの黒い煙は渦巻いてはいなかった。


 どういうことなのだろうか…頭が混乱してうまく考えがまとまらない。


 一旦モヨコは目を閉じて大きく息をすった。いろんなことを回想しては思考が実はとある記憶を堂々巡りしているのを感じている。あの日すれ違った顔も見えないそいつのことを。目眩すら覚える。


 堂巡り目眩み。


 再び目を開くとやはり幾筋もの線香のような黒い煙が部屋の中に揺らめいている。そしてそれがどこから立ち上っているのかも。


 なんだろうと近づく。備え付けの本棚は下段はクローゼットも兼ねていたようで引き出しになっている。そこはモヨコにとっては墨を塗りたくったような、なにも見えない。


「二人共、ここにはなにがあるの?」


「ただの引き出しでしょ?」


「どこもおかしくないって思うけど」


「うんー」


 久子と幽霊もそれに続く。そこでこの真っ黒が引き出しだとモヨコは知った。


「愛さんも、特に何も見えない、そういうのね」


 それは本当だろうか、この部屋に渦巻くものは基本絢香の頭上に渦巻く呪いと本質的には変わらないもの、モヨコにはそう見える。だけど幽霊はこの部屋に渦巻くものは見えない、そういっている。


 幽霊は自らがかけた呪いしか見ることができない、ということなのだろうか。


 昔は平気で触れようとしたことのある黒い塊。今となってはなんでそんなことができたかもよくわからない。


 ゴクリと息を飲み込んでモヨコは震える手をその中に差し入れた。指先が呑まれていくがなんの感慨も感触もない。


 二人はモヨコがなにをしているのかわからず、ただ額からかいた汗とその目がひどく真剣なものであったから口を挟む事はしなかった。


 そして一気に引き出す。拍子抜けすることに引き出しは空っぽだった。目線を戻すと黒いものはまだ渦巻いている。


 モヨコは手を突っ込んで上側をペタペタと触る。明らかに何かが張り付けてある。紙の感触なのはわかった。これが真っ黒いもののげんいんなのだろうか。


「え、どうしたの、なんかあったの?」


「そうみたいね、ここ、なんか貼り付けてあるわ」


「こ、怖いの出てきたら困るんだけどそうも言ってらんないよね…モヨコ、取れそう?」


「両端をガムテープかなんかで止めてあるだけっぽいのだけれど…これをカリカリやると爪が汚れそう」


「今そんなこと言う場面!?」


「愛さん、これ、愛さんの仕込みなのかしら?」


「んー?んー…んー…エッチな本隠す男の子じゃあるまいしそんなことしないよー」


「エッチな本隠す男の子だってこんな毎回取り出しが面倒なことはしないと思うのだけれど。まぁ剥がすしかないわよね」


 それにしてもだ。なんなんだろう、この事件は。若林愛の殺人事件に関してこうやって黒い靄を発見したりするのは全く嬉しいことじゃなかった。事件の日に出会ったあいつのことを思いだしてしまう。すなわちあの時若林愛の家を教えてしまったモヨコにも責任の一端があるのではないかと。


 モヨコは張り付けられたものと天板の隙間に指を入れ一気にべりべりと剥がす、




 『アハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハハ…』




 吹き出した黒に視界が埋め尽くされ耳元を忘れようのない奇妙で甲高い笑い声が突き抜けていく。ぐるぐる渦巻くのは黒色か笑い声か。空間すべてが真っ黒でその中で笑い声だけが渦巻き始めて。




 バサリ。


 と音で我に返る。何度か瞬きをして呆けた意識をなんとか覚醒させるとモヨコは改めてこの部屋を見回す。足元にはさっき手落としたであろう茶封筒があった。


 それは書類を入れるような茶封筒だ。両端にはまだガムテープの跡がある。


 封印の場所は赤茶色の染みがそのラインに沿うようになぞられている。


 そして打って変わって先ほどまでこの部屋に渦巻いていた黒い煙なんてものも消えていてさっきまであんなに黒に満たされた壁も今ではただの白い壁紙に僅かな破れ目が覗いてるだけだ。


 背中が冷たい。びっしょりと汗をかいているのに気づいた。夏に近い季節だというのにベッタリと冷え切っている。


「モヨコ…?」


「…なんでもないわ」


「そんな顔して大丈夫なわけないっしょ!ちょっと休んだほうがいいし」


「休むって大げさだわ…ただなんか貼り付けてあったものを取り出しただけでしょう」


「違うでしょ、モヨコはわたしにも転校生にも見えなかったり感じなかったりするものをずっと調べているんだから。ただそれだけなわけないし」


「犬神さん、ありがとう、ちょっと深呼吸するわね」


 バクバクと心臓が響いている。そんな様子を悟られてはいけない。今や何もかもが消えてしまった今モヨコには罪悪感というよりも、とんでもないことをしてしまったのではないか、という恐怖を感じていた。もうこの部屋のどこにも黒い煙はない。まるであの瞬間何かが飛び出して行ってみたいじゃないか。


「続きはウチに任せるし」


 久子はその赤茶色の染みが何なのか全く思い当たらないのだろうか。無造作にびりびりと茶封筒を破いた。


 横で見ていた幽霊と絢香の方があっあっとおろおろする始末だ。


 中からは一冊のノートが出てきた。


 ましてや中学校の前の文具店に売っているものと全く同じノートだというのがさらに拍子抜けした。


 ただし、タイトルを見るまでは。


 赤ペンの殴り書きには『悪魔祈祷書』。


「これは…大当たり?だったら久子ちゃんのお手柄だし」


 横から覗き込んだ絢香がすぐに顔をしかめて泣きそうな声を出す。


「う、な、なによそれぇ」


「井ノ口さん、見覚えは?」


「あるわけないでしょっ!!ていうか気持ち悪い・・・なにそのタイトル」


「あーなになにっなにがでてきたのー」


 絢香の背中から幽霊も顔を出す。


「お、おおなんかすごい思わせぶりなアイテムが出てきたね…」


「存外これって愛さんの厨二的黒歴史ノートとかそんな落ちなんでしょう?」


「えーそんなわけないよーっ!大体わたしそんな怖い感じのやつ興味ないもんー。もっとメルヘンでキュートなポエムだったら書いたりしたかな!それにわたしのファースト詩集『ラブラブラブりんユーラブミー!!』はちゃんとお棺の中に一緒に入れられて燃え尽きました!!せっかくの大傑作詩集だったのに世の人の目に触れることはけしてない悲しみだよ」


 そんなものを遺品から発見したご両親は大変微妙な顔をされたのだろうな・・・いや、でも悲しみに明け暮れたのかもしれない。若林愛らしいノートだと。


 それにノートの表紙の文字は女子高生が書いたとはとても思い難い。


「ということはいったい誰がこんなものを仕込んだのかというお話になるわ。空き家になってからはずっと鍵がかかっていたのだし出入りしたのはこの家を管理している業者ぐらいなものでしょう」


「わかった、パパに不動産の連絡先でも聞いてみるよ」


「あとは犯人が事件の時についでにそこに残していった可能性もあるわね。理由はまったくわからないけれど。それにしてももうこんな時間とは。わたしたちはいい加減帰ったほうがいいかもしれないわね」


 窓から差し込む西日もすでに赤みを帯びている。


「さすがにこれ以上は引き止められないか。モヨコ、久子ありがとう、助かったよ。たぶんわたし一人じゃぜんぜん進まなかったと思うし・・・それにしても何でこのノートがあそこにあるって気づいたわけ?ひょっとしてまた何か見えたの?」


「少し、呪いに近いものが見えたわ」


「このノート、じゃあ全く無関係ってことはないんだ…正直開くの怖いよ」


「でも見ないことにははじまらないわ、どうぞ井ノ口さん」


「え、や、やだよこんなの渡されても困る」


「困るといってもあなたのおうちから出てきたものでしょう?だったらあなたが持つべきだわ、はいどうぞ」


「わー何かいてあるんだろ興味ある」


「だったら幽霊がもってよっはいっどうぞっ」


「むりー。だってほら」


 とつかむ動作を繰り返す幽霊。ノートは手元を通り過ぎる。


「もーっなんなの、ノートが次の手がかりなんだからさっさと見ればいいし!そんなどうぞどうぞみたいなコント、待ってないっていうの!いつまでたっても帰れないでしょーっ」


「なら久子、見てよ!いうだけなら簡単でしょ」


「ここでわたし断ったらどうせ終わんないやつだし、いいよウチの女見せてあげるし!」


 ひったくるように奪い取るとがばっとページを開く。


 食い入るようにページを見つめる久子。モヨコと絢香はかたずをのんで見守っている。幽霊はふよふよ浮きながら久子の肩越しにページを覗き込んだ。


 が、まだ久子は言葉一つ発さない。先に耐えられなくなったのは絢香だ。


「ねえ、何が一体書いてあるの?」


「なんか…漢字がいっぱい書いてあるんだけどよくわからないし…暗号ってやつ?モヨコならわかる?」


「いえ、わたしもそういうの詳しいわけではないんだけれどとりあえず見させて貰うわ」


 開かれたページには久子が言う通りびっしりと漢字が書き連ねられている。横の罫線しか入っていないノートなのに文字は原稿用紙に書いたかのように整列している。一文字一文字の大きさもワープロのようにしっかりと同じ大きさの枠に収められており書いた人間はよほど几帳面なのだろう。が、字自体は汚い。画数が多い字などは黒く潰れ何かの漢字だろうな、となんとか判別できるものもたくさん混じっている。前後の漢字から拾ってなんと書かれているのか見当をつけようとしてみても意味のある単語を見つけることは難しい。


 改行や空白はなくこのままでは文章なのか暗号なのだか判然としない。平仮名やカタカナが混じっていないからと言って文章ではないと結論付けるのは早いと思ったのだが読める部分だけの一文字目等を拾ってみても意味はなさない。


 ただ字には何となくの偏りが見られた。同じ字がある、というわけではない。ただうっすらとなにかの法則で並べられている、という感覚だけがあった。


「ただの厨二ノート…と決めつけたいのだけれど出てきた場所が場所だからそう決めつけるわけにはいかないのでしょうね」


「これ、本当に幽霊が書いた奴じゃないの?」


「そんな愛の一言も書いてないようなかわいげのないノートわたしが書くわけないよー!失礼するなぁ」


「でも今のところ手掛かりはこれしかないわけね。はぁ…


 さて、じゃあこれで今日は解散ね。疲れたからお兄様にいやしてもらわないと…」


「え、待って待ってこのノートはどうするのよ、モヨコ」


「あなたのおうちから出てきたものはあなたのものでしょう」


「そんなこと言われても…こんなの持ってたら呪われそうじゃん!」


「現在進行形であなた呪われてるでしょ。案外呪いと呪い同士が戦いあっていい感じに相殺されるかもしれないわよ」


「なによその超理論、そんな対決ホラー映画みたいな展開およびじゃないんだって。


 じゃあ久子が持って帰って!こういうの信じてないんでしょ!?協力してくれるって言ったし」


「だからってそんなの好き好んで押し付けられたいってわけないし。!伝うことは手伝うよ、でも久子ちゃんの戦場はここじゃない!


 ちゃんとわたししかできないところで調べてみるからこれは絢香が調べればいいって思うな!」


「わ、わたしはインターネット担当なんだよ!ネットで拾える情報で貢献するんだからこんなノートにかまけている暇ないっていうか」


「インターネット担当って今どきネットない家ないでしょ。楽してずるしてはいけないって思うわけ!」


「そ、そうなの…?」


「モヨコの家は特別!とにかく絢香は甘えない、わかったら受け取るし」


 グイっと押し付けられてついに絢香も観念してノートを受け取る。


「ほ、ほら、帰るよ、モヨコ」


 よほど興奮したのか久子は顔を赤くしたままモヨコの手を取った。モヨコは少し身を震わせるが振りほどいたほうが怖いのでそのままうなずく。


「え、ええ…」


 本日は解散。




「ただいまなさーい」


「あれ、今日も遅かったわね、モヨコにしては珍しい」


 井ノ口邸と大して変わらぬ呉家である。モヨコは土間でカカトに引っかかった学校指定の革靴を指で引っ掛けて脱ぐ。


「んーこのへんに転校生が来たって言わなかったっけ?せっかく近くだからいろいろこのへんのこと教えたりしてるの」


「こんなところわざわざ引っ越してくるなんて珍しいわねー」


 台所の方からは晩ご飯の匂いがする。多分味噌汁と野菜炒め的な何か。


 かばんを置くとモヨコはそのまま居間へ。部屋の中は布団をしまっただけのこたつ机が置きっぱなしなのである。呉家ではここがいわゆるリビング兼ダイニングだ。こたつ机の上のリモコンに手を伸ばすとテレビはあまり興味のそそられないニュース番組ばっかりだ。


「ねーお母さん、ところでその転校生が引っ越してきたのって前にその…若林さんたちが住んでた家なんだけど」


 両親がほとんどこの事件についてモヨコに語りたがらなかったのはわかっていた。言い淀んではしまったもののいずれわかってしまうことだろうし。なにしろ田舎では噂が回るのは早い。母親の耳にまだ入ってなかったことが不思議なぐらいだ。


「あー…それはなんというか…ちょっと…もう2年も経つんかな?あの事件も全然犯人捕まらないね」


「みたいね、まぁ明日もその転校生のところ行くと思う」


「あら、仲良くなるの早いのね。どんな感じの子なの?」


「見た目外人で名前日本人って感じだと思う」


「はぁ?まぁそのうち連れてくればいいよ。アンタに友達なんて珍しいし」


「お母さんひどいな…自分の娘に友だちいないとか…」


「だって休みアンタ一歩も家からでないじゃない。手伝いもしないなら家にいないほうが助かるわ」


「う…だって肉体労働…キツイし…」


 この町の大多数の世帯は農業で生活している。だから道を歩くと見かけるのはみかん畑もしくは田んぼそういうものがほとんどだ。もちろんモヨコの家もそれに含まれている。今も父親は家の前の道向かいに作ったビニールハウスで野菜の様子を見ているはずだし。


「はいはい、一応女の子だもんね。まぁ最近はいいわよね。お母さん子供の頃はそんなの全然関係なかったのよ」


「う、うん」


 でもろくにうちのことを手伝っていないのは後ろめたいのは変わらないので歯切れが悪い返事をモヨコは返す。


 そして父親が帰ってくると3人は食卓を囲む。メニューは予想通り。


 ノートのことが気にかかった。あの内容はどこかで見たことがあるような気がしたのだが何なのか思い出せない。書いてある文字には何一つ聞き覚えのある単語は混じっていなかったのにこれはどういうことだろうか。といっても今はノートは井ノ口邸にある。どれだけ考えに沈んだところでなにを閃いても答え合わせはできないのだ。


 それに宿題だってある。高校は校区外の進学校を目指しているのでそのための勉強もしなければならない。


 モヨコは選択の自由がある高校からはせめて誰一人自分のことを知らない学校に行きたかったのだ。久しぶりに口をきいた久子は相変わらずモヨコを嫌っているのが分かった。中学のような生活からすぐにでも抜け出したい。


 だから日付が変わるような時間まで教科書と図書館で借りた本だけを頼りに勉強をする。


 けれどここ数日は絢香と若林愛を名乗る幽霊のことが完全に頭から離れることがなくいまいち集中ができない。


 何度も続くあくびを噛み殺せなくなってきたところで小さく溜息をつく。


 まずはゆっくりと身体を休めよう。あわよくばお兄様の夢が見れればいいな、と布団の中に身体を丸める。


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