絶対探偵 呉 モヨコ

@zeroitikinngu

第1話

絶対探偵 呉モヨコ


巻頭歌


脳髄が二つ在つたらばと思ふ

考へてはならぬ

事を考へるため


        (猟奇歌/夢野久作)


0 いなか、の、じけん


 銀色の軽自動車が走っていく。見える範囲に全くビルがない。そんな風景を見るのは金髪の少女には初めてだった。あたりに広がるのは畑、山、それに小さなアパートや家ばかり。

 ため息が重い。これが旅行ならよかったのに…

 ゴールデンウィーク、金髪の少女は引っ越し予定の町の下見にと母親と来ていた。父親はまだ仕事が終わらせられないらしい。少しでも早く町に慣れてほしい、というその配慮もこの町はあれもない、これもない、退屈な空気だけが満ちている。なんで東京から引っ越すかなぁと毒づくが今度から中学2年生、という身分の少女では反抗もすることができない。

 ましてや引っ越す予定の家はさらなる山奥にあるらしい。家と家の感覚がどんどんと広がり、見えている家が全部瓦屋根ばっかりになる。最後にコンビニを見たのが何分前か思い出しているところで車は小さなY字で左に曲がる。

 中央の白線も消えてすれ違うには少し狭い道路をちょっとだけ走るとその家はあった。

 状態の割には格安だったのが購入の決め手だったらしい。もともと田舎への引っ越しを考えてた両親は乗るしかない、このビッグウェーブに、受験も来年だからまぁ何とかなるとの考えで引っ越すことを決めた。

 2階建ての日本家屋は今まで少女たちが住んでいた2LDKの何倍も広い。けどそれだけだ。

 改めて周りを見ても本当に何もない。自然が残って素敵、という感性になるにはまだまだ若かったしライブもイベントもショップもないのは今までの世界が終わってしまったようだ。

 少女と同じく金髪の母親は大きな家にテンションが上がったらしくさっそく不動産屋から借りた鍵で玄関を開けてはしゃいでいるのだが少女の方はとてもそんな気にはなれない。

 ふと背中に視線を感じた。

 振り返るとくねった道の向こうに同い年の少女の姿を見た。腰まで伸びた真っ黒な髪。

 人形のようだ、と思ったのは整った容姿以上にその顔に何も表情が浮かんでいなかったからだろう。

 少し気味悪さを覚えていると家の中から母親の呼ぶ声がする。

 その視線から逃げるように少女も続いて家の中に入った。

 帰るころにはもう黒髪の少女の姿はなかった。

 ほっと安心のため息をついた金髪の少女はまだしらない。

 この家が一体どんな家であったか、それを知っていればいくらでも引っ越しに反対しただろうに。


1 霊感!


 …………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。

 もう平成を数えて20年を過ぎるというのにこの町のこの中学校の校舎ときたら未だに木造だという。消防法とか建築法とか色々ともろもろの諸条件をちゃんと満たしているのかと不安なのだがそこについては誰も触れやしない。多分目に見えない大きな力というものが働いていてそれがこんな学校をここに残しているのであろう。うん、多分。

 おかげでチャイムを鳴らすはずの放送施設にも年数相応のガタがきているのでキンコンカンコンの金属音がなにをどうしてこうなったとしかいいようのないノイズと振動混じりになってしまうのである。

 さっきからずっと机に突っ伏したままの少女はピクリ、とその音に反応した。机に広がりっぱなしの長い黒髪がゆるゆると持ち上がり始める。

 未だに眠さの残る目をしている彼女はやっとで身体を起こしたもののふらっとその重みで倒れそうになる。

「うー…」

 なんとか持ちこたえると気だるげに視線を前に向ける。彼女には憂いの帯びた表情がひどく似合う。

 昨日はせっかくお兄様に手作りの料理をふるまおうとしたのに指を切るというみっともない姿を見せてしまった。

 が指先に巻いてもらった絆創膏を見るとちょっと口元が緩む。

 黒板の上の時計はもうホームルームの時間を指していた。教室の中もすこしずつ静まっていく。

 ガラガラと前の扉が開いて教師が入ってくる。少しだけまだあどけなさが残る女教師。

「みんなー、おはよーございまーす!!」

 もちろん教室は静まり返る。なにしろ小学生低学年でも教育チャンネルでもないのだ。

「あ、あれ…元気ないのかなー?お姉さんに相談してもいいんだよー」

 とクリップボードを胸に抱えたまま不安を浮かべる彼女。

「あ、あれ…あれ…えっと…その…元気が無いってことはなにか悲しいことが起きたんだね、悲しいときは先生に相談してもいいんだよ!」

 女教師がどんと胸を張るともはや失笑すら起きない。嫌いではないが毎回この流れを見させられるというのも。

「はい、きりーつ」

 呆れた声で学級委員が号令をかけた。

「えあ、あれ?ちょと先生まだ号令って言ってないですけど!?」

「れーい」

『おはようございます』

「あ、はい、おはよ…」

「ちゃくせーき」

 すっかりしょげ返る女教師。いつものホームルームの風景だ。

 コホンと席をしてから女教師は気を取りなおした。先生は先生なのだ。常に胸をはってカッコ悪いところなんて見せてられないしね。という努力の現れなのだ。

「さて、3月は別れの季節といいますけどそしたら4月は出会いの季節ってことになりますよね。

 みなさん、新しいクラスには馴染めましたか?

 悲しい別れもあれば嬉しい出会いもあるわけで、月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり

という言葉もありますよね」

 と言って国語を担当する彼女はちょっと得意げ。

「せんせいーそれってどういういみなんですか」

 まだ古文なんてものを習ってないのでクラスの男子が質問する。

「はい、いい質問ですね!これはですね、月日というのはもはや過ぎ去った旅人のようであり、今過ごしてるこの時間も旅人なのだ!っていう意味なんですよ!」

「それで出会いと別れにどうつながるのー?」

 今度は女子から。

「まぁ結局すべて過ぎ去ってしまうってことですよね…えっとその…出会いも別れも過ぎ去って結局は、あれ、う、その」

「先生オチも付けれないのになんかちょっと良い感じの言葉引用するいい加減やめてください」

「ひどい!!」

『ひどくない!!』

「なんでそこだけ満場一致なの!?学級崩壊だよ!!いいよもう!!いいよ!!!転校生来てるからちょっと国語教師っぽくかっこよく紹介したいと思ったらこれだよ!!!ウワァァァァァァン!!!」

 『転校生』の一言で教室がざわめき始める。どんな子だろう。男かな、女の子かな。

 そんな空気にまったくなじまず黒髪の少女は大きく生欠伸。

 眠い…もう一回寝たらさっきの夢のつづき見れるかな…お兄様ぁ…

 彼女は自分の世界にずっと浸っている。

「はっそんなに転校生が見たいなら見せてあげますよ!転校生カムヒアー!」

 ともう国語教師のプライドもかなぐり捨てて英語で呼びつける。

 続いて入ってきた姿に教室が静まり返る。

 揺れるツインテールは金色。青い瞳。

 こんな田舎町じゃまずめったにお目にかからない、そうそれはどこから見ても外国人だった。

 教室中が彼女の一挙手一投足を見守る中つかつかと彼女は教壇まで歩く。

「そ、それじゃプリーズセルフイントロデュース?」

 自信ないのがバレバレのカタカナ英語で女教師が懇願する。

 フッと吐き捨てるような意地の悪い表情を彼女はした。クラスの誰もがそれを見逃したようだが黒髪の少女はそれを見逃さない。

「私は井ノ口絢香。見た目はこんなですけど戸籍は普通に日本。

 両親はふたりともイングランド出身だけど完全日本に帰化してしまっていますので。生まれも育ちも日本語だから英語もしゃべれません。よろしくお願いします」

 イギリスをイングランド、なんていう口ぶりに気取りを感じてなんかマウントを取られた気分だ。

 絢香の後ろに茫洋とした黒い残滓が見える。それは誰もが見えるわけではなく黒髪の少女、彼女だけだ。


 一時間目が終わって休み時間に入ると転校生の絢香の周りには人だかりができる。前にどこに住んでたの?部活はなにかしてた?その髪きれいだよね。そんなふうに浴びせかけられる質問の嵐、嵐。

 それに比べれば黒髪の少女、呉モヨコの周りといえば人っ子一人いない閑散っぷり。

 まぁ今日は転校生も来てるのだからしょうがない、という訳でもなかった。モヨコの周りには常に誰もいない。それというのも…

 普段は机に突っ伏して眠っては夢の中でもお兄様に会いたい、なモヨコであったわけだけど今日はちょっと違う。自己紹介の時に見えた絢香の後ろに浮かぶ黒い残滓。それが少し気になったわけだ。

 今もこうやって人だかりの中心、つまり絢香の真上には黒い霧のようなものが浮かんでいる。

 それが一体なんなのかモヨコにはうまく説明できないしむしろよくわからない。

 確実に言えるのはそれは単純に『悪いモノ』だということ。

 小学生の頃のモヨコは人に見えないモノが見えるということでそれはもう考えもなしに「△△ちゃん、頭のところ、なんかついてる」「○○ちゃんの膝のところ黒いのなんか出てるよー」とか「××ちゃんの手、黒くなってるー」なんて言っては気味悪がられたのだがそこまでは良かった。そのあと△△ちゃんはおでこを縫うことになってしまうし○◯ちゃんは膝の皿は割れてしまうわ、××ちゃんは図工の時間の彫刻刀で親指を3針縫う大出血だ。それからモヨコはなんだかわからないけどそれは怪我を呼ぶものだ、ということで見つけ次第なんとか払ってやろうとするもののその黒い霧は触れるものではないみたいで指先を素通りする。だから結局その子は怪我をする。

 おかげモヨコは不吉を呼ぶ魔女、不気味な預言者なんてことになってしまってそれが歪みに歪んで『モヨコに触られた場所はケガをする』なんてねじ曲げられてしまって自然に友達もいなくなるしこんな小さな町ではそれはもう公式の事実で誰も彼もが近寄ろうともしない。

 そんなことよりも今は絢香の上に浮かぶもの、だ。今までモヨコが見たものといえば身体のどこかに付着していてそこを怪我する、というパターンばかりだった。ああやって身体から離れた場所にある、というものは見たことがない。

 黒い霧はその輪郭を揺らめかせながら不定形に形を変えたりもする。けれどあれが結局何をするかはわからないし、それはもう関係ないや、とモヨコは諦めた。

 今まであの悪いモノをどうにかできた試しなんてなかったし、また気持ち悪いなんてレッテルを貼られるのは慣れてしまってもやはり嫌なものなのだ。

 さてもう寝ようかな、と机に目を向けようとした瞬間、視線を感じた。

 ばっちりと絢香の青い目と視線が交錯する。そこに浮かぶ不可解そうな表情。

「ねぇあの子って…」

「あーモヨコ?あんなの気にしない方がいいよーっていうかむしろ近づかないほうが絶対いい。あのコと一緒に不幸になるんだから」

「ふーん、やっぱりそうだよね。幸薄そうっていうかネクラっていうかいかにもって感じだし」

「そうそう、いかにも、いかにもな子だから近づかないほうがいいって」

 転校生の性格の悪さを改めて確認したモヨコは、黒い霧に天罰落とされればいいのに!なんて思いながら机に突っ伏した。


 最悪なファーストコンタクトで転校生の絢香になんか絶対に近づかない!そう誓ったモヨコだったのだけれど結局昼休みなんかで廊下ですれ違うときはつい絢香の姿を目に追ってしまう。ギシギシきしむ古い廊下の上では彼女の金髪碧眼は否応なく目立ってしまったし、それ以上にモヨコは彼女の頭の上に浮かぶ黒い靄につい目がいってしまうのだ。

 今でも黒い靄をまったくみないわけではないがそれはやっぱり手だったりお腹だったり身体に付着しているもの。誰も浮かべてなんていない。モヨコの視線に気づく度に度に絢香は怪訝な視線を返す。慌ててモヨコは目をそらす。

 だけどお互いに声をかけるなんてことはなく1週間が過ぎ去ろうとしていた。

 外では夏をアピールするセミがミンミンと鳴き始める6月も半ば、放課後の教室の中にまで強い日差しが差し込んでくる。

 モヨコは一人で雑巾を絞って教壇を拭いたり床を掃いたり。本来なら掃除当番は5人で1グループなのだが見ての通りモヨコは仲間はずれで同じグループのクラスメイトは掃除よろしくの一言もなくさっさと荷物をまとめて部活なり家に帰るなりしている。

 まぁモヨコとしてもそんな人達に囲まれて掃除をするのも居心地が悪すぎるのでぼんやりお兄さまのことでも考えながら半自動的に手を動かして掃除をする方が楽なので何も言わない。

 そして最後に花瓶の水を入れ替えて今日も掃除が終わり、その時にギシギシと教室の後ろの扉が動いた。古すぎるせいで後ろの立て付けは悪くなかなか開かない。だから基本はみんな前の方から出入りをするのだけど。

「あーーーもうっ!!なんで開かないのよこのオンボローっ!」

 バキャン!と木製にとってはなんか致命的な音がして扉が開いた。

「はぁはぁ、ちょとそこのネクラ!」

 頑張りすぎたのだろう、そこにはひたいに汗を浮かべた絢香がいた。

 モヨコはわざとらしく後ろを振り返って誰のことを呼んでるかわからないって首をかしげる仕草をやる。

「そんな小芝居なんていらないのよーっ!今この教室にいるのはあんた一人でしょ!いいから返事しなさいよ!ネクラ!」

「わたしはネクラじゃない。モヨコだから。それじゃ帰るわね」

 とそのまま絢香の横をすり抜けようとするモヨコ。

 がっと肩を掴まれる。

「なんで呼んでるのに帰るのよ!おかしいでしょ!少しは人の話を聞きなさいよ」

 そこで今まで表情に出すのを抑えてたモヨコもむっとする。

「わたしネクラって言われてまでそういうのに付き合うほど人間できてないから」

「なによネクラって言われるのが嫌ならさっさと否定すればいいじゃない!誰に聞いたってそういうもんだからてっきりあんたのあだ名かなんかだと思ってたわ」

 と絢香も売り言葉に買い言葉。

「そう、わたし帰ってお兄様とイチャイチャしないといけないから帰るわね」

 普段はそんなムキになったりしないモヨコもなぜか絢香に言われるのは許せない。

「あんたその年にもなってブラコンなの…やっぱり気持ち悪いじゃない。しかもなによイチャイチャって」

「わたしが放課後何しようと勝手だと思うけど?」

 モヨコは苛立たしげに長い黒髪を指でいじる。

「ったくアンタの兄貴も兄貴よね。こんな気持ち悪っ…うっげほっげほっ」

 モヨコが制服のスカーフをおもいっきり下に引っ張ったせいで絢香の息が詰まる。

「な、なにする…」

 さっきは物理的に言葉に詰まったが今度はモヨコのどんより黒い目に気圧されて言葉に詰まってしまう。光ある全てを飲み込む目。

「わたしはいいのわたしはわたしでわたしが気持ち悪いこと知ってるんだから。だけどそれとお兄様の人格は何一つ関係ないことだわ。お兄様の人格がわたしの影響をうけることなんてあり得るはずがないのに。お兄様は高潔で清廉なお人。あなたにいったいお兄様のなにがわかるっていうの。そもそもお兄様を侮辱するなんてありえない。お兄様をお兄様をお兄様を」

 淡々と平坦な声。だけど背筋が寒くなるほど込められた負の渦巻き。スカーフを握り締めるモヨコの指先がぎりぎりと震えている。自分の頭がぱっくりと怪物にくわれてしまいそうな恐怖と闘いながらなんとか絢香は言葉をひねり出すことに成功する。

「…う、うぅその、ごめんなさい」

「謝って済むなら警察はいらないですから」

「ふぐっぅうう怖いです…モヨコちゃんそんなに怒らなくてもいいじゃない、えぐ」

 …モヨコ、ちゃん?

 そんな呼び方されたのはいつ以来だろうか。思わず絢香の顔を覗き込んでみる。さっきまでの憎らしい表情とは打って変わって碧い瞳に涙いっぱい浮かべている。

 あれ…調子が狂う。こんなはずじゃ…

「うわぁぁぁぁぁぁぁんっちょ、ちょっと話を聞いてもらいたかっただけなのにっだけなのに~っ!!なんでなんでいじめるのっ」

 大声で泣き出してしまった絢香はせっかくの美人さんが台無しだ。適当にあしらって帰ろうと思っていたのにさすがにこのまま放置するのは気が引けるのでカバンの中を漁るとハンケチが出てきた。

「先に少し落ち着いてもらえたら助かるんですけど」

 絢香は受け取るとそれでぐしぐし顔を拭く。それにしても小生意気で性格が悪いはずの絢香が今はまるで小さな子供のような有様である。などとギャップを感じていると絢香のえづきがだんだんと治まってくる。

「ありがとう、落ち着いた」

 とハンケチを差し出す絢香なのだがそれは涙どころか鼻水も付いているので正直受け取るのは気が引ける。もうこのハンケチも使えないなぁ…お気に入りだったのになぁ…とモヨコに切ない思いが去来した。

「普通こういうのって洗って返すねっていうところだと思うのだけれど…」

 触りたくもない、とは流石に言えなかった。また泣かれると困るし。

「あ、そう、そうだよね、じゃ、じゃあ洗って返すっ」

 なんか喋り方も若干舌っ足らずになってるような。

「なんか意外…」

「な、なにが?」

「いや泣いたりするんだなぁって思って」

「え、あ、うっ!ば、バッカじゃないの!?これはアンタを引き止めるための演技に決まってるじゃない。本当は全然泣いてなんかないし怖くもなかったわよ!」

「目が真っ赤だと説得力余りないと思うのだけど」

「うーうるさいー!それよりも早くわたしの話を聞きなさいよ!」

「しょうがないな…でも聞くだけだからね。わたし早くお家に帰りたいんだから」

「わかったならいいのよ。ところで」

 絢香はキョロキョロあたりを見回してから声を潜める。

「…みんなにきいたけどあんたって実はその、不思議な能力とか持ってるでしょ?」

 ああソレか…予言とかそういうのか。たまに興味本位で訊いてくる人間はいる。まぁそういう人間はいつも適当にあしらって終わりだ。

「不思議な能力とかあるわけないじゃない。わたしはみんながいうような予言もなにもないわ。

 平々凡々な日々お兄様に愛される妹を目指すだけの女よ」

「…嘘だ」

「嘘ついて得なんてわたしにある?」

 絢香は答えず視線を上に向けた。つられてモヨコも上を見る。絢香の頭上では相変わらずの黒い靄がウロウロしていた。

「ほら、これ、見えてるんでしょう?」

 心臓が飛び跳ねるかと思った。

「…これって?」

 悟られまいとモヨコは平静を装う。

「真っ黒のやつ、見えてるんでしょ」

「え、もしかしてて井ノ口さんも見えてるのかしら」

 憂いしかなかったモヨコの顔がぱぁっと輝く。初めて靄をみてからはや10年、誰も見えないし信じてくれない嘘つきペテン扱いにようやく同類が現れたのだ。裏腹に絢香は冷静に答える。

「まぁ自分の頭の上に浮いているんだしね、でコレって一体なんなの?」

「それを訊かれると実に困る…身体から離れているのって見たことないの。わたしが今まで見たのは体の一部にくっついているものばっかりだったから。そしてそれがついた場所は近いうちに怪我をする。今まで見たきたものって全部そういう感じだし。だからわたしはただ単にそれを悪いモノって呼ぶことにしているけれど」

「悪いモノか…まぁ本当はわたしもだいたい予想ついてるんだけど…」

「予想ついてる?」

「うん、この黒いの」

「じゃあわたしに訊かなくても良かったんじゃ…?」

「でも誰にも他に相談しようがないじゃん…

 これって多分、わたし」


『呪われているんだ』


「え?」

「だから呪われてるんだって!これは絶対呪いなんだよ、わかる!?」

「…いや全然わからないけど。だいたい呪いって言われて信じれると思うのかしら」

「だからアンタに相談したんでしょ?アンタだって人に見えないなんかが見えるからそうやってハブられてるわけでわたしにそういうのいうってお門違いじゃないの?」

「それはそうかも知れないけど…でもだったら自業自得じゃないの?だって呪われるってことは呪われるようなことを自分か家族か先祖がやっちゃったってことでしょう?」

「でも巻き込まれるタイプの呪いだってあるわけじゃん。不可抗力っていうかさ。わたしは呪われるとわかってなんかやるようなDQNじゃないよ」

「ん、でそれが呪いってことでもういいけれど」

「なにその言い方!!しょうがないって感じだすの止めてよ!これはほんとに呪いなんだからね!」

「じゃあ呪い、か。呪いなんてでもわたしにはどうしようもないから。今まで目に見えてた黒い靄にしたってどうにかできた試しないし」

「あ、それは大丈夫、呪いを解く方法はわかってるの。そのためにアンタにも協力して欲しいの」

「えー…それってどれぐらい時間かかるの?そもそも放課後お兄様イチャイチャタイムジャマされるのってわたしにとっての一番の苦痛なのだけど」

「ちょっとは友達のためになんかしてくれてもいいじゃん」

「…えっと?」

 モヨコは後ろを振り返った。そろそろ窓から差す光が赤くなり始めている。

「同じネタは二回もいらないよ!アンタ、アンタがわたしの友達なの!わかる!?」

「友達なのにアンタ扱い…?」

「う、じゃあどう呼べばいいのよ。呉さん?モヨコちゃん?」

「呼びたいように呼んでくれればいいわ」

「じゃあやっぱりアンタでいいじゃん!!」

「で、呪いを解く方法ってなにかしら?」

「なにげにモヨコスルースキル高いよね…それを説明するには見てもらったほうが早いと思うんだ。だから今からうちに来てくれない?」

「ん、ノーサンキューですね」

「なんでそこで今日一番のいい笑顔するのよっ!友達の家に遊びに行くなんて学校生活ではありふれてるけどメインなイベントじゃない!」

「いや、だから、お兄様と、イチャイチャしないといけないから、ね?」

「そんなにだめな子に言い聞かせるようにゆっくり説明するんじゃない!!」

「っていうか明日じゃダメなのかしら」

「明日になったらまた明日っていうじゃん。さすがにわたしだってそれぐらいはわかるよ」

「モヨゥ…」

「無理に変な口癖作って困ったアピールしなくていいから。アンタはわたしの家に来るの、いい?」

「…うー」

「いいじゃん、だって今からわたし達、友達なんだから」

「下心ありありなのにね」

「まったく下心がないってほうがレアじゃない。ほら行くよ」

 差し出された手のひらにモヨコは首をかしげた。

「友達同士なんだから手ぐらい普通につなぐでしょ」

「…わたし百合属性ないんて持ち合わせていないわ」

「わたしもないよ」

「ならいい」

 そしてモヨコは絢香の手を握る。その時が本当の今日一番のいい笑顔だったのだけど絢香は見逃した。


 ずいぶんと長話をしていたみたいで中央玄関にもほとんど靴は残っていない。グラウンドも閑散としていて残っているのは後片付けを任された下級生ぐらいなものだ。青々とした葉をつけた並木道も今は赤く染まり。

「あ、そうだ、ちょっと家に遅くなるってメール入れるわね」

「うん、よろしく。ところでモヨコの言う黒いのってあの辺の子たちにもやっぱりついてたりするの?」

 とグラウンドを指さす絢香。

「あるのかもしれないけどわたしあんまり目よくないから。10メートルぐらい離れたらほとんど顔もわかんないぐらい」

「ならメガネかければいいじゃん」

「メガネかけるといかにもネクラって感じになるからいやだもの」

「それはかけるメガネ次第でしょ。じゃあコンタクトは?」

「自分で自分の目を突くとか…どんなドMなのよ」

「いやいやどんなに不器用でもコンタクト入れようとして目は突かないと思うけど」

「それはコンタクトに挑戦したことがない者の強がりというものよ。それより井ノ口さんの家はどの辺なの?」

「南上地区っていうの?あんまり良くわかんないんだけど住所にはそうなってた」

「あの辺って家建てたりしてたかしら」

 こんな僻地の町ではアパートやマンションのほうがレアでわずかばかりの町営住宅地があるぐらいだ。ほとんどだれもが一軒家に住んでいる。ということで引越しという場合はほとんど実家にリターンするか新規で家を建てるかのどちらかになる。そして絢香の親は帰化したとはいえ両方外国人であるのだから後者になるはず。

「んっとなんか買取ったみたい。中古物件だよ。しかも小汚い…まぁだからこそ一括で払えちゃうぐらいなやっすい金額だったみたいだけどさ。でもわざわざこんな田舎に引っ越すなんて…」

 校門を抜けて左側へ。歩道のすぐとなりはもう田んぼが広がり四方八方は山に囲まれた風景。

 ぬるい風が吹き抜ける。

「田舎なのは否定しないわ」

 などと応えながらモヨコは南上地区にある空き家について考えていた。南上地区はモヨコの住んでる南下とお隣なので大体はわかる。家もまばらに並ぶこの町でもさらに僻地よりな場所なせいでほとんどお互いの家のことが筒抜けになってしまうようなそんなところだ。

 だから空き家なんてものもすぐにどれか思い当たるのだけど正直その心当たりだけは当たらないでほしいなぁって思う。だってモヨコの記憶が確かならば。

「ここだよ」

 と先を歩いていた絢香が足を止めた。

 嫌な予感が当たった。木造で作られたと黒い屋根瓦。この町では当たり前の家。ただ他の家に比べれば黒ずみ方がひどい。木、本来の色がほとんど消えてしまっている。砂利を敷き詰めただけの殺風景な庭に入った。

 玄関の前には申し訳みたいな観葉植物の鉢植えが置いてある。

「うちの親両方共仕事遅くて…っていうかわざわざ隣の県まで働きに行ってるせいなんだけどね。からまぁ誰もいないから遠慮はいらないよ」

 と鍵を取り出す絢香を見てモヨコはやっぱりもともと都会に住んでた人間は違うなってちょっと感心した。自分の家もそうだけどこのへんで玄関に鍵かけてる家なんて見たことがないのだ。


 絢香はこの家で何が起きたかを知っているのだろうか。町民以外はもう誰も覚えていないような、そして目の当たりにした誰もが一生忘れることができない一昨年に起きたあの事件を。

「んじゃ、はい…ギャーーーー!!」

「うぐっ、く、苦し…どうしたのよ絢香」

 扉を開けるなり叫びだした絢香はそのままモヨコに縋りつく。そしてふるえる指で家の中を指さした。

「お、おば…おば」

「おばあちゃんならどこの家にもいるでしょう」

「ちがっ…おばけ…おばけ…う、うぅぐす」

 おばけ…?モヨコは絢香の肩越しに家の中を覗き込む。

 そこには天井から逆さまにぶら下がる、髪を振り乱し額から血を流す少女。にやーと唇を吊り上げ女は言う。

「おばけじゃないよぅ…幽霊だよぅ…」

 ボソボソと低い声が響き渡る。

「ど、どっちでも、どっちでもいいから早く消えてよっ!もう!!」

「いーやーだー」

 なんて言いながらゆっくりと手を絢香に向かって伸ばそうとする。それがピタリ、と止まった。

 まじまじとモヨコの顔を見つめる少女は何かに気づくとグルンと正位置になる。つまり普通に頭が上にきてるってこと。

「あーうわーすごい久し振りだねーモヨコちゃん。元気にしてた?わたしはこのとおり元気だよ」

 なんて血まみれのセーラー服のまま力こぶを作ってみせる幽霊。緊張感がなさすぎるその口ぶりにはもちろん聞き覚えがある。

「…いえ、あなたはもう死んでいるじゃないの」

 口では冷静さを装いながらもモヨコも実はさっさと逃げ帰ってしまいたかった。ただ肩にしがみつく絢香がそれを許してくれない。

「あやかちゃーん幽霊ですよーおばけじゃないよー」

 幽霊は絢香の耳元でぼそぼそ呟くが絢香はしっかり目を閉じて耳を塞いでイヤイヤをする。

「聞こえない!!聞こえないもん!!!近代文明が産み出した科学という万能の武器が!!!今!幽霊という幻想を打ち砕いたのだーー!!!」

「どっこいこれが現実です。幽霊です。ほらほらー」

 絢香の頭を幽霊の腕が貫通。物質透過スキルを身に着けているらしい。

「うわーっうわーっ」

 ますますしがみつく力を強める絢香。いい加減首が苦しい。

「と、とりあえずそれやめてくれないかしら?話が進まないじゃない…げほっ」

「だって離したら逃げる!!一人になる!!」

「逃げ、ゴホッ、逃げないから…」

「信じられない!」

「友達なんだから信じてよ…」

「そーだよーモヨコちゃんは暗いけどいい子なんだからねー」

「あの、幽霊さんあなたが原因なんですけど。あとわたし暗くないですから」

「いや、もう一週間も経つのに毎日驚いて怖がってくれるから嬉しくってついー」

「そりゃ天井からぶら下がってたらなれるわけが…って毎日だったらなれるかな、うーん…」

「あいかわらず変なことに悩んでるねー」

「おばけーおばけーうぅぅぅ」

「井ノ口さんにいたっては幼児化してしまったし…」

「ちょ、ちょっとやりすぎたかな…しょうがない」

 つぶやいて幽霊は少し輪郭が揺らぐ。それが再び定まる頃には青白い長い髪の少女に姿に変えた。ただ髪の色が薄水色、そして向こう側の景色が気持ち透き通って見える辺りやっぱり彼女が人間ではないなにかということを証明している。そして右肩の後ろには緑色に燃える火の玉も浮かんでいる。

 整った容姿に特徴的な大きな瞳。それが彼女の年齢を実際の(生前の)年齢より少し幼くみせる。

 そしてモヨコはこの顔は知っている。というよりも幼馴染というか近所に住んでたお姉さんというか…

「ほら井ノ口さんおばけもちょっとはマトモな見た目になったから落ち着いて」

「ほ、ほんと…?」

「あの、地味にその言い方傷つくなー、なんでだろ」

 ゆっくりとモヨコの首に回していた腕を緩めると恐る恐る絢香は振り返った。

 そこでやっと一息つく。

「な、なによ、最初っからその見た目でいなさいよね!毎日性懲りもなくあんな血だらけでぶら下がっちゃっていつまでも驚くと思ったら大間違いよ!」

「はーい、そうですねー」

「うん、ほんとそうだよねー」

 ニヤニヤ返事する幽霊とここぞとばかりそれに乗っかるモヨコ。

「わたしがびっくりしたり怖がったりしたっていうの!?」

「はいはい、してないしてない」

「絶対そんなこと思ってないでしょ…まぁいいわ、とりあえず中に入ろ。話はそれからよ」


 ということで客間に移動すると二人と幽霊はちゃぶ台を囲む。引っ越してきたばっかりのせいか物が少ない。壁にはカレンダーもかかってないしテレビとカーテンと座椅子だけだ。

 絢香はと隣に座っている?幽霊に手のひらを向ける。

 そして苦々しい表情をしたまま呟くようにとなえる。

「モヨコ、紹介するわね。これがこの家に取り付く幽霊のえっと…その…え、エル=ラヴリ」

「っ…!」

 思わず肩を震わせるモヨコに絢香も顔を真っ赤に染めた。

「ちょ、笑いたいのを我慢してるでしょ!わたしだって恥ずかしいよ!!なんなのよその名前!!」

 ビシッと指を突き付けられても幽霊はのほほんと笑うだけだ。

「えーだってわたしかわいいし愛らしいからラブリーでいいでしょー」

「ま、まさかその名前幽霊さんが自ら考えたの?」

「モチのロン!」

「いい年してなにやってるんですか、若林愛さん…生きてたらあなたもう成人ですよ…」

「お、女の子の歳を勝手にばらすのはよくないと思うなモヨコちゃん!!」

「え、なにこの緊張感のなさ…もしかして二人は知り合いなの?」

「まぁこんな田舎だし…」

「子供も少ないしねぇ…」

「だったら多少歳が離れてても」

「一緒に遊んだりとかは割としたねーわたしが高校に行くまでは」

「なんだろう、わたしの家なのにこの疎外感は…」

「っていうかこの流れだともしかして井ノ口さんに呪いかけてるのは愛さんってことになるのかしら?」

「いやいや、そんなことないない。ないよーそれだとわたしがまるで悪霊みたいじゃない」

「人の家にずっといる時点で充分悪霊だって気づいて欲しい…」

「そんなこと言われてもここはわたしの家でもあるしなー」

「まぁ確かに元、愛さんのおうちではありましたね、でも愛さんは…」

「そう、わたしはこの家で殺されてしまったのでしたー」

 あっけらかんという幽霊のせいで全く悲壮感というものが感じられなくなってしまう。

「し、しかしこうやって被害者が幽霊になって普通に喋ってるとなんか感覚が狂っちゃうよね…本当は重苦しい事件が起きたはずなのに」

 と何故か一番とばっちりを食らっている絢香が思わずフォローを入れてしまうほど。

「じゃあ結局井ノ口さんの頭の上に浮かんでる呪いは一体なんなのかしら…」

「あーあれ、わたしのエネルギー搾取装置」

「はい?」

「…わかってくれる?わたしの苦労が…」

 絢香は深々とため息を付いた。

「だからわたし幽霊だけど、ちゃんとあなた達に見えるよねー?その状態を維持するためのエネルギーを絢香ちゃんから貰ってるの」

「おかげで最近は朝ベッドから出るときの辛さが半端無いのよ…いい加減成仏して欲しいのに」

「だから犯人さえ見つけることが出来ればいつでも成仏するよーわたしはただ復讐をしたいの。

 わたしをこんな目に合わせたアイツを…同じ目に合わせて殺す」

 その時の幽霊の目は幽霊にふさわしく冷たく感情全てを殺していたのだ。

「つまり井ノ口さんに付いているその黒いのを取るにはあの事件の犯人を探す、そういうことかしら?」

「そうそのとおり!あいかわらずモヨコちゃんは物分りがいい!」

「でもわたし推理小説なんて読まないし特に頭がいいってわけでもないけれど」

 とモヨコは絢香に視線をやる。

「あーそれは、まぁ今こうやって自称エルラヴリの名前もわかったからちょっとは事件についてとかも調べやすくなってきたけどさ、ほらわたしまだ来て一週間でしょ?いざどこに調べに行きたいってなったときにやっぱり詳しい人がいないとさ」

「あなた友達多いんだからわざわざわたしに頼まなくても…それに下手したらそれってどれだけ時間がかかるかもわからないじゃない。わたしのお兄様とのイチャイチャタイムが…」

「幽霊からの頼みなんて誰が信じてくれるのよ…」

「まぁ事情はわかったわ。といってももう時間も遅いしちゃんとした打ち合わせは今度にしない?遅くなるとは連絡してるけどさすがに7時は越えたくないわ」

「あ、ホントだ…うーでもわたしとしては少しでも早くこの呪いを解きたいのに…」

 こんな田舎町では塾に通うなんて中学生はクラスに二人もいれば多いほうだ。そしてほとんどは遅くても部活をやって帰るぐらい。

 モヨコはカバンを手に取る。絢香としてはまだ全然本題に入りきれていないのでまだまだいて欲しいのだが肝心のモヨコといえば変な所で落ち着きがあったりまさかの幽霊が顔見知りだったりのせいで思ったよりこんな事態に対して興味を示してくれないようだ。

「じゃあわたし帰るね」

「そしてその後モヨコの姿を見たものは誰もいない…」

「変なエンドロールはいらないわ」

「う、つれないなー久しぶりにあったっていうのにー」

「それより井ノ口さん、ごめんね、なんかすごい中途半端なところなんだけど…ほら、わたし早く帰ってお兄様と」

「あの、もうそのネタマジでいいわ…聞きあきた」

「あ?ネタ?もう一度言ってもらえる?」

 とっさに教室でのモヨコがよぎった。どうやらお兄様については言葉を選ばなければいけなかったのだ。

「な、なんでもないわ、お兄さんと仲良くね。とりあえず明日まってるから」

「わかればいいのよ」


 過去を振り返るなとか、過去からは逃れられないとかそういう言葉がある。一見矛盾しているようにも思える言葉だけれど実際は何一つ矛盾していない。どうせ逃れられないなら見てみないふりをして前に進むしかない、そんな言葉に置き換えることが出来るからだ。

 あの日の事件のことをモヨコは出来れば思い出したくはなかった。今でもありありと思い出せるものものしい雰囲気に包まれた家。警察官、パトカー、立入禁止のテープ、ビデオカメラを持ったテレビクルー。そのすべてがこんな場所には場違いだったから忘れようがないだろう。たしかにそれもある。

 そのほとんど全てはモヨコの思い出したくない理由とは一致していなかったのだった。

 夕暮れの赤がほとんど黒く染まろうとしている時間、アスファルトで舗装されただけの中央分離の白線もないような田舎道をモヨコは歩く。長く黒い影だけを引き連れて。

 若林愛の顔は二度と見たくなかった。ましてやいまの彼女は復讐に燃えた幽霊だ。その矛先はひょっとしたら自分の方へまで向いてくるかもしれない。


 あの日も同じようにこの道を歩いていた。違うのは今とちがって背負っているものがランドセルだったということぐらいだ。いつものように教室からはぽつねんと浮いていたモヨコだがその日は運が悪かった。悪乗りしたバカな男子に下駄箱の靴を隠されたせいで帰り支度を整えるのが遅くなってしまいもうすっかり夕日すら沈もうとしていた。

 数日前の記録的豪雨が過ぎ去った後のせいか空には全く雲がなく夕焼けが降りていくのがはっきりと見える。

 小学生の彼女にとってはこんな時間に帰ってはもう親に怒られるのもほぼ確定してしまう、気が重く足取りも重い帰り道。

 声をかけられた。

 振り向いた。

 記憶の中のその表情はもう口元を薄らぼんやりと思い出せるぐらいで目鼻顔立ちもどんな髪型をしていたのかも思い出せない。ただこんな田舎町だ。余所者ということだけはすぐ分かった。

「お急ぎのところ申し訳ありません。わたし、若林さんのお宅を探しているのですが」

 馬鹿丁寧な言葉遣いだったと思う。少なくとも大人が子供に向けて使うような語り口ではなかった。モヨコは素直に教えた。どうせ通り道であったのだし。そしてすぐにまた踵を返して帰り道に足を向けようとした時、そいつがモヨコの肩を掴んで振り向かせた。怯えて震え上がるモヨコの目を覗き込むようにそいつはしゃがみ込むとさっきよりもより丁寧に、だけどその中身には全く尊敬や遠慮なんてものが含まれていない暴力的で威圧的な物言いで尋ねる。

「お嬢さん、わたしの顔が見えますか」

 全く意識していなかったモヨコは地面に向けていた目を恐る恐る上げる。

 息を飲んだ。上げかけた悲鳴が消えた。音も空気も匂いもなにも感じることが出来ずに感覚全てが視界に注がれた。

 そいつの顔は口から上は真っ黒な靄に完全に包まれていた。何度も見たことがある黒い靄。同じ、だけど違う。その黒は禍々しいとかヨクナイモノとかじゃなかった。

 背中にじっとりと張り付く汗は暑さのせいじゃなかった。手足がブルブルと震えている。指先まで汗が伝わり落ちそうだ。

「アハ!アハハハ!アハアハアハアハアハ!!」

 さんざモヨコの耳奥を貫くように狂った笑いが宵闇に響いた。およそ理知ともおかしさとも違ったところから発せられる笑い声。

「アハハハハハハハ!!」

 逃げ出そうにも足は完全にすくんでしまって絶望に染まった目で力なく男を見上げることしかできない。永遠に続くように思われた男の笑い声も実は一瞬だったのかもしれない。

 笑い声は止んでいた。そのことに気づくのにモヨコはどれだけの時間を要したのだろう。

 そいつの手が頭にふれいていることでやっとで意識が現実に戻ってきたのだ。この瞬間ほど死をイメージさせられたことはない。そいつの手がゆっくりと動いている。頭をなでられているということに思い至るまで数秒を要した。

「引き止めてごめんね、道案内ありがとう。とても助かったよ」

 感謝も謝罪もそこにはないことを知っている。けれどモヨコはコクコクと頷くことしか出来ず、そいつはそのまま若林愛の家へと歩いて行く。

 その姿が掻き消えてからなぜにモヨコはあの顔の黒い靄が今まで見たものと全く違うのかという理由に気づいた。今まで見てきた黒い靄は全てその人に危害を与えてきた。それは怪我であったり病気であったり。だけどそいつのそれはそいつ自身に何か良くないことを起こす、そんな雰囲気が微塵も感じられなかった。

 結果を先送りせずに遠回りもせずにいうならこういうことだ。あいつが、あいつこそが黒い靄を振りまくものなのだ。理論も理屈も根拠も何も無いことはモヨコだってよく知っている。だけどこれこそを確信というのだろうということもモヨコは知っていた。

 そしてその日の夜にけたたましいサイレンの音が聴こえモヨコは事件の発生をしる。若林愛が殺された。あいつのことは誰にも言えない。モヨコは暗い部屋で一人布団をかぶってがくがくと震え続けるだけだった。こんな時はお兄様にこの手を握っていて欲しいのにと思いながら。

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